04
「来たのか」
「そりゃあ、何があってもごはんのためなら」
「そんなに貧しい学生が今の時代にいるとも思えんのだがな」
「それは偏見ですって、旦那」
「おまえはどこぞの客引きか」
「あれ?そういうところに行くわけ?」
「そういうところってどういうところだ」
「またまた、ごまかしたって無駄ですぜ、旦那。由香子ちゃんの目は誤魔化せません」
ひょっこりと宣言通りに金曜日の夕刻に現れた澤田由香子は、あっという間に吉井のぴりぴりとした雰囲気を一変させ、会話も上滑りしながら明後日の方向へと向かっていく。この棟そのものに女子学生が少ないせいか、偶然すれ違った学生も興味深そうに振り返る。さすがにあからさまに由香子に対してそういう視線を送るものこそいないものの、平静を装いながらどこまでも好奇心旺盛に彼女の素性を明かしたいという欲求がひしひしと伝わってくる。
食堂で感じた居心地の悪さを再び味わうことになった吉井は、一瞬後悔をしたものの、こんな状態もすぐに慣れてくれるはずだと、聞き耳を立てているであろう研究室の学生を牽制するように事務的な会話を進めようとする。
「ということで、はじめるならさっさとはじめろ」
「何が、ということで、かわかんないけど、まあいいや。じゃあ早速はじめさせていただきます」
由香子は、この後の報酬として食べたいのであろうメニューを口ずさみ、さらには勝手にメロディーを付け加えて楽しそうに掃除をはじめる。その姿にどこか安堵を覚えた吉井は、わざとらしく咳払いをして、対面に有る主に学生が在籍している居室へ赴く。そこは、20畳ほどの元実験室を研究室兼学生の居室にしたもので、学部四年生から博士課程に在籍している学生までもが個人に一つずつ机をあてがわれ、そこで論文の読み書きや、季節によってはテスト勉強をするための空間となっている場所である。当然、そこの場はある程度の私語はあるものの、コアタイム内にはどこか緊張感を伴った場所であるべきはずである、にもかかわらず、今この時点では学生達は別の緊張感に包まれていた。つまりは、前回に引き続き、突然現れた妙齢の女性の正体が何者なのかを探求したくて仕方がない、という男としてはシンプルすぎる欲求だ。主だった連中が固唾を飲んで吉井と由香子の会話を盗み聞きしようと、それこそじっと息を潜めて聞き耳をたてていたようだ。
そんな空間へ突然片方の当事者であるところの吉井准教授が現れたものだから、大方の学生はあからさまに挙動不審な態度をとりながら、大慌てで手元にある教科書や論文を読んでいるふりをして誤魔化そうとしている。
そんな学生に気がつきつつも、素知らぬふりをして、吉井は簡単に彼女の事を紹介しておく。
「まじっすか?」
最初に口を開いたのは、たいして彼女に興味をひかれていなかったドクターの学生だ。
「嘘をついてどうする」
「いえ、かねがね思っていたんすよ。あの魔窟はないなって」
そういう彼のデスクは綺麗に整頓されており、そこに置かれたマグカップも他の学生のものより綺麗に扱われている。周囲を見渡せば、実のところ吉井と似たり寄ったりの有様で、どう考えてもここの研究室そのものが、そういうものに対して無頓着なのか不得手なのかそのどちらであることを雄弁に物語っている。
「それに、言っちゃあなんですが、ここもひどいと思いませんか?」
「それは・・・・・・まあ。とりあえず漫画は持ち込むな」
男子学生の巣窟らしく週間少年漫画の雑誌が堆く積み上げられた地面を一瞥し、忠告を与える。小さく、それでも数多い学生からの不満の声を一刀両断し、一刻も早くそれらを片付けるように命令する。
「そもそもそんなもの持ち込むほうが悪い」
コアタイム外であろうとも、そのような意味の私物を公共の場所に放置しておくことを嫌う吉井は、嫌がる学部生にそれらをゴミ置き場へと処分するように促し、ドクターの学生もそれに追随する。
「とりあえず掃除当番は決まっているんだから、今以上汚すな」
「彼女に頼んじゃだめっすか?」
「アホ。おまえらも学生だろうが」
その点ではあまり強い事を言えない吉井が、その話題を皮切りに自分の居室へと引き上げる。
程ほどに好奇心が満たされた学生達は、あっという間になくなってしまった雑誌が詰まれていた場所を未練がましく見つめながら、もはや彼らの興味はこれからどのようにしてこの教室を維持していくか、という問題へと移っていった。
「終了、と」
仕事が一段落を終えた吉井は、かかりきりになっていた書類から視線をはずす。
ふと、見慣れない物体が来客用の椅子の上でゆらゆらと揺れている事に気がつき、出来うる限り静かに立ち上がる。
そこには、いつのまにか掃除を終え、舟をこぎながら転寝をしている由香子の姿があり、彼は一瞬どうして彼女がここにいるのかがわからなくて混乱してしまった。
―――そういえばバカ正直に来やがったんだ、こいつ。
そんな失礼な感想をいだきつつ、吉井はできるだけ彼女に触れないように起こそうと試みる。
「おい、風邪ひくぞ」
だが、そんな彼の思いやった行動など慮ることなどできるはずもなく、彼女は思いのほか深く眠ってしまっているようだ。首が上下にこっくりこっくり揺れている状態でこんなにも深く眠れてしまう彼女に感心しつつ、当り障りのないであろう肩を揺さぶりながら由香子を起こしにかかる。
「おい」
「・・・・・・」
「おい!」
数度声を掛けたのち、最後に耳元で大声を出す事で彼女はようやく目覚めることができた。
「あれ?」
「よだれ」
「え?うそ?まじで?」
「うそだ」
慌てて指先で口元を確かめながら恥じている彼女、あっけなくその冗談を暴露する。
「・・・・・・趣味悪」
「なんとでも言え。というよりもこんなところで寝る方が悪い」
「待ちくたびれたんだから、仕方ないじゃん」
「別に途中で声を掛ければいいことだろうが」
「だって、あんまりにも真剣に仕事しているからさ」
確かに、仕事に集中しているときの吉井は、いや、普段でもどちらかというとそうなのだが、声を掛けにくい雰囲気では有る。だが、目の前の少女は、そのような気遣いなどまるで関係がなさそうな人種のうちの一人だ。由香子がそのような気遣いを見せること自体が意外で、思わず黙り込む。
「んーー、よう寝た!」
首を数度回し、両腕を上げて肩のコリをほぐしながら彼女が呟く。あまりに無防備な姿で、どこか吉井を落ち着かなくさせる。
「腹減っただろ」
「むちゃくちゃ空いた」
「とんかつでも食べに行くか」
「うわ!どうして由香子ちゃんが食べたい物がわかったわけ?」
「お前が歌っていただろうが!さんざんとんかつとんかつって、奇妙な節までつけて」
「そうだっけ?まあいいや、もうムチャクチャとんかつの口になっちゃったから、ほかのものは却下」
「ひょっとしてそのとんかつってあそこか?あのインドカレーの隣にある」
「そうそう、あのトンカツ屋」
「やっぱりそうか・・・・・・。あの値段の割にはボリュームがあってなおかつご飯が食べ放題っていう、うちの学生ども御用達のあの店か」
「ピンポーン」
覚悟をしていたとはいえ、由香子の言うあの店は、すでに食べる量がピークを越して何年もたつ吉井が足を運ぶには少々躊躇われる店である。しかし、無邪気に喜ぶ由香子の姿に何も言えなくなってしまった吉井は、気がつかれないようにため息をついて、彼女とともにその店へと赴くこととなる。結局、三度彼女の食欲を見せ付けられ、自分の年齢を実感するとともに、まだ彼女は自分とは違って若いのだという事実をどこかさびしく感じてしまった。