歳を取ると時間の感覚が曖昧になる。
長いスパンで見れば確実に歳を取っているのだけれど、姿かたちにあまり変化がみられない。そのため、鈍感になっているのだろう、月日の流れに。
だけど、彼女の存在が時は確実に流れているのだと、自分を現実に戻してくれる。
「若先生、この問題がわからないんですが」
高校2年生になった香織ちゃんは相変わらず診察室へと来てくれる。最近は急に勉強に目ざめたのか、参考書を片手にやってくる。
彼女の聞いてくる問題は、自分自身のさび付いた脳へのいい刺激となっている、はず。おまけに、昔と随分教科書が違うな、とか懐かしい思い出を思い起こさせたりもする。
最近の家庭の状況は以前と同じ、らしい。もっとも、彼女にとってはだが。もうすでに社会人になる兄は、大学生の頃から母親と距離を取り始め、近頃ではまともに連絡すらしていないらしい。
子離れできない母親は会社へ何度も連絡を入れたり、急に押しかけていったりしてますます鬱陶しがられるという、
負のスパイラルに陥っていると聞く。ヒステリーを起こす回数が増え、その分香織ちゃんにあたることも多いらしいけれど、得られなくなった実息子の愛情を取り戻すべく、全ての妄執はもっぱら兄に向いたままで、彼女が管轄外ということに変わりがないという情ないものだけど。
だから以前と同じ頻度で我が家へやってくるし、台所へ立って一緒にご飯を作ったりしている。
そんな彼女とのささやかなやりとりが嬉しくて楽しくて。
こんな気持ちをなんと呼べばいいのだろうか。
「香織ちゃん映画は好き?」
「えっと、映画館に行ったことはないですが、テレビで見たりするのは好きです」
親父が聞いた何気ない質問。
だけど、高校生にもなって映画館にすら行ったことがない?
「最近のデートではそういうとこは行かないもんかい?」
「ええ!デートだなんて、そんな相手いたことありませんから」
照れながら笑う彼女。
何度か聞いたその言葉に幾度安心したことか。
「だったら、こいつに連れて行ってもらえばいい、社会勉強じゃし」
唐突な提案にお互い顔を見合わせて固まってしまった。
その緊張を解いたのは彼女の方が先だった。
「若先生さえお嫌でなければ」
「あ、っと。嫌じゃないです。いや、むしろいいの?香織ちゃん。こんなおじさんと一緒で」
目いっぱい目を見開いて驚く彼女。
「そんな!若先生と一緒に行けて嫌なわけないです」
力説してくれる。
いや、そこまで言ってくれると、かえって照れると言うか、なんというか。
そうして香織ちゃんとの映画館デートが決定した。
よく考えると親父にリードされているような気がしなくもないが。
結果オーライなので不問にしておく。
当日、若い香織ちゃんに恥を欠かせないように、と精一杯小奇麗な格好をしていこうと努力した。
どこから嗅ぎ付けたのか、元妻の早季子さんまでやってきて、ああでもないこうでもないとおもちゃにされた。
早季子さんは俺じゃなくって親父の奥さんになればうまくいきそうなのに。いや、この人を母と呼ぶのは勘弁して欲しいが。
まず彼女を迎えに行き、それから駐車場へ戻って出発する。
どうしてそんな面倒なことを、と文句を言ったら早季子さんに殴られた。
「気分よ、気分の問題よ!!」
デートという雰囲気作りに大切らしい、女心はよくわからない。
玄関先で彼女の姿を見た瞬間、息が止まるかと思った。
いや、おそらく普通の格好なんだろうけど、制服以外で初めてスカートを見た気がする。
いつもは動きやすいジーンズが多いから。
「あ…。香織ちゃん。かわいいよ」
気の利いた言葉一つ吐けない俺はいったいいくつになったんだ?
香織ちゃんはそれでも喜んでくれるからいいけれど。
映画は正直言っておもしろくなかった、と言うか苦手なジャンルだったというか。
ベタベタのラブストーリなんて見るもんじゃない。
昔の感覚からするとだいぶすれてしまった自分では素直に感情移入することができない。いや、性格の問題かもしれないが。
だけど隣にいた香織ちゃんは違うらしい。食い入るようにしてスクリーンを見つめている。
彼女が満足してくれたなら、それだけでも来たかいがある。
映画を見終えた後、二人そろって目的もなく街を歩く。
親子というには歳が近すぎて、兄妹という雰囲気でもない私達がどう見られているか気にならないといえば嘘になる。
でも、嬉しそうな彼女の顔を見るとそんな考えはどこかへ吹き飛んでしまう。
「疲れた?」
無口になった彼女にそう話し掛ける。
体力がないのは相変わらずで、しかも時々無茶をする。というか親父や私に対しても遠慮がちなところがあるから困ったもの。
案の定彼女は小さく首を横に振るけど、顔色が少しだけ悪い。
強引に彼女の手を引き近くのコーヒースタンドへと入る。
彼女の好きな紅茶と自分の分のコーヒーを注文してトレーに載せて彼女の元へと急ぐ。
無造作に伸ばされた漆黒の髪、余りに対照的な白い肌。
ガラス張りの店内で、人の流れをぼんやり見ている彼女は誰?
物憂げな表情で今までみたことがなかったような大人な雰囲気を纏っている。
いや、自分自身が気が付かなかっただけか?
いつまでも子どもだと決め付けて、彼女の成長に気が付かないフリをしていたのかもしれない。
どうか子どものままでいて、そうすればずっと一緒にいられるから。
そんな勝手なことを願っていたのか。
このままではいられない。
でももう少しだけこのままでいて。
自分の中の気持ちも彼女の思いも一緒に箱の中に閉じ込める。
「香織ちゃんどうぞ」
弾けるような笑顔の君に。
「若先生ありがとうございます」
お願いだからもう少しだけこのままでいて。
大人な君に会えるのはまだ先でいいから。