「ひ、姫?」
何気なく道場の入り口を眺めたら、本来ここにいるはずのない人間がいた。
しかもその人が俺の思い人だったりするものだから、もう。
今までの稽古のせいだけではなく心臓がバクバクいっている。
「あれ?和奈、どうしたの?」
「部活中にごめんなさい。ちょっと体調が悪いから先に帰るって言おうと思って」
道場中の人間が彼女に振り返ってその顔色を窺う。確かにいつもの白い肌がやや青白くなっている。
「熱?」
さりげなく額に手をやるその姿すら様になる。くやしいが二人はとてもお似合いだ。
先ほどから、他人が入り込むスキを与えないこの二人は学年、いや学内でも有名な恋人同士だ。
悔しいぐらい男前な高柳祐貴と儚げな美少女酒口和奈。
そして、二人をただ遠巻きに眺めているだけしかない俺は空手部の山田仁。もう平凡すぎる容姿と中程度の成績を持つ目立たない生徒・・・・・・。言ってて悲しくなるな。
部員が二人を注視している中、もう一人酷く目立つ人間が近寄ってきた。
美貌(と同級生が言っていた)の男性教師、鈴木雄一郎だ。
どうして高校教師をしているのかわからない容姿と常に無表情な顔、
おまけに長身で俺より足が長い。そんな独身教師がもてないわけがなく、
全校生徒の人気を祐貴と二分しているとかいないとか。腹の中では何を考えているかわからないけど、とりあえず笑顔の祐貴のほうが人気が高いとは思うが。
「調子が悪いなら、俺が送っていってやろう」
「どこから湧いてきた、変態教師」
今、二人の間に火花が散ったぞ。下級生達は可哀想に後退さってるし。
なんだか冷たい空気まで流れてきた。
なんとなーーく、祐貴が鈴木先生のことを好きではないことは感じ取っていたが、まさか姫が関わっていたとは。
「山田先輩、あのぅ」
後輩の一人がおずおずと話し掛けてくる。あれの雰囲気に気圧されたのか?
「先輩!あそこだけ輝いてる!!」
頬を染めながら指差して言うことはそれか!!おまえは。
あまりなセリフに腰が抜けそうになる。
まあ、確かにあの三人が固まれば、一種そこは亜空間だよなぁ。
「く・る・まで送っていってやると言ってるんだ、その方が彼女の身体にも障らないだろうし」
「そこまでしてもらういわれはありませんから」
お、姫が抵抗している。彼女はその人形のような容姿に似合わず、はっきりものを言う。
「あんたの車に乗せたらなにされるかわからないですから」
「病人相手にどうかなるほど、不自由してないから」
馬鹿にしたような目つきで薄く笑う。
鈴木先生の笑顔(?)を初めて見た気がする。周りの部員達もその出来事に驚いている。
「和奈に対することではあなたの信用度はゼロどころかマイナスです。彼女の髪を見てもまだいいますか?」
夏休みが終わり、新学期が始まった日に一瞬にして駆け抜けた情報がある。
酒口さんが髪を切ったという考えてみればどうってことない情報だ。だけど、彼女の長くまっすぐな黒い髪に執着していたものは数多く、何の用事もないのに彼女の教室に確かめに行く生徒の姿が後をたたなかった。そういう俺も確かめに行った一人だが。
現在の彼女は所謂おかっぱと言われる髪型をしている。前より少し幼く見えて、
近寄り難い雰囲気が薄れた。俺としてはこっちの方が好きかもしれないんだけど。
今の二人のやりとりでは、よもやそんなところまで鈴木先生が関知していたのか?
「それは俺の本意ではない。もうそんな危険はないから信用してもいい、な、和奈」
部員達がどよめく。
もちろん俺も驚いた。まさか教師が一生徒、それも姫を呼び捨てにするなんて。
しかも無表情な先生なのに呼んだ名前に微かな甘さが漂うおまけ付き。
「こんなところで呼び捨てにしないで下さい」
「常識がないわけ?和奈が困るでしょ」
彼女を庇うように胸に抱きしめる。やっぱりなんていうか絵になるけど、こんなところでやるなよな。
部員達が眼を奪われ、もちろん俺自身も気になり稽古どころじゃない。仕方がないので祐貴のそばまでいく。
「祐貴、いつまでも立ちっぱなしじゃ彼女が辛いだろ?それに今は部活中だ」
一瞬彼と彼の視線が俺を貫いた気がする。ちょっと、いやマジ怖い。そんな目で睨まれたら怯むだろうが、誰だって。
「山田君、ごめんなさい。ちょっと伝言するだけのつもりだったのに」
「あ、ヒメじゃなかった、酒口さんが悪いんじゃないから」
名前を覚えてもらったことに、なのかいつになく動揺してしまう。
三すくみならぬ四すくみ?それぞれに固まった瞬間、彼女の後ろからにゅっと腕が伸びてきた。
ちょっと日に焼けていて、綺麗で適当に筋肉がついているこの腕の持ち主は。
「かーずな。何やってんの?」
「美紀!!」
「あれ?熱っぽい??」
「あ、ちょっと熱が出たみたいで、先に帰ろうかと」
言いかけた途端に田中さんが二人の男、祐貴と鈴木先生を見渡す。何もかもお見通しって顔をして大袈裟にため息をつく。
「で、取り合いになって喧嘩してるわけね、ばっかみたい」
田中さんは姫の腕を取り、歩き出す。
「和奈は私が連れて帰るから、あんたたちは適当に遊んでなさい」
それだけを言い残して。
余りの素早さにあっけに取られる。
祐貴は田中さんとみて安心して放置していた気がするが。
「あ、部活の途中に申し訳なかった、続けようか」
悪魔のような天使の微笑を湛え、全然悪いとは思ってない祐貴が謝る。形式だけはきちんとしてるんだよ、この男。
その腹の中をどれだけの人が見破っているかはわからないけど。
鈴木先生はと言うとすでにまるっきり興味を失ったみたいで、俺の方を見つつカウンターのようなパンチを見舞って帰っていった。
「あきらめとけ、あれは俺のだ」
他の誰にも聞こえない声量で呟いた言葉。
いや、ちょっと待ってくれ。何が?誰を?
ばれてんのか?
あの一瞬で?
侮り難し、鈴木雄一郎。
でも俺のだっていうのも教師として問題じゃないのか?
色んなことが起こった部活中。それ以降の練習に身を入れることができなかった。
祐貴だけでも不可能なのに、鈴木先生まで興味をもってるだなんて絶望的だ。
あの二人には敵わない、顔も足の長さも性格の悪さも。
いいかげん新しい恋を探そう、身に沁みて思った秋の一日。
結局諦められなくて、その後数年グジグジするなんてことはまだ知らないんだけどな。
鈴木先生が帰った後、部員に向けてお詫びをする。
「個人的な事で騒がせてすみませんでした」
無駄に笑顔。出血大サービス。
「ところで、鈴木先生との会話は聞こえた??」
聞こえてないよね、という無言の圧力。
気圧されて全員首を横に振る。
「そう、良かった。変なことを広める人がいたら僕に言ってね、考えがあるから」
慌てて今度は縦に振る。
「本当にいい人ばかりで良かったよ、この部活」
綺麗に止めを刺しながら、何気ない顔をして部活を続ける。
これで今日聞いたことを他に話す迂闊な人間はいないんだろうな。
笑顔にほだされたのか、脅されたのか。
こいつだけは敵に回さないように。その思いだけはきっと一致しているんだろうなぁ。
俺どうしてこんなのの友達やってるんだろう?
稽古の掛け声だけが聞こえる道場でいつもと変わらない一日が終わる。
今日は何もなかった、そう何もなかった。そう言い聞かせる自分がいた。