「香織ちゃんが結婚する?」
親父から聞いた瞬間地軸が傾いた気がする、局所的に。
「例のほら、おしゃべりな患者さんからの情報」
待合室には必ず一人や二人いるおしゃべりでおせっかいな患者さんの顔を幾人か思い浮かべる。
あの人たちの情報網はくもの巣のように張り巡らされ、おまけに正確だったりする。
「ほんとに?」
だけど確認せずにはいられない。
「ほんともほんと、直接あそこの母親から聞いたらしい」
地面が揺らぐ。物理的なものではなく精神的なもので。
「でも…。香織ちゃんまだ高校生じゃないか!」
吐き捨てるように叫ぶ。
彼女はまだ高校3年生だ。この間来たときには受験がどうのって言ってたじゃないか。
「わしも耳を疑ったが、どうやら本気で本当らしい」
親父の説明によると、香織ちゃんの兄が結婚するにあたって、母親が同居を提案、というより強制だな、したら、
小姑のいる家には行きませんってにべもなく断られたらしい。
あの母親の頭の中でどこでどう変換されたのかはわからないが、香織ちゃんを追い出す、結婚させてしまえばいいという話になったらしい。
「ちょっと待て、なにも結婚じゃなくっても進学して一人暮らしをさせればいいじゃないか、大学生になるんだし」
彼女は近場の医学部付属の医療短期大学を狙っているらしい。
それを期に独立っていうのはおかしな話じゃない。少なくとも結婚するよりは。
「うーーーん、そう思うが、どうせ家を出て行く女にこれ以上金をかけるのが嫌だ、とか、どうせだったら家柄の気に入らない長男嫁への鬱憤を晴らすために、自尊心がくすぐられる家柄の男と香織ちゃんを、って言う話らしい。もっとも、噂の域を出ないが」
ここは今の日本だよな?女に学はいらない?恋愛して勝手に相手を選ばないように?
眩暈がしてきた。
自分専用の椅子に座り込む。
自分が離婚を突きつけられたときよりショックを受けている。
もっとも、アレは自業自得だったからな。
「あーーーー、で、香織ちゃんは?」
「承諾したらしい」
一瞬で椅子から立ち上がり、思わず親父に詰め寄ってしまう。
「冗談じゃない、どうしてあいつが犠牲にならなきゃいけないんだ」
興奮している自分を宥めるような仕草をする。
そんなものでこの憤りがどこかにいくはずもないが。
「香織ちゃんの性格を考えれば、そうなることは簡単に予測できるだろうよ」
皮肉な笑みすら浮かべる。
頭に血が昇ったままの状態でも、それでもなんとかなけなしの脳みそを回転させて考える。
深く椅子に座りなおし、深呼吸をする。
確かに。彼女は親からの愛情に飢えている。幼少期から常に与えられていなかったのだから当然だが。
だから、生まれて初めてとも言える母親からの頼みを断りきれないのだろう。
言うことを聞いたら、もしかしたらこちらを見てくれるかもしれない、と。
周囲から見ればそんな見返りは期待できないってわかるだろうけど、17歳の彼女にはそんなことを考える余裕なんてない。
親を断ち切るには子ども過ぎる。
我侭を言って困らせるには成長しすぎている。
深くため息をついた自分に親父の声が追い討ちをかける。
「高校卒業したらすぐにでも、だそうだ」
真剣にこちらを見据える親父の目を見返す。
「で、おまえはどうする?」
そう言って親父は部屋を出て行ってしまった。
残された俺は座ったまま放心状態。
「どうするもなにも」
後に続く言葉を飲み込む。
彼女は俺のなんなんだ?
俺は彼女の何?
頭を抱えたまま深く思考の闇に飲み込まれる。
何も考えられないまま時間だけが過ぎていく。