いつからここが彼女の逃げ場になったのだろう。
あれはまだ私自身が学生だった頃からだから、と、ふとそんなことを考える。

　制服を着た彼女はもうランドセルを背負っていた頃の面影はなく、きっとこれからもどんどん変化していくのだろう、なんて、まるで変化に乏しい我が身と比べて取り残されたようなさみしさを感じ、少し懐古的になっているのかもしれない。次々と少し前の彼女の事が思い出される。
思えば全く笑わない子どもだった。
今からは信じられないことだけど、子どもらしくない顔をして、じっとこちらを見つめていた。喜怒哀楽をどこかに置き忘れてきたのか、だけど、こちらを窺う気配だけは感じさせ、それだけでも彼女がどういう環境に置かれていたのかを薄々感じ取る事ができた。
内面だけじゃない、外面的にも、彼女にははっきりと第三者が気がつくことができる問題が散見していた。つまりは、折れてしまいそうなほど細い手足、残念なことに今でもその名残はあるのだけれど、明らかに栄養不足な顔。
ここが日本であることが信じられないぐらい貧相な子ども、それが彼女に対する第一印象だった。

あとから彼女の母親が長男を偏愛した結果、彼女が放置気味になったせいだと知った。
結婚当初から夫婦仲があまり良くなかったせいか、夫への不平不満を全て長男への歪んだ愛情へと変えてしまったらしい。
そのうち、親父と一緒に食事を取りだして、いつのまにか我が家の食卓に完全に溶け込んでいた。 当時ただの友人だった元妻も交じって。
一緒に過ごす時間が長くなるにつれ、表情が豊かになっていった。
徐々に自分の感情を現せるようになっていく様は、子育てを体験しているようで非常に興味深く好奇心をそそられるものだった。
元妻からはさんざんロリコンとからかわれたけれども。

中学へ進学してやがて彼女の兄が大学へ進学しても母親の関心は彼女に注がれなかったみたいだ。
最近の彼女は自分で家事が出来る以前よりも頻繁に我が家へやってくる。

自覚がない、といえば嘘になる。
もうすでに彼女は自分にとって娘でも妹でもない。

ではなんなのか？

そう問われると答えに窮する。
ただもう二度と彼女があんな目にあうのだけはごめんだ。
誰からも愛情を与えてもらえない生活など想像できない。
ここにくれば少なくとも親父も俺も彼女を愛しているから。
その居場所を取り上げたくない、ただそう願うだけ。



「先生？」

香織ちゃんが心配そうに覗き込んでいる。
自分の思考にどっぷり嵌っていたらしい。

「なんでもないよ」

安心させるように微笑む。

「進路は決めたのかい？」

のほほんと茶を飲みながら親父が尋ねる。

「はい、近くの女子高へ行こうかと思って」

女子高？
今そう聞いて安堵しなかったか？自分。

「もったいないのう、香織ちゃんかわいいから、高校でももてそうなのに」

余計なこと言ってるんじゃない。

「そんなにもてませんよーだ。それにもてても仕方ないですし」

そんなにってことは少しはもててるのか？
確かにかわいいのは折り紙つきだから、もてない方がおかしいけれど。

「将来何になりたいの？」
「看護師さん、カナ？」
「え？」

思わずたっぷり凝視してしまった。
知らなかった、彼女がそんな希望をもっていたなんて。

「じゃあ、看護師になったらここへおいで、わしとこやつの手助けをしておくれ」

本物の祖父のように暖かく微笑みながら将来の夢を語る。
彼女は破顔し、次に涙ぐんで俯いた。
親父がそっと頭を撫でて気持ちを落ち着かせる。

最初はただ迷い込んだだけの家、いつしかここが逃げ場になった。
今は彼女が安心して寛げる場所。

きっと将来は希望をもって仕事が出来る場所になる。

それまでには彼女をもっと支えることができるように、せいぜい仕事に打ち込まないとな。
彼女が立つ診察室を想像しながらそう思う。