20・モノクロ(染まらない花・番外編)
そういえばたばこを滅多に吸わなくなったな、なんてことを本数がちっとも減らないタバコの箱を眺めながら思う。 きっかけはそう、環がたばこは嫌いらしい、と気がついたときだったから、われながら呆れてしまう。 こうやって日常に環が侵食していく。 それは嫌な気持ちを生むものじゃなくって、むしろ喜ばしく思ってしまうだなんて。 ―――――――本当にどうかしている。 8つも下の子供に振り回されているだなんて。 大学の同級生に知られたら、なんていわれるか。 仕事が終わり、帰り支度を整えていた時、こんなことを思っていたのがいけなかったのか。 会社帰りの俺を不意に呼び止める声がした。 「久しぶり、啓太」 俺を呼び止める甘さを含んだ声の持ち主は、2年前別れた彼女、高田澄香だった。 「何の用だ?」 「あいかわらずね。用がなくっちゃあなたに声をかけちゃいけないの?」 たぶん、ものすごく不機嫌な顔をしている。 どちらかというと強面で、図体のでかい俺は、少しでも機嫌が悪いと周囲に怖がられる。 それを踏まえて敢えて仏頂面をさらしている時もあるが。 澄香は、そんなことを気にも留めず、馴れ馴れしく話し続ける。 仮にも彼女だったんだから、免疫がついていてあたりまえかもしれないが。 「迷惑?」 「別に」 正直どうでもいい。 なんの感慨も沸かない。 執着心も愛情も。あれほど理不尽に振られて未練を残していたはずだったのに。 こんなおれの態度を不振に思ったのか、ストレートに訊ねてくる。 「彼女・・いるの?」 「いる」 一瞬、驚いたような泣き出す手前のような不思議な表情を形作る。 それでも、彼女なりのプライドなのか、すぐに笑顔を貼り付け余裕をみせつける。 「そう・・・そうだよね。もう2年もたってるもんね」 「悪いけど、用がないんなら、帰る」 今度こそ、傷ついた顔を隠しもせず、絶句する。 「ちょっと。久しぶりに会ったんだからお茶ぐらいいいでしょう」 縋り付かれる。 「悪いけど、そんな時間を割くヒマはない」 時間がない、でも、余裕がない、でもなく。彼女に割く時間がない。 そう言い切る。 「暇なら旦那にでも相手をしてもらえ」 抑揚のない声で言い捨て、置き去りにする。 本当にどうでもいい。 環以外の事を考える余裕がない。 こんな風になった俺を、澄香は笑うだろうか、それとも軽蔑するだろうか。 「澄香に会った」 大学の同級生で当然会社で同期の上山に話しかける。 お互い、休憩中と称し、自販機で購入したコーヒーを片手に雑談中だ。 「へー、あの玉の輿に乗った澄香さんね」 上山は嫌いだという感情を隠しもしない。 まあ、当時の俺の振られ方を知っている奴は、皆似たような反応を示すが。 「何か言ってきたの?」 「いや、別に。というか、言われる前に帰ったっていうのが正解かな」 眠気覚ましに砂糖もミルクも入っていないコーヒーを見つめる。 「そっか・・・・・・。吹っ切れてたんだ。そっかそっか」 自分に確認させるように呟きながら、もう暖かいとはいえないだろうコーヒーを飲み干す。 カップをゴミ箱に捨て、背中越しに一言。 「良かったな」 そういい残して片手を挙げて職場へと戻っていった。 あいつとのことでは、日ごろ能天気なあいつにもだいぶ心配させてたみたいだな。 わりぃ、今度気が向いたらメシおごるわ。 なんて、振り返らない背中に向かって思う。 「啓太さん?」 アーモンド形の綺麗な瞳でこちらを見上げられてしまった。 いかんいかん、今日は環との貴重なデートの日。 しかも環の初手料理、弁当まで持参だというのに。 意外なところで意外な人物にあってしまったせいで、物思いに耽ってしまった。 今は環に集中しないと。 今日はほんとうに柄にもなく、動物園なんていうものに訪れてみた。 もちろん環が行きたいと言ったからなんだけど。 いや、この俺が正直彼女と二人で動物園だなんて、信じられねぇ。 「動物園嫌いですか?」 「や、珍しいだけ」 最近少しだけ言葉がフランクになってきた彼女は、それでもまだ丁寧語止まりだ。 それでも、砕けてきた言葉に親密度が上がったような気がして、嬉しい。 こんなささやかなことで幸せに浸れる自分が嬉しいような悲しいような。 珍しくはしゃぐ彼女がかわいくて、しかも手なんか握れちゃったりして。 その日のデートにことのほか満足して家路につく。 これでせめてほっぺにちゅーぐらいできたら、いうことないんだけど、って、それは望みすぎか。 自宅付近の月極駐車場に車を停める。雨の日なんかは不便だが、家にはガレージが一台分しかないので、仕方がない。 所詮居候みたいなもんだからな、俺って。 上機嫌で自宅の方へ向かうと、そこには、先日突然俺の前に現れた澄香が再び待ち伏せをしていた。 「どういうつもりだ?」 「挨拶ね、ちょっと近くに寄ったものだから」 俺の言葉なんて意に介さずって風に、サラっと答えやがる。 新幹線で2時間以上かかる土地に住んでいて、偶然が2度も続いてたまるか。 「あっそ、じゃあな」 彼女の虚勢を張った部分っていうのをまるっきり鵜呑みにすることにして、彼女の隣を通り過ぎる。 俺の腕に触れる感触。それが何なのか、認識するまでに時間がかかってしまった。 俺の左腕を抱え、学生時代と変わらない勝気な瞳でこちらを睨み付けていた。 彼女の肌の感触。 忘れていたわけじゃない。 「うっとうしい」 だけど、何も感じない。 愛情と欲情は一緒のものだったんだ、そんなことをはっきり意識する。 彼女の身体を振り飛ばさない程度に、左腕を引き抜く。 迷惑だ。 そう簡単に告げる。 泣き出すのかと思った。歪んだ顔を見て。 だけど、彼女は俺の胸を突き飛ばし、手にしているバックで俺の身体を叩き始めた。 吐露する感情。 こんなに振り乱した彼女を見るのは初めてで、それでも心の片隅にでも愛情が存在していない自分を冷たすぎるのかと、 恨めしく思った。 「なによ、まるで興味がないって顔をしちゃって!!!」 指摘されたとおりなんだけど、それを言ったらますます荒れそうで黙っていた。 「罵ってくれたほうが、はるかにましだわ」 叩きつかれたのか、俺のシャツにしがみついて泣きじゃくる。 こんなに激しい一面をもっていただなんて、気がつかなかった。 違う、知ろうとしなかっただけだ。 同じサークルで親しくなった俺たちは、すぐに所謂恋人同士と言われるものになった。 そのときも自宅生の俺は、当時一人暮らしをしていた彼女の家によく転がりこんだ。 暇だけはあったから、割と一緒にいる時間が長かった気がするが、それでも彼女がこれほど自分の気持ちを吐き出したことはなかった。 「付き合っていたときだってそうよ、私ばっかり好きみたいで、啓太は何も言ってくれなかった」 俺なりには表現していたつもりだけど、やっぱりそれは“つもり”でしかなかったらしい。 彼女の不安に気がつかなかったのは俺。 ただ側にいればいい、そんな勘違いをしていた。 好きじゃなかったわけじゃない。 だけど。 それは。 環に会ってしまったら、今までの恋愛が嘘みたいに色あせた。 彼女が悪いんじゃない。 かといって俺が悪いと、開き直るつもりもない。 その時には自分たちなりに真剣だったのだと、そう信じているから。 「確かに俺は口下手だし、それで澄香を不安にさせていたなら謝る」 額を胸に預けた彼女を見下ろす。わずかに震える両肩がこんなにも華奢だったのかと改めて気がつかされる。 ―――――本当に、知らないことだらけだ。 「謝って欲しいわけじゃない」 涙を堪えるしぐさ。だけど、乾いた地面にいくつかの跡を残していく。 「私のこと好きだった?」 彼女の顔は見えない。 「ああ」 好きだった。―――――そんな簡単な一言を飲み込む。 最後まで言えないまま。 だけど、そんな俺の言葉でも満足したのか、彼女はごめん、と呟いて帰っていった。 後から、彼女が夫の実家とソリがあわわずに、結果夫ともうまくいっていなかったと伝え聞いた。 八方塞で思い出したのは昔の自分。 何を捜し求めていたのかはわからない。過ぎ去っていっただけじゃない時間の経過という残酷な事実を突きつけられた彼女は、 結局今の自分に帰っていった。 整理はついたのだろう。 放り出された自分の辛さばかり目に付いて、放り投げた側の痛みに気がつかなかった。 もう、戻ることはないから。 忘れてしまいたいぐらい嫌な思い出だったものが、今はわずかに甘さを含んだものとなる。 それは彼女の声音からくるものなのか、なんなのか。 無性に環の声が聞きたい。 彼女の側にいられる幸せを感じる。 「環、今いい?」 電話機越しに聞こえる彼女の声がしっくりと耳に馴染む。 周囲の色がよみがえる。 “今”に帰ってきた。きっとそうなのかもしれない。 |