朝から蝉が元気よくないているなぁ、などとぼんやり窓の外を眺めていたら、向かいのお嬢さん、香織ちゃんが歩いてきた。
カレンダーではもうすでに夏休みなのに部活かな?
学生さんは大変だ。そう思っていたら、彼女の顔色が悪いことに気がついた。
外は午前中だというのに眩しいぐらいの太陽が降り注いでいる。本来なら白い光の中で顔色なんて分かり辛いはずなのに、
さすがに子どもの頃から見ているだけはある。ちょっとした変化も見逃すはずはない。
クーラーの程よく効いた空気を惜しみつつも、思い切って窓を開けて声を掛ける。
「香織ちゃん、こっちおいで」
傍から聞けば変質者もどきだ、これじゃ。
訝しみつつもこちら側へやってくる。
やっぱり、青白い。
彼女自身体の不調に気がついているのか、見破られまいと少し距離を開けている。
小さい子をあやすように微笑みながら、窓越しにさっと手首を掴む。
しまった、という顔をしたときにはもう遅い。
「ほら、やっぱり熱がある」
証拠を握られて観念したのか、一つため息をつきながら白状する。
「今日模試があるから」
「その体調じゃあ、いい結果はでないよ」
笑顔の攻防戦。
確かに、15歳の彼女にとって、模試は人生の中で重要なイベントだろうけど。三十路も近い私としては、
取るに足らない瑣末な行事の一つにすぎないし、彼女の健康と比べて勝るモノではない、と言い切れる。
だけど、おっとりとした外見と異なり意外と頑固な彼女は、頑なに首を縦に振らない。
仕方がないので彼女を持ち上げ部屋の中に入れて熱を測ることにする。
数字を見せて納得させるしかない、それでも彼女は学校へ行くと言い張りそうだけれど。
体温計が正しい数値を示すまでの5分間、彼女を診察する。
のどが荒れているわけでも咳きが出るわけでもない。暑さとエアコンのせいかもしれない。
恐る恐る脇から出した体温計示した数値は、自分にとっては明らかに異常を示す数値で、彼女にとってはそうではない微妙な数値だった。
「37.5度」
お互いの顔を見合わせてニッコリ微笑みあう。
「平熱」「熱あり」
無言のうちに何がしかのヤリトリを繰り返し、ついには同時に声に出して主張していた、まるっきり反対というところが予想通りだけれど。
「どう考えても熱ありでしょ、香織ちゃん」
「そんなの平気です。平熱だし」
頑固だなぁ、誰に似たのだろう?そんな父親じみたことを思いながら額に手を当てる。
「平熱低いでしょ。普通の人なら高熱になるよ」
ホームドクターとして彼女の身体を知っている自分には、どんな言い訳も効かないと思ったのかおとなしく私のほうへ体重を預けてくる。
体温が熱い。熱を出しているのだからあたりまえだけど、そんなのじゃなくって触れている掌がヤケドするほどの熱を感じる。
「寝ときなさい、ベッド貸すから」
一人になってから、また間借りすることになった自分の部屋へ彼女を案内する。
彼女を部屋へ通すのは何度目だろう。
全く意識していないころから、私の部屋にはよく逃げ込んでいたが、ここのところ幾ばくかの感情を感じないでもない、のは、自分が年を取ったせいなのか、彼女が成長したせいなのか。
テストの点が悪いだの、友達と喧嘩しただの。とても子どもらしく今思えば些細な事が理由だったけれど。
それでも、中学に入学する頃から徐々に足が遠のいて、その代わり診察室での親父を交えてのお茶会なんてものが始まって、
二人の距離も微妙なものになってきた。
だけど、今日は昔に戻ったみたいだ。
自分のTシャツ短パンに着替えて、ベッドに潜り込む。瞼を閉じた彼女の頭を撫でる。
寝顔は変わらない。
まだ大丈夫。このままでいられる。
彼女を家に帰さなかった自分の感情がどこに起因するのか、そんなことすら考えたくなくて。ただ診察室へと向った。