14・きせき


 同僚の噂話から数日、イライラが止まらない。
煙草の本数は限界を迎え、もはや煙草に火をつける、といった動作が習慣化している。
生まれ月が何時なのかは知らないが、祥子が浮気をしていたとは思えない。俺から離れていった後すぐ、というのも可能性としては低い気がする。ただそう思いたいだけかもしれないが。



 俺にとっては何も終わっていない曖昧なままの状態。何を改善したいのか漠然としたまま衝動的に家を出て、祥子のいる街へと向かっていた。
何を話すつもりなのか、そんなことさえ考えられないぐらい、ただ、会いたかった。
青臭いガキのように高鳴る胸を押さえることができない。
事務所で彼女の出入り先を聞き出し、先回りして待ち伏せをする。
彼女を待つ間も、煙草の本数は見る見る増えていく。
やっと出会えた彼女は、少しだけ下腹部がふっくらしたものの、以前と全く変らない。変らないことになぜだかひどいショックを受ける。彼女にとっては俺と別れた事など大した事ではないのかもしれない。そんなことを考えたら、こんなところまで追いかけてきた自分が、まるでピエロのように思え、全ての余裕を無くしていく。
最初はどんな言葉をかけようかと、散々悩んでいた事も忘れ、

「誰の子供だ?」

やっと喉から出た言葉は、優しさとはかけ離れた詰問口調のそれでしかなかった。

「関係ないでしょ」

祥子から放たれた言葉も、俺が知っている彼女のものとは思えないほどの冷たさを孕んでいる。ひょっとして噂話は嘘かもしれない。そう思っていた安易な逃げ道も塞がれてしまう。

「・・・俺の」

そういいかけた言葉を彼女の冷笑が推し留める。

「私の子よ」

ゆっくりはっきりと宣言をする彼女は、今までにみたこともないぐらい凛としていて綺麗だと思った。手放してしまったものの大きさに愕然とする。

「どうして言わなかった」
「言ってたらどうかなったの?結婚しないっていったのはあなたでしょ」
「それとこれとは違うだろう。子供がいるとなったら」
「で、渋々結婚するわけ?それともおろせとでもいうの?」

祥子の畳み掛けるような口調に言葉が詰まる。今までの彼女は俺自身に逃げ道を残してくれたのだと今更ながらに気が付く。

「冗談じゃないわ、お情けで結婚してもらうつもりも、面倒見てもらうつもりもないから」

きっぱりと言い放つ彼女が振り返りもせずに俺から離れていく。

その後姿を追いかけもせず、俺はただ呆然とその場に縫い付けられたように立ち止まる。
甘い考えで会いに来た俺を見透かすような視線に晒され、ここまできて尚もつまらないプライドに拘っている己の懐の狭さを思い知らされる。



“結婚なんてたかが紙一枚の契約だろ?”確かに今でもその思いは変らない。けど、しないことにこだわって、することを躊躇う俺は、誰よりも実際のところ“結婚”という制度に重きを置いていたに過ぎないのかもしれない。
言葉だけで縛ろうとして、自らは縛られたくなくて。そんな自分勝手な男捨てられても当たり前だ。

 失ってみて初めて、わかることもある。
ただ、今は彼女が欲しい。
子供がいても、いなくても。その子供が例え俺の子供ではなくても。

これは未練なんかじゃない。

彼女が欲しい、こんなにもはっきりと彼女の感触を思い出すほどに。



 どんな時でも朝はやってくる。最悪な気分で目覚めた今日は、溜まった仕事を片付けなくてはいけない。ただでさえ憂鬱な気分がますます淀んでいく。
働かない頭を無理やり動かし、目覚ましに珈琲を入れる。
彼女の形跡が残る台所に目をそむけ、再びベッドに腰を下ろす。
繰り返し見る夢は、彼女の事ばかりで。ますます、もうここにはいない彼女に依存していく。そんな状態でもなお彼女に素直な言葉をかけられない自分は何者なのだろう。


「先生?」

煙草を持ったまま、再び物思いにふけっていたらしい俺を学生の声が現実に引き戻す。

「悪い」

レポートに集中する。
何も考えられなくなるぐらい仕事に没頭すればいい。何もかも忘れて。
窓から見える空は、自分の心に反比例するほど青く澄んでいる。もうその下には戻れないのではないかと錯覚するほどに。





 明彦が来た。
勝手な事をした私を怒っているのかもしれない。
この業種にいるのなら、いつかは耳に入るとは思っていたけど、ううん、たぶんきっと、私は彼の耳に入る事を望んでいた。
未練、なのかもしれない。
彼と離れてからも時間だけは確実に過ぎていき、私のおなかも着実に成長していった。
行き成り帰ってきて、しかも未婚のまま子供を産むのだという私を、最初は驚愕と戸惑いと共に拒絶していた両親も、日々大きくなるお腹に徐々にその態度を軟化していった。
両親の協力なしにはここまで働きつづけることは難しかったかもしれない。
時代が変わり、シングルマザーなどという単語が出来たとしても、まだまだ封建的な社会が残るこの街では風当たりも強いだろうに、親という存在をこれほどまでありがたいと思ったことはなかった。

「私の子供」

その言葉を吐き出した瞬間、私はもっと強くなれると思った。偶然出来た子供だけど、私が選択したからそれはもう必然だ。この子を守れるのは私しかいない、そんな思いは日に日に強くなっていく。
彼への思いはいつか昇華していくだろう。
でも、いまはもう少しだけ、この子を通じてしか感じられない、あの人との繋がりに浸っていたい。





時間を置いても何も解決しない。それどころか事態は悪化していくばかり。
理由もなく神経を尖らせている俺を学生たちが遠巻きに眺めている。もともと人付き合いがいい方ではないが、ますます足が遠のいていく。
彼女がいない、ただそれだけで、こんなにも世界が違うなんて思わなかった。
もう、限界かもしれない。
未練がましい俺は、まだ見ぬ赤ん坊を通じてしか得られない祥子との絆だけを頼りにしている。



 再び、突然現れた俺に、彼女は驚きの表情と僅かに嬉しさを滲ませた複雑な表情をしている。

「よりを戻そう」
「今更なにを・・・」

今更。そう言われるのはわかっていた。都合のいい話。切り捨てたのは俺の方。

「やっぱり、子供には父親が必要だと・・」

本当の気持ちとはかけ離れた、建前だけの言葉が先に出てきてしまう。この期に及んで、まだ自分を偽っていたい自分に腹が立つ。

「私だけでも十分よ。それに、両親も協力してくれるし」

穏やかに微笑みながらそう諭される。
子供が出来たせいなのか、本来の彼女の気質なのか、今の彼女はとても柔らかい印象を与えてくれる。

「明彦も、罪悪感なんか感じなくていいのよ。私が勝手にしたことだし」
「そうじゃない!!!」

彼女の両肩に両手をかけ、そのまま胸の中に抱きしめたくなる衝動を押さえる。

「違うんだ・・・、祥子。俺にもその子を抱かせてくれないか?」

赤ん坊を抱く祥子を想像すると気持ちが暖かくなる。そのぬくもりごと俺の傍にいてくれれば。

「嫌よ。そんなに赤ちゃんが欲しいなら、他の女性にでも産んでもらえば?」

彼女の俺の身体を押し返す両腕がせつない。

「どうして・・・」
「選んだのはあなたのほうでしょ」
「あの時言ってくれれば」
「言ったら引き止めたの?責任をとるために?」

あの時の俺なら、最悪な事を口走りかねなかった。彼女の存在がこんなにも重いものだなんて気が付かずに過ごしていたから。

「あなたは自由でいたいんでしょ。だったら、もう私にかまわないで」
「俺の子供なんだろ。おまえだけが自由にできるものじゃないだろう!!」

泣かない彼女の瞳に涙が見える。こんな事を言いたいんじゃない。こんなにも追い詰めるつもりじゃなかったのに。言葉足らずの俺は肝心な一言を言えずにいる。

「子供がいなかったらよりを戻そうだなんて思わなかったんでしょ?目を覚ましたら?」

呟いた彼女の言葉にヒヤリとする。そうじゃない。子供がいてもいなくても、俺はただ、彼女にそばにいてほしいだけ。
踵を返してこちらを振り返らない背中に思いがこみあげて来る。

「祥子!!!祥子がいなくちゃだめなんだ」

恥ずかしげもなくやっと吐き出せた言葉は、かっこいい一言でもなんでもない、ただの弱音。こんな簡単な事が言えなくて、遠回りをした俺は本当に大ばか者だ。


 その場にぴたりと立ち止まった彼女は振り返らない。でも、その背中が動揺していると伝えてくれている。両腕で自分自身を包み込むようにしている彼女はいつもよりずっとずっと小さく見える。
フワリと彼女の香りを感じられる距離まで近づく。そっと包み込むようにして抱きしめた身体はやはり華奢で、母親として凛とした態度で立っていた彼女とは結びつかない。こんなにも細い身体で全てを受け止めていたなんて。

「俺が、俺がお前が傍にいないとダメなんだ」

黙ったままの彼女の耳元で出せなかった本音を曝け出す。

「だから・・・・、戻ってきてくれ、お願いだから」

彼女の心臓の音を感じる。沈黙が二人を支配している。ただ、彼女の感触を感じているだけで幸せすぎて、離れていた時間を忘れられる。

長い沈黙の後、彼女が呟く。

「さっきの本当?」
「本当だ。じゃなきゃ、こんな情けないこと言えない」

俺の手の上に彼女が自分の手を重ねる。

「わかった・・・・・」

承諾の言葉を聞いた瞬間、後ろから力強く彼女を抱きしめる。ずっとこうしていたかった。





「でも、ダメよ」

突然の拒絶に力が緩む。彼女はするりと俺の腕の中から抜け出し、こちらへ振り返る。

「悪いけど、私今の仕事やめたくないし」
「いや、でも、俺も仕事はやめられないし」
「わかってるわよ、そんなこと」

クスリと笑う。

「だから、週末だけ会いにくれば?別居婚??ってやつ」
「別居って・・・」
「あらいやだ、他人と生活できないって言ってたのは明彦じゃない」
「いや、それはそうだけど、でも」
「籍は入れても入れなくてもいいし」
「入れる!!籍は入れる、絶対に入れる。別居婚でもなんでもいいからそれだけはさせてくれ」
「縛られるのは嫌なんじゃなかったの?」
「・・・・・・・・・・・・別に入れても入れなくても困らないんなら入籍してもいいだろうが」

自分自身も妙にそこに拘っているのはわかっている。だけど、そうでもしないと再び彼女を捕まえるのは至難の業だと本能がそう告げている。

「ふーーーーん。明彦がしたいならそうしてもいいけど」
「OKしたな、よし、今から挨拶に行くぞ」
「はい?」
「お前の両親のところだって。俺のところはとりあえず後回しでいいし」
「後回しって・・ええ?ホントに来る気?」
「本気。俺が冗談を言ったことがあるか?」

溜息をついた彼女の右手を手にとる。久しぶりの感触に思わず顔がにやける。
彼女が戻ってきた。
あの日見た窓の外の景色のように晴れ渡る空。色づき始める世界。
彼女がいれば世界が鮮やかに見える。
もう二度と失わないように。俺は間違えたりはしない。

エピローグへ>>戻る

5.28.2005
>>規格外恋愛模様・目次>>戻る>>エピローグへ>>テキスト目次>>HOME
感想、誤字脱字の発見などはこちらへ→BBSまたはmail