15・シンドローム


症状:煙草の本数が増える。落ち着きが無い、イライラしている。夜あまり眠れない。
対処法:不明





 頭の中にイライラが蓄積している。原因不明の不機嫌とそれでもなんとか現実世界と折り合いをつけてやり過ごす。昔よりもとんがっていない俺に感心する。

「すみません・・・・」

消え入りそうな声で声を掛けてきたのは、ゼミの学生。普段から性格のきつい助手になど気安く寄り付く相手はいるはずもなく、発表やら実験結果の報告など仕方がない理由が無い限りその名前を呼ばれることなどあまりない。お金を払って授業を受けているのだから、ただで使えるものはなんでも使わなければ損だと思うが、周囲の学生はそうは思わないらしい。

 無意識に睨むような視線を送ってしまった俺は、小動物のように怯えている相手を一瞥して、気持ちを切り替える。

「何か用か?」

用がなければ声など掛けないのをわかっていて問う俺は相当意地悪かもしれない。

「あの・・・・この間の実験結果のことで」

少なくとも指示通りのことはこなすタイプであることを思い出し、レポートを受け取る。
案の定指示したことしかこなしていないであろう数字の羅列に軽く溜息をつく。
こんな細かいことが気になりだしたのは最近のことだ。
就職したてのころならいざ知らず、俺の学生の頃と比べても仕方がないことを嫌というほど味わった今となっては、学生に対して何の希望も持ってはいない。それが周囲からは突き放した態度ととられることはあるが、厳しいと言われることはなかったはずだ。
だけど、今はどういうわけか、彼らの些細な態度一つをとっても鼻につく。
どうして勉強しないのか。
どうして実験をしないのか。
言い出したらきりが無いことを頭の中で反芻しながら熟成させている。
言いたいことを堪え、目の前の実験結果に集中する。
思ったより上々の結果にイライラが少し治まる。
2-3必要なことをディスカッションして彼は自分の持ち場へと戻り、俺はまたつきっぱなしのディスプレイの前に置き去りにされる。
進まない論文、次第に本数が増えていく煙草。
こんな状態が正常な神経回路なわけがない。

 蛍光灯が切れかかっているせいか、やや薄暗い室内で手に煙草を持ったまま、パソコンの画面を凝視する。
左手には一応ドリップ式で入れたコーヒー。右手には煙草が溢れかえっている灰皿。
椅子の上には神経質な男。

『好きにする』

最後の言葉が耳に残る。
そういい残していった彼女はその言葉通り、好きなようにこの街を出て行った。
最後に「コレで最後だから、今までありがと」そう留守電に残して、何の痕跡も残さずいなくなってしまった。
引き止めなかったのだから、それを責めるべき権利はないのだろうけれど。
どこか彼女を甘く見ていた自分が招いた結果を嫌というほど思い知った。
彼女には俺が必要なのだと思い上がっていた自分。
今となってはその根拠はどこから湧いてきたのかと問い詰めたい気分だ。

雑然とした思いで睨めていた画面に着信メールアリのメッセージが流れる。
どうせ、仕事の催促か事務からの注意事項、良くてスパムメールだろうと思い確認したメールは、友人の結婚を告げるものだった。

「結婚・・・・か」

同級生達は次々と結婚していき、残るのは半数ぐらいだろうか。現在の職種につくまでの経過を思えば多い方ではないかと思う。
幸せそうな同僚達の姿を羨ましいと思わないでもない、ただ、自分の身に置き換えて考えることができなかっただけだ。いや、正直今でもまるで想像することができない、“他人”と一緒に暮らすことなど俺にできるかどうか考えることすらできない。
それでもやっぱり俺は彼女と一緒にいるであろう未来を漠然と予感していた。それがどういった形式であるのかなんてまるでわからないけれど。





「そういえば、業者の人間が入れ替わったよな」

一瞬、祥子に関する話題にギクリとする。
彼女は化学薬品を卸す会社の営業だった。毎日毎日大学ごとの研究室を巡り、その日の注文を確認したり納品したりする仕事だ。各々の研究室で出入りの業者が決まっているため、新規の業者が入り込む隅間はなかなか生まれない。元々の変化を好まない体質に加え、かなり付き合いづらい連中がたむろして存在しているためスンナリ受け入れられる方が稀だ。
彼女はこの学部では後発の会社にあたるにもかかわらず、迅速な対応ときめ細かい心遣い、扱っている商品に対する幅広い専門知識などを買われ、着々とその勢力を拡大していった。
彼女の転勤も、この有能さからきたのだろう。

「そうだっけ?」
「そうですよ。今度の人は返事だけはいいんですけどね・・・」

祥子のように融通が利かないのは、まだ仕事に慣れていないせいか、本来の性質か。

「そういえば、前の彼女結婚したみたいですね」

ポロリと煙草のを指の間から落としそうになる。

「結婚・・・?」
「ええ、妊婦だけどまだまだ働いてるって聞きましたけど。でも薬品とか扱う職場って大丈夫なんですかね・・・」

その後も続く彼の言葉など何一つ頭に入らない。
冷水を浴びせられる、とはこのことなのだろうか。ショックで意識が真っ白になるとともに目の前の風景すら蜃気楼のように歪んで見える。

頭が働かない。
彼女が結婚?妊娠?

確かに彼女は結婚を夢見ているとは言った。だけど具体的な何かがあるといった素振りは見せなかったはずだ。

いや、女はわからない。

突然別れを切り出されたあの日のように、俺などよりずっと切り替えも早く次へ移動していけるのかもしれない。
景色が次第に正常に戻り、おしゃべりを止めてこちらを窺う同僚の視線に気が付く。

「悪い、考え事してたわ」
「まーた、職業病ですね、お互い」

いつのまにか煙草を吸い終えた同僚は、喫煙スペースから離れていく。
もう飲めなくなった煙草を灰皿へと押し付け、また新たな煙草に火をつける。



また本数が増える。思考がまとまらない。
こんな症状をどうしていいかもわからない。
自分で招いた結果を受け止めきれない俺は、彼女より遥かに子供だったということだ。
勇気と責任の無さが招いた結果は、俺に眠れない夜を与えた。

今ここに、彼女が足りない。
ただそれだけで世界が歪んで見える。

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4.14.2005
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