嵐のように突然に、若先生と暮らすことになった。
今、部屋の前に立ち尽くしている。私のための部屋だよ、と言われたけれど、本当にいいのかな。
そもそも本当に“結婚”というものをしてしまうのだろうか。
私と若先生が?
信じられない。
まるで夢の中にいるような、不安定感。いつかは覚めてしまうのじゃないかって。
若先生は穏やかに笑っている。
その笑顔が大好きだったけど、もちろん今も好きだけど。
時々、息が苦しくなる。
この気持ちがどうしてなのか、よくわからなくなる。
「香織ちゃん?」
荷物を持ったまま立ちすくんでいたら、若先生に声をかけられた。
彼が自分を呼ぶ声だけがどうしてこんなにも胸を震わせるのか。
「なんでも、ないです」
きっと赤くなっただろう顔を見られたくなくて、あわてて扉を開く。
緊張していたせいか、部屋に入ったとたん、何もないのにつまずいてしまった。
ガタンっと大きな音がして、部屋に荷物が散らばる。
ちょっと痛いけど、大丈夫怪我をしたわけじゃなさそう、あわてて荷物を拾い集める。
良かった、割れ物はなかった。
そんな風に安堵していたら若先生が血相を変えて部屋へ飛び込んできた。
「大丈夫!」
「え?あっと、大丈夫、です」
少しほっとした顔をして、だけど段々私のほうへと近づいてくる。
大丈夫?って顔を覗き込まれる。頬に触れた手のひらのが冷たく感じる。きっと今私の体温は上昇しているに違いない。
「そんなに、緊張しないで」
哀しそうな笑顔で微笑む。
そんな顔を先生にしてもらいたいわけじゃないのに。
今頃になって早季子さんが言っていた意味がわかる気がする。
二人きりで暮らすっていう意味を深く考えていなかったみたい。
毎日がこんなふうじゃ、きっと心臓がおかしくなっちゃう。
「あ…。ごめんなさい」
「香織ちゃんは何も悪いことしていないのに、謝らなくっていいよ」
優しく頭を撫でてくれる。
少しだけ安心する。
どんな関係になってもやっぱり若先生は若先生なのだとそんな当たり前のことに気がつきホッとする。
その日は、緊張疲れがでたのか、そのまま泥のように眠ってしまった。
意外と神経が図太いのかもしれない。
いい匂いで目が覚めた。
あれ?
誰もいないはずなのに。ご近所さんの朝食の匂いがここまで漂ってきたのかな。
なんて、半分夢の中にいるような気分で回らない頭を使う。
ふるふると頭を振って、なんとかベッドから起き上がると見慣れない風景。
ダンボールがいくつか散らばった、まだ整頓しきれていない部屋を見渡す。
ここは…?
呆然としている私にドアの外から声がかかる。
「香織ちゃん、起きてる?朝ごはん用意したけど」
若先生の声。
―――そういえば、一緒に暮らし始めたんだ。
そんな事実を思い出すのに、また少し時間がかかってしまった。
「香織ちゃん?」
返事がないのでもう一度若先生の呼ぶ声がする。
あわてて、返事をする。
とりあえず制服に着替えリビングへと向かう。
コーヒーサーバーを片手に、若先生が朝食の準備をしている。
リビングに入っていった私を見つけると、いつも通りの挨拶降ってくる。
「おはよう」
「おはよう、ございます」
ぎこちなく微笑む。
朝から若先生の笑顔は刺激が強い気がする。それでもそれを上回る幸福感があるのだけれど。
「あの、若先生。明日からは私がやりますから」
若先生の手が止まり、考え込む。
私としては一緒に住まわせてもらっているだけでありがたいのに、それ以上負担をかけさせるわけにはいかない。
「えっと、香織ちゃん。急に言われてもあれだと思うんだけど。その若先生っていうのはやめて欲しいな、と」
まるっきり違うところに反応されて、こちらのほうも面食らう。
「いや、あのね。その格好で若先生って言われるのは、ちょっと、罪悪感が沸いてくるというか、なんというか」
照れたような困ったような顔をして、私から視線を逸らす。私はといえば制服のスカートを眺めながら、
若先生の呼び方について考える。
この呼び方以外呼んだことがないから。一生懸命考えて、なんとか自分なりの答えを出してみる。
「じゃあ、若月さんは変?」
あからさまにがっかりした態度を見せ、ため息までつく。
そんなにおかしいかな。
「香織ちゃん、それじゃあ親父と俺の区別がつかないでしょう。それに結婚したら香織ちゃんも若月になるんだけど」
“結婚”
私にとってはとても曖昧だった言葉が、急に現実味を帯びる。
若先生の口から出て、ほんとうに私はこの人と結婚するのだと自覚する。
そう、来年には若月香織になるのだと。
頬が赤いのがわかる。
だって、顔も手も何もかも熱いのだから。
「いや、香織ちゃん照れないで」
私のドキドキがうつってしまったのか、若先生までもが真っ赤になって俯いてしまう。
「あの、とりあえず名前で呼んでくれる?」
そう言って。朝食を整える。
食べよう、と誘われて一緒にテーブルにつく。
こんなことは今までに何度もあったことなんだけど、この家に二人きりだという事実が妙に私を意識させてしまう。
トーストを食べながら、さっき言われたことを反芻する。
名前、で呼ぶ。
確かに結婚、なんていうものをするのなら、苗字はおかしい、よね。
顔をあげて、若先生の方へ顔を向ける。
「俊也さん」
驚いたような顔をして、次に嬉しそうに顔を綻ばせて先生が返事を返してくれる。
この人の笑顔をもっと見ていたい。
そんなささやかだけどとても大切なことに気がつく。
こうやって二人で生活していくんだな、なんて照れくさくも嬉しく思った。