いつも居場所がなかった。家へ帰っても誰もいないし、当然返事をしてくれる人はいない。
父は仕事で、母は兄を連れてしょっちゅう実家へ帰っていた。
取り残された私は買い置きしてある菓子パンやシリアルなんかで過ごしていた。
それがどれだけ不健康であるかなんて気が付きもしない。
ある日、向かいの病院のおじちゃんがお菓子をくれた。
子どもなのに顔色の悪い私を心配してくれたみたい。
後からその人は病院のお医者様だって知った。お医者様だから私の身体が心配なのかな?なんて、そんなことを思っていた。
「香織ちゃん一緒にご飯を食べようか」
いつだったかおじちゃんがこう話し掛けてくれた。
その日も両親も兄もいなくて一人きりの夕ご飯だったので二つ返事でくっついていった。
きちんと食事が用意されたテーブルにあまり見かけないお兄さんが座っていた。
それが若先生との初めての出会い。
自分のために揃えられたごはんと言うのが珍しく、どうしていいかわからなかった。
向かいに座ったお兄さんはなんだか機嫌が悪そうだし。
大先生は色々と話し掛けてくれて、ごはんもとてもおいしくて、だけど一言もお話してくれないお兄さんのことが気になった。
やっぱりよその子はここに来ちゃいけないんじゃないかって。
だから大先生がいくら呼んでくれても、ごはんを食べに行くことはしなかった。
あの日までは。
今年の夏みたいに暑かったのを覚えている。
あいかわらず家には誰もいなくて、それでも食料は何がしかあったのでおなかがすくってことはなかった。
先生のお家の裏側には大きな病院が建っているけれど、自宅部分は割とこじんまりしていて、でもお庭なんかがちゃんとある。
その庭にある小さな池の金魚に夢中だったから、しょっちゅう学校帰りに寄っていた。
その日も暑くて、木陰で休みながら金魚を見ていた。
赤いひらひらが綺麗で。
喉がとても渇く、頭が少し痛む。なんだろう?
その頃は脱水症状なんて言葉全くしらなくて、気が付いたら若先生のベッドの上だった。
「ここ…?」
たぶんかすれて声になっていない。
でも一番最初に思ったのはここはどこなのかってこと。
側にいた若先生も意識が戻ったことに気が付いて、すぐに私の顔を覗き込んだ。
いつのも不機嫌な顔とは違う、心から心配してくれる顔。
体調も悪いのにそのことがとっても嬉しくて泣き出してしまう。
「香織ちゃん」
優しく名前を呼んでくれるその声がさらに胸に染みてくる。
その日は結局若先生の部屋に泊めてもらった。
無理をすれば家へ帰れたけど、誰もいない家はとても心細い。
それからずっと若先生は優しくしてくれる。妹や娘に接するように。そのことに不満を覚えたことはないけれど、でも、
先生が結婚したときはちょっとショックだった。大好きなお兄さんを取られちゃうみたいで。
だけど、早季子さんもいい人だったから、少しの間お兄さんとお姉さんが同時にできたような、贅沢な気分を味わえたりもした。
「香織ちゃん?」
あの時と変らない声で呼んでくれるこの人。
「はい、なんですか?先生」
あの頃に比べて私の身長は伸びたけれども、二人の距離感は変らない。
相変わらず兄と妹。
それ以上なんて望んでいるわけじゃない。
この場所がなくなってしまうことが怖いから。
先生が望むならずっとこのままでいるから。
だから、大人になんてなりたくない。
それが今の私の願い。