「こんばんは俊也いる?」
突然たずねてきたのは元妻。元々は大学の先輩でいつのまにか懐かれて我が家に居候しているうちに結婚してしまった相手。
最近ちょこちょこ家へ現れるようになった。
「早季子さん」
意外な相手の登場に戸惑いを隠せない。
ただでさえ今は香織ちゃんの事で頭がいっぱいなのに。
「なーに、不景気な面してんのよ」
「相変わらず手厳しいですね」
そう、この人には頭が上がらない。年上だってことだけじゃない、彼女が年下でもきっと同じだったに違いない。
リビングには今私しかいない。親父は会合だとかで飲みに行ってしまった。
「久しぶりに飲もうと思って」
悪魔の微笑を湛えた彼女は彼女の好きな日本酒を手土産代わりにやってきた。どうやら夜中まで居座る気らしい。
テーブルの上には空(クウ※関谷醸造)の一升瓶がどんと一本。
二人で飲み干せと?
仕方がないので適当に酒のつまみを用意して、彼女の向かい側に座る。
「何の用なんです?」
「大先生から聞いた」
この人と親父はそういえばメルトモだったな、と思い出した。
「あんた指をくわえてみてるだけ?」
辛らつな言葉が突き刺さる。
でも、あまりにその通りなので答えに窮してしまう。
香織ちゃんに対する気持ちを問われると、自分でも本当のところは良くわかっていないのが現実だ。父性愛なのか兄弟愛なのか、それ以外のものなのか。自分の中の気持ちが複雑すぎて、どれか一つを取り出してみても、しっくりこない。確かに、愛情はある。それは確かなのだけれど、それをはっきりと男女の「愛」だと言って、彼女に告げるのは躊躇われる。
「私は他人、ですから」
「そんなものが免罪符になると思うなよ」
畳み掛けるように攻撃をしてくる。もともと口が達者な彼女だけど、今日はやけに突っかかる。
アジの干物をつつきながら酒を酌み交わす。
本来なら楽しいはずのひと時も、今は背筋に変な汗が流れている。
「じゃあ聞くけどさ、香織ちゃんがどっかのじじいの毒牙にかかってもいいと?」
「いや、その。じじい…、じゃなくて年配の人と決まったわけでは」
「17歳の乙女と見合い結婚しようなんていう輩、まともなわけないじゃん」
どんな根拠があるのかそう決め付けている。
まだまだテンションが上がりそうな彼女にため息がでる。
「具体的に想像できないなら、あんただって香織ちゃんに比べたら充分にじじいなんだから、大学の同級生でも先輩でも、香織ちゃんと並んで違和感がないか想像してみりゃいいでしょうが」
違和感と言われても、と、思いながらも、言われるままに想像してみる。
同級生の鈴木はもうすでにはげかけてるし、高橋は背が低い。後藤あたりはいい男だがタラシだから香織ちゃんをまかせるわけにはいかない。だけど、任せるとフレーズもおかしなもので、自分はそもそも父親でも保護者でもない。だけど、そうは思うものの違和感ばかりが膨らんでいく。先輩で頼りがいがある人もいるにはいる。けど、香織ちゃんと手を繋いで、じゃないな結婚するんだからそれ以上のこと。
そこまで考えて思考がフリーズした。
香織ちゃんと?他の誰かが?
自分とそうなることはまるっきり想像できないが、他の奴がそうなることは腹が立つ。
いったいなんなんだ?この感情は。
「ふふーーん、ようやく気が付いたとみえる」
私の顔色が変化するのを見て取り、すぐさま感情を言い当てる。彼女の勘の良さには参るよな。
「いや、でも」
「まだ言い訳する気?」
静かに酒の入ったグラスを置く。
冷静にできるだけ感情を排した声で訊ねる。
「あんた、私と香織ちゃんを同一視しているわけ?」
痛い言葉を聞いてしまった。
こんなことまで彼女に言わせるつもりはなかったのに。
しかし、言われてみて妙にすっきりした。
そう、私は香織ちゃんを早季子さんと同じポジションに置いているんだ。
早季子さんは大学時代嫌って言うほど我が家に入り浸っていた。
その時親父が聞いた話だと、家庭が複雑で居場所がなかったらしい。
そんなところに無意識のうちに同情して、何も言わずに一緒にご飯を食べたりしてた。
もちろんその当時小学生だった香織ちゃんも一緒に。
早季子さんと香織ちゃんは同じ匂いを持つ者同士だからか、
ただ単に女同士だったからかよく二人きりで話している姿を見かけたりもした。
我が家に馴染んできて、もはや当たり前になりつつあるころ、彼女の精神状態が著しく不安定になっていった。
最初は卒業を気に環境が変わることを恐れているのか、もしくは国家試験のことで悩んでいるのかと思った。
だけど、全く違う理由で足元が定まらない怖さを感じていたらしい。
居心地のいいこの場所は彼女のものじゃない。
だからいつかはでていかなくちゃならない。
でも、自分の居場所はどこにもみつからない。そんな恐怖を常に抱えている。
それが彼女の弱さ。
結局彼女は私と結婚することで無理やり居場所を獲得しようとする。その試みは脆くも崩れ去ったけど。
「あのね、私あなたに恋してたんじゃないんだわ」
離婚した後言われた言葉。
別にそれで傷付いたりはしなかった。ああ、やっぱりなと、その程度のものだった。
そんなことがあったから、香織ちゃん、彼女の存在はとても微妙なものになってしまった。
彼女も家に居場所がない、だからこそここにその居場所を求めた。
そりゃあ、結婚する事で一時的に作り出すことはできるかもしれないが、そんなものは砂上の楼閣、
すぐにでも破綻することは目に見えている。そう、早季子さんの時と同じように。
今回のケースはより深刻だ。少なくとも私は彼女に好意を寄せている。
彼女の求めるものと私の求めるものはベクトル方向が全く異なっている。
だからこそ触れてはいけない。
無意識に自分に課していたブレーキ。
「俊也は何を心配しているの?」
心の奥底まで覗き込まれそうな目。
「私自身は、彼女のことが好きです。そう自覚しました。でも」
お酒が入ったせいか素直に言葉が出てくる。
「でも、とかだって、とかウジウジして」
「それはそうですが、事が事だけに慎重にしないと」
「そうやってぐずぐずしている間に顔合わせ、結納、結婚式、ひひじじいの餌食って進んでいっちゃうんだからね」
最後の発想が飛びすぎな気もするが。
「あのね、いっとくけど、私と香織ちゃんは違うわよ」
「それは、そうですが」
空のグラスにお酒を注ぎながら話しつづける。
「私はね、この家の子になりたかったの」
「は?」
意味が、わからない。
「ここって居心地いいでしょ?大先生はあんなだし」
「ええ、まあ。前からそう言ってましたね」
「そう、だからこそココの子どもになりたかったのよ、結婚はその手段」
「手段って、私は利用されたってことですか?」
にやって笑ってグラスに口をつける。
この人の余裕のある笑みは何かを企んでそうで少し恐い。
「まあ、それに気がついたのは離婚する前だけど、
そのときまではホントにあんたに恋してるって思ってたんだから、利用じゃないもん」
いや、結果論なら利用でしょう。怖いから声には出さないけど。
「大先生の子どもになりたかったんだから、あんたとは兄弟になりたかったってことね、たぶん」
この人と兄弟、は勘弁して欲しい。一生頭が上がらない姉なんて嫌だ。
「勘違いが生んだ結婚、ということですか?」
「そうなるわねぇ、確かに」
すっかり残りが少なくなった一升瓶を尻目に彼女は熱弁を振るう。
「香織ちゃんは少なくとも、あんたと兄弟になりたいわけじゃない」
「それは、わからないじゃないですか。あなただって最後になるまで気が付かなかったぐらいだし」
「あら?大先生は気が付いてたわよ」
「はい?」
それは初耳だ、あの狸爺、ああなることを予想していながら反対もしなかったってことか?
「だから婚姻届は出してないし」
「はあ?」
本格的にちょっと待ってくれ。椅子から崩れ落ちないように体勢を整える。
「確かに署名してはんこも押しましたよ?」
「うん、でも役所にはだしてないから」
頭の中が渦巻状になってるぞ。思考がうまく回らない。
「え?でも離婚届は」
「あれ?あれは気分の問題」
気分って、気分って何?
あまりの出来事に、返事すらできない。酔いなんて冷めた。
「私もね、これは女の勘だけど、香織ちゃんはあなたのことを異性として意識してると思うわよ、ちゃんと」
もうそんな言葉も素通りしそうだ。
彼女はそれから一升瓶を飲み干し、爆弾発言を残したまま軽やかに帰っていってしまった。