4・春に(こんな恋シリーズ・番外編)

「桜の季節もよさそうですね」

人のいい笑顔で微笑む彼の横にいるのに、今の言葉で過去へと引きずり込まれそうな不安を感じる。
もう二年もたったというのに、私は未だに何かに囚われているのだと自嘲する。
そんな私の心を読み取ったのか、何も言わずに頭にニ、三回手を置いて元気付けてくれる。
さりげない優しさに癒される。
だけど、何かが私の中へと浸食していく。

足りない。

彼は側にいてくれるというのに。
我がままだ。
こんな自分はやっぱり嫌いだ。

 誕生日を隠していたことで、響さんとの間に少しだけイザコザが起こってしまったけれど、 結局のところ、彼の寛容な心でよりいっそう仲良くなれた気がした。
私は彼に甘えている、そんなことを情け容赦なく自覚させられたわけでもあるけれど。

「千春さん?」

穏やかな視線を向けてくれるこの人は、いつまで私の側にいてくれるのだろうか。

「なんでもない、です」

笑顔を作る。



「紅葉にはまだまだですねぇ」

夏が長かったせいか、未だ青々とした木々を見つめて呟く。

「そうですね、色づいたらまた綺麗そう」

いつのまに手をつないで歩くようになったんだろう。
あくまで自然に二人手をつないで、遊歩道を歩く。

「えっと、今日泊まるところってどんなところですか?」

あの日約束した旅行がやっと現実になったのは十月に入ってだいぶたった頃。学会だの論文だのに忙しかった彼は、週末のデートもお茶をする程度といったことがしばしば続いていた。やっと取れた土日の休み、私もバイトを休んでこうやって響さんと旅行に来ている。

「はあ、それが良くわからないんですが研究室の秘書の方が強力に勧めてくださいまして」

あまりそういった事に詳しくなさそうな響さんが答える。

「じゃあ、二人で楽しみですね」

握っていた手に力をこめられる。
彼の隣にいられる幸せを噛み締める。
二人して景色を楽しみながら整備された山道を散策する。
山だからなのか空気が少しひんやりして気持ちがいい。

「そろそろ、いきましょうか」

そう促されて、駐車場へと歩く。
背の低い私にとってははるか上にある響さんの顔を見上げる。
ふと彼の視線が降りてくる。その瞳に心臓をわしづかみにされてしまった。
今さらながらに照れてしまう。
慌てて視線をはずして俯く。これ以上は心臓に悪いかもしれない。
そんな私にはお構いなしに、彼は私の両肩を包みこみ、その胸の中に収めてしまう。
すっぽり収まった私、聞こえてくるのは響さんの鼓動の音だけ。規則正しいその音に、 落ち着かなきゃっていいきかせるけれども、とても無理。
頭に口付けを落として、にっこりと微笑む。
だから、響さん本当に心臓に悪いです、その笑顔。
朱に染まったであろう顔をこれ以上見られたくなくて、足早に車に乗り込む。クスリと笑いを漏らす彼の気配がする。
幸せすぎて眩暈がしそうだ。そんなことをぼんやりと考えた。
響さんの運転でたどり着いたお宿はシンプルだけど綺麗なコテージだった。真ん中のフロントを中心にしていくつかのコテージが独立して建てられている。

「えっと、一棟貸切?」

結構な広さの建物を指差し、確認するように呟いてしまう。

「そうみたいですよ、それぞれが独立していて、子供づれでも安心だ、と話していましたから」
「・・・・・・、確かに」
「ちょっと待ってください、受付を済ませてきますから」

そう言って、フロントの方に行き、手早く受付を済ませる。学会のための出張が多いせいか、こういうところはとても手馴れている。

「千春さん?」

部屋の鍵を手にし、やわらかい笑顔作る響さんにまた心臓が高鳴る。
これから一晩二人っきりですごしたら、どうなっちゃうんだろうか。そんなことを考える。
案内の人に連れられ、建物の中に入る。簡単に設備の説明をしてもらい、軽く会釈をした後、 その人はパタンと扉を閉めて帰っていってしまった。
取り残されたような気分の私は、慌てて周囲を見渡す。
二階分ぐらいありそうな天井に圧倒される。圧迫感がないと部屋がとても広く感じる。
ミニキッチンがついたリビングとその隣には八畳ぐらいの和室。それだけでもとても広いのに、 先に探検していた響さんに呼ばれて行ってみると、そこにはこの部屋専用の露天風呂がついていた。しかもなんだか異様に大きいような。

「ここはちゃんと温泉らしいですから、楽しみですね」

あくまでにこやかな彼に再び緊張する。
もしかして、一緒に入るとか、なんてことはない、よね。

「一緒に入ります?」

こちらの考えを見透かしたような発言に、一瞬で身体が熱くなる。
何も言えない私の頬に触れ、穏やかな口調で話しかけてくれる。

「えっと、千春さん。そんなに緊張なさらないで、あの、こちらにも緊張が移ってしまいます」

そう言って、彼の胸に抱きしめられる。ますます照れて緊張する私に彼の心臓の音が聞こえる。
いつもより速度の速いその鼓動に、彼も緊張しているのだと、初めて気がつく。
私よりも年上で、働いていて、余裕のありそうな響さんでもそんなことがあるのだとわかった瞬間、少しだけ心がほぐれる。


どちらからともなく見詰め合った形となり、思わず俯いてしまう。

「夕食を食べに行きましょうか」


穏やかな響さんの声に促され、彼の後をついていく、手をつなぎながら。
こうやって彼の背中を見上げることが多いのだけど、密かに気に入っている。肩から腕にかけてのラインだとか、華奢に見えて実はしっかり筋肉がついているところだとか、私とは違う男の人を感じさせてくれる上に、彼からの視線に晒されないなんて、見つめ続けるのに都合がいいのかもしれない。
今も飽きることなく見つめてしまう。ずっと私はこの背中を追いかけていけるのかな。漠然とした不安が足元を掠める。
不意に振り向いた彼と視線がかち合う。少しだけ茶色がかったその瞳に吸い込まれるようにして視線を逸らすことができない。繋いだ手に力が込められる。
響さんは私の手を持ち上げ、手の甲に軽く口付けを落とす。
響さんの眩暈がしそうなほどの甘い行動に、息が止まる。
彼の方は何事もなかったかのように微笑んで、再び私の手を握りレストランへと歩き出す。
弾みっぱなしの心臓を落ち着かせるように深呼吸を繰り返しながら歩く。
不安を掠め取っていくような響さんの甘い行動にいつもとは違うため息がでそうになる。
食事、喉を通るんだろうか―――――――――――――。





 予想に反して、というか、あまりにも料理がおいしすぎて食べ過ぎてしまった私は、響さんに敷いてもらった布団の上に転がっている。 響さんは部屋付きの温泉へ、どうやらお風呂関係、特に温泉は好きみたい。

「先に上がりましたよ」

寝室の襖を開けて響さんが入ってくる。
その声に慌てて、起き上がり返事をする。

「あ、じゃあ、入ってきますね」

浴衣姿の響さんに見ほれながら答える。
落ち着いていて、着られているんじゃなくって着こなしている。
やっぱりなんか照れるかもしれない。
いそいでバッグを開けて、着替えを準備する。同じ部屋に一緒にいることは珍しいことじゃない、だけど、でも。
何かをしていないと緊張して倒れてしまいそう。
ため息をついて、バッグを閉める。

立ち上がろうかと、畳に手をついた瞬間、耳元に吐息がかかる。
誰か、だなんて、聞かなくてもわかる。
響さんのもの。
後ろから包み込むような形で抱きしめられる。
お風呂のせいなのか、それ以外のせいなのか、いつもとは違う高い体温を肌に感じる。

「千春さん」

酔いそうなほど心地の良い声音で私の名前を呼んでくれる。
いつのまにか体勢を替えられ、頬に彼の胸板を感じる形で抱きしめられる。


降ってくる口付けに、溢れ出しそうなほどの幸福感に包まれる。
頬をなぞる指先も熱っぽく見つめられる瞳も、すべてが愛しくて。

挨拶のようなキスじゃない。

とても深い口付けを交わす。


やっとわかった。
私には彼が足りない。
もっと深く愛して欲しい。
もっと深く愛したい。


彼が、足りない。


静かに布団の中へと沈んでいった私は、包まれるような愛情にくるまれる。
落ちていった記憶の中で、私を呼ぶ彼の声が刻まれる。深い愛情とともに。




 次の日、響さんより早く目覚めた私は、今自分が置かれている状況を考えて赤面する。
裸の響さんと―――――――――――――私。
枕元にあるはずの浴衣を取ろうと身を起こそうとするけれども、響さんががっちり私を掴んでいて身動きが取れない。
無理やり起きたら、起こしてしまうだろうし。
どうしようか途方にくれそうになったところで、響さんの挨拶が聞こえる。

「おはようございます」
「あ・・・・・・。おはようございます」
「どうしました?」
「あの、お風呂に入りたいな、なんて」
「そういえば、まだ入っていませんでしたよね」
「そういえばって。響さんが・・・・・・」

顔を見ることができなくて胸に顔をうずめて答える。

「一緒に入りましょうか」
「え?いいえ、遠慮します」

クスリと笑う響さんの声が聞こえる。

「まあ、またの機会に」

冗談なのか本気なのか良くわからない響さんはそっと手の力を緩めてくれる。
ひったくるようにして浴衣と着替えを手にし、逃げるように風呂へと駆け込む。

やっと念願の温泉につかる。昨夜のことを思い出そうとするとのぼせそうなので、できるだけ意識を他へと向ける努力をする。
半露天風呂のお風呂からは朝の空が良く見える。
今日もどうやら天気がいいらしい。このまま彼とドライブなんていうのも楽しいかもしれない。
昨日話していたみたいに、お花見の季節もいいだろうな。春になったら、再びこうして一緒にいられるであろう未来を想像する。


すでに明るくなった秋空を見つめて幸せなため息をつく。



12.11.2004
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