「若先生は結婚なさっていたのでしょう?」
休診中の午後のひと時、お茶をすすりながら彼女の話を聞くのはいつものことだけど、今日の話題は自分が答えるには少し微妙だ。
「だって、好きな方と結婚ってするものでしょう?」
ストレートに尋ねてくる彼女は若さゆえか、躊躇いもしないで聞いてくる。
「いやね、香織ちゃん、こいつの場合きっかけが一般的じゃないから」
横合いから茶々を入れてくる親父は、さも嬉しそうに言葉をつなげる。
「だってね、なにせプロポーズの言葉が、『私と結婚して、さもなきゃ飛び降りて死んでやるから』、なんだよ?それで結婚しちゃう奴もしちゃう奴だと思うけどね」
小さい子に言い聞かせるように笑い話を話している。私にとっては致命傷ともいえる古傷なのであえて触れて欲しくはないのだが。
「でも、それでも若先生はお好きだったのでしょう?」
恋愛や結婚というものに過度の期待を抱いている彼女には悪い、けれども、好きだったのか?と問われればYesと答えるだろうとうい程度で、それが愛情なのか友情なのかはたまた同情なのかはわからない。とても情ないことだけど。
「こいつも早季子さんに逃げられなきゃ、今ごろ孫の一人もいただろうに」
あわれっぽい老人を装って息子をいじめる定番のパターン。そのセリフもいいかげん聞き飽きた。
「で、どうして離婚されたのです?」
やけに過去の自分を聞きたがる彼女に誰かあほなことでも吹き込んだのかと訝しく思う。ただ単に、
彼女が成長して大人になってきただけかもしれないが。
お茶をとっくに飲み終わって、満足そうに椅子に座っている親父が、今にも笑い出しそうな顔で疑問に答える。
「それがね、『離婚してくれなきゃ、首くくって死んでやるから』って言われて離婚したんだよ、この馬鹿」
触れて欲しくないところをさっくりばっさり突付くのな、この人。
目の前のお嬢さんも今言われたことがわからないって風情で首を傾げてるいるし。
「しかも結婚のときも離婚ときもその理由を問わず、そういう死に方はいかに周りに迷惑を掛けるかを
コンコンと説教する大ばか者だし」
「親父…。それ誰に聞いた?」
たぶん元妻、という言葉が適切かどうかもわからないが、しか知らない言葉をさらっと漏らす。
「だって、わし早季子さんとメルトモだもーん」
だもーんじゃない。いやそこじゃなくって、いつのまに!いい歳した親父がなぜメルトモ?しかも息子の元配偶者!
たぶんものすごい形相で睨んでいたのだろう。彼女専用の湯飲みを握り締めながら固まっている。
そこに気がついた親父が早速そこに付け込んでくる。
「ほらほら、香織ちゃんが怖がってるから」
まだまだ追求したいことは山程あるが、幼い彼女を怯えさせるのは私の本意ではない。
しかたがないので無理やり笑顔を引っ付けて安心するように笑いかける。
すると、キャスター付きの椅子に座った彼女は両足で地面を蹴って後ろに後退ってしまった。しまった!笑顔が不気味だったか。
自分で自分の行動にびっくりしたのか、彼女も慌ててにっこりと笑おうとした。
全然笑えてないけれど、それでもびくびくしながらも同じく椅子を転がしながら戻ってくる。
「若先生…。笑顔が怖かったです」
ふぅ、とため息を漏らしながら湯飲みを机の上に置く。落とさなくって良かったなんて言いながら。
「香織ちゃんも中学生ならBFの一人もいるんでしょう?」
との親父の問いに、私がひどく狼狽してしまった。
最近の子どもは発育が早い、そして一般的には女の子の方が早熟だからいてもおかしくはない、おかしくはないけれど、
胸の奥に鈍く痛みが走る。これが娘を他の男に取られる父親の気分なんだろうか。
「ぼーいふれんど??うーーん、私男の子とあまり話さないから」
そう答える彼女にひどく安心した。うん、これは父性愛、だよな。
「かわいいのに、香織ちゃん。もう少し大きくなったらおじさんがいい男をたくさん紹介してやるから、いつでも言ってきなさい」
「親父、親父の知ってるいい男って全部二十歳過ぎだろうが、そんな年上紹介しても嫌がるって。彼女15歳なのに」
ほんとに紹介しかねない親父に釘をさしておく。開業医という仕事柄人脈は豊富だし、
人付き合いが好きな親父のことだから、確かに条件の見合った男を紹介するのは簡単なことだろう。
「??年上はだめですか?」
論点ずれてるって、お嬢さん。
「まだ中学生なんだから、同級生あたりと仲良くなっておくのがいいんじゃないの?」
言いながらちょっと胸が痛いけど、無視しておく。
「私、年上の方がいいです。29歳ぐらいまでなら」
そうやって話し掛けてくる彼女の顔が少しだけ赤いのは気のせい、にしておこう。
一回りとか、10ぐらいとかそんな大雑把な数字じゃなくって29歳を区切りにしてくれることに嬉しさがこみ上げてくる。
それが私の年齢なんだ、ということを知っているのかいないのか、そんなことはどうでもいい事で。
頭の中でいろいろなことを考えていたら彼女がまた後退さっていく、椅子と共に。
しまった!顔が不気味だったか?
にやけそうになる顔をなんとか整えながら、笑顔を作る。
お決まりのように彼女が戻ってくる。
3人そろってニッコリ笑って、今の話題はなかったことにする。
こう言うとき血のつながった親と小さい頃から知っている身内同然の子だな、と実感する。
彼女が結婚するのは10年後ぐらいか、その時私は39歳?
途方もない年齢差にあらためて愕然とする。10年経ってもあたりまえだけど差は縮まらない。
自分が隣に立つわけじゃないから関係ないんだけど。
ニッコリ笑った彼女とお茶を飲めるのは後何年なんだろうか、そんなことを思う。