THERE'S NO PLACE LIKE AMERICA TODAY ( 1975 ) Curtom / Buddah CU5001[ CURTIS MAYFILD ]
A @ BILLY JACK A WHEN SEASONS CHANGE B SO IN LOVE
B @ JESUS A BLUE MONDAY PEOPLE B HARD TIME C LOVE TO THE PEOPLE
ALL SONGS WRITTEN BY CURTIS MAYFIELD * CURTIS MAYFIELD KEYBOARDS AND GUITAR * KEYBOARDS- RICH TUFE * BASS- LUCKY SCOTT * DRUMS- QUINTON JOSEPH * GUITAR- GARY THOMPSON , PHIL UPCHURCH * CONGAS AND BONGOS- HENRY GIBSON * ALL SONGS ARRANGED BY RICH TUFO * PRODUCED BY CURTIS MAYFIELD
”今日のアメリカのような場所はどこにもない”―良くも悪くもとれる言葉だが、このアルバムではネガティヴに、この言葉を響かせている。車に乗った幸せそうな白人家族の看板の前で、食料の配給を待っている、列をなす黒人達。この皮肉なとりあわせ。このタイトル・ジャケットで見せるラディカルさは、いつも穏やかなイメージを持たせる CURTIS なだけに驚きである。唯一ABが心暖まるラブソングだが、社会状況の厳しさ。日常生活の困難さなどを、直接にしろ間接にしろ歌ったものがほとんどだ。A@音数も少なく、思わず息を飲むような1分近いイントロの後に歌われるのは、ストリート・ギャングだった友人Billy Jack が撃ち殺されてしまった、という物語。「Freddie's Dead」の続編ともいえる曲だが、この中にあるのは、もっとしっかり生きなきゃ、という説教でなく、どうしてこんなことになっちゃうんだろう、単純な悲しみだ。BABCはどれも、不況や失業、貧困といったことをテーマに、愛の問題を絡めて色々な角度から歌っている。こうした歌の内容をさらに際立たせているのが、バックのサウンドだ。ストリングは控え目にした隙間のあるサウンドで、複数のギター(ほとんどがワウワウ等のエフェクターを使っている)の絡みが凄い特色となっている。ギターはCURTISの他に GARY THOMPSON、PHIL UPCHURCH,の二人がクレジットされているが、フレーズなどをきっちり決めずに絡みあっていく様は凄い。それもバリバリ弾きまくるのではなく、音数はあくまで少なめで、すすり泣くようなフレーズ交錯し合う、その混沌クールさは、SLYの「暴動」などにも通ずる。リズムセクションも表にでず、実にルーズだ。それだけに、時おり出てくるホーン・セクションも効果的。最初に触れたA@や、AAやBAのイントロもそれぞれ1分、30秒と長く、それだけに緊張もしてしまうが、歌が始まってもバックの隙間のある音が逆に全体を引き締め、CURTIS のファルセット・ヴォイスが異常な緊張感を持って聞き手に迫ってくる。せールス的には成功しなかったが、内容は後世に残る充実した BACK TO THE WORLD と並ぶ傑作。 <90年8月ステージの照明器具の下敷きになって重症、首から下が付随になってしまった。・・・『ゴー・アヘッド・メイフィールド』 Aretha Franklin>
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1942年6月3日、カーティス・メイフィールド、シカゴに生まれる。10代の始めから教会で歌い始める、作曲を始めたのもこの頃で、それは主にゴスペル・ソングだった。56年、14歳の時にシカゴのノース・サイドへ引越した頃にはアルフォトーンズというR&Bのヴォーカル・グループを作っていた。57年ジュリー・バトラー、サム・グッデン、リチャード&アーサー・ブルックスと《 The Impressions 》を結成。58年(FOR YOUR
PRECIOUS LOVE)が大ヒットする。その後、ジュリー・バトラーがソロとなり、フレッド・キャッシュが新メンバーになる。 この時代の《 The Impressions 》 はバトラーの印象が強かったが、バトラー脱退後はカーティスがシンガー/ギタリスト/ソングライターとして《 The Impressions 》の中心となっていき、60年から他のシンガーにも曲を提供し始める。61年 Vee−Jay から ABC に移る、その頃ブルックス兄弟がグループを離れ、カーティース・グッテン・キャッシュの3人になる、アレンジャーにジョニー・ペイトを迎えカーティースのそれまでにないタイプのハイ・テナー・ヴォイス/ファルセットを駆使したリード、ユニゾンを多用した洗練されたトリオのコーラス、ゴージャスなホーンを含むダイナミックなオーケストレイション、カーティスのシャープなギター・カッティングで、ソリッドなサウンドを生み出し、それにカーティスの独特な曲が加わり(シカゴ・ソウル)が生まれた。61年〜64年にかけて「ジフシー・ウーマン」「イッツ・オール・ライト」「トーキング・アバウト・マイ・ベイビー」「アイム・ソー・プラウド」「アイブ・ビーン・トライング」「キープ・オン・プッシング」「ピープル・ゲット・レディ」などに数々にヒット曲を放つ、それらのヒット曲は10代の頃からゴスペル・ソングを書いていたカーティスだけに非常にゴスペル的で歌詞の内容もやり続けよう、前進しようというポジティヴなメッセージが中心で、時に中性的とか植物的とか証されるカーティスの歌声と、ギター・カッティングが全体を締め、ソリッドな感覚を出している。《 The Impressions 》は60年代半ばに波に乗り、カーティスも他のシンガーの作曲・アレンジ・プロデュースをやり始める。「ジュリー・バトラー」「メジャー・ランス」「ビリー・バトラー」「ジーン・チャンドラー」どれも完成度は高い。66年〈 Windy C 〉レーベルを興し、「The Five Stairsteps 」などをデビューさせるがシングル8枚だけの発売に終わったが、68年 《 The Impressions 》共々、ABC を離れ自分の著作権を管理する音楽出版や録音スタジオを有するレーベル〈 CURTOM 〉を設立。カートムの第一弾は《 The Impressions 》の「ジス・イズ・マイ・カントリー」で今までのより、ストリート感覚が増したものになっていた。カートム設立後のカーティス/インプレッションは、60年代末から70年代にかけて、SLY や JB を中心に生み出されたファンクに影響を受け、シカゴの都会的な音にファンクの要素を取り入れ、独特な音を作り上げた。70年、カーティスが《 The Impressions 》を離れソロ・アーティストして活動を開始してから顕著になっていく。硬質なビートを刻むドラムとベースそれにストリングスを絡め、パーカッションの多用と楽器のワン・コードに近い反復フレーズやヴォーカルのインプロヴィゼーション、それにカーティスの音の最大の特色であるワウ・ワウ・ギター、規則正しいリズム・カッティングよりもワン・フレーズを肉声に近く響かせ全体に凄い緊張感を与えている。
基本は都会のソウルである。
70年〜71年「カーティス」「カーティス/ライブ」「ルーツ」などは1曲7〜8分というものが多く、ヴォーカルだけでなく全体の演奏を重視したもので、グルーブを持続させ一体感を持たせている。72年のサントラ盤「スーパー・フライ」がサウンド・クリエイターとしてのカーティスの名を一層広めた。ニューヨークを舞台に、”ブラック・シネマ”のハシリとなった映画で「フレディーズ・デッド」「スーパー・フライ」のミリオン・セラー・ヒットを生む、音を厚く轢き詰めるのではなく、音を抜くことでクールなサウンドを作り出した。この成功で、グラディス・ナイト&ザ・ピップス、ステイプル・シンガーズなど多くのサントラ盤を手掛ける。70年前半から、黒人の意識の高揚を反映したゴスペル的でポジティヴな、さあ!やり続けよう、前進しようといったものから、泥沼化したベトナム戦争・失業・貧困・人種差別などの問題を歌い、まわりの現実を直視して平和を求めていくという内省的なものが多くなっていった。その代表作で傑作が、73年の「バック・トゥ・ザ・ワールド」であり、76年の「ゼアズ・ノー・プライス・ライク・アメリカ・トゥデイ」である。トータリティを持ったシリアスで内省的なアルバム作りで、CURTOM のスタッフであった、ダニー・ハザウェイ、スティーヴィ・ワンダー、マーヴィン・ゲイとともにニュー・ソウル・ムーヴメントの中心になっていく。70年前半、時代を映し出したメッセージを持ちブラック・パワーに呼応するかのようなアフロ的な音作りで、ニュー・ソウルの推進者になったカーティスだが、「ゼアズ・ノー・プライス・ライク・アメリカ・トゥデイ」以降、社会的なメッセージを持った曲はほとんどなくなり、メロウなラヴ・ソングが多い良質なソウル・アルバムを数多く生んで行く。70年後半から80年代はディスコ・ブームなどもありマイ・ペースで地味な活動で、カートム・RSO・ボードウォーク・CRCとレーベルを移っていく。しかし、60/70年代には、ソウル・シーンをリードし活性化させた張本人であり、その才能と影響力は計り知れない!いつの時代でも”ラブ&ピース”を訴え、誠実に歌い込んでいく。カーティスは様々面から時代を動かした、稀有な才能を持ったソウル・アーティストである。88年、ソウル・インディ・レーベル、〈イチバン〉と手を組み CURTOM を復興し「Live In Europe 」を発表する。90年、スタジオ録音としては約5年ぶりの「Take It The Streets 」発表、久々に復活の手応えを感じさせた矢先、90年8月ステージの照明器具の下敷きになって重症、首から下が不随になってしまう。91年1月に行われた”ロックンロールの殿堂 ”の式典で、病床からではあるが、徐々に回復しつつあるカーティスの、ちょっと寂し気ながらもいつも通りの穏やかな笑顔が会場のスクリーンに映し出され、満場の温かい拍手をうけた。96年、再起不能と言われたが「NEW WORLD ORDER」で奇跡の復活を果たす。 1999年12月26日 ジョージア州の病院にて、死去。享年 57才。----- 『歌手として、演奏者として、みんなを楽しませるだけじゃなく、共感できるテーマを伝えるのも大切なんだ。平和という言葉が意味するところは、そのひとつじゃないだろうか。生まれてきた子供も何十年か経てば死んでしまうが戦争なんかで死ぬために生まれてくるんじゃない、絶対に。アメリカで生きるていると、実に様々な問題にぶつかる。私は平和が好きだ。この事は、私自身のあらゆる考えの基本となっている。』
THE METERS ( 1969) josie JOS4010 [THE METERS ]
A @CISSY STRUT AHERE COMES THE METER MAN BCARDOVA CLIVE WIRE DART E SOPHISTICAED CISSY
B @EASE BACK A6V6 LA BSEHORNS FARM CANN DSTORMY ESIMPLE SONG
ART NEVILLE (ORGAN) LEO NOCENTELLI (GUTAR) GEORGE PORTER ( BASS) JOE "ZIG" MODELISTE (DRUMS) PRODUCED BY ALLEN TOUSSANINT & MARSHALL SEHORN
いつの時代でも、極めて個性的で、ヴァイタリティ溢れるニューオリンズの音楽。60年代後半には、当時のアメリカ黒人音楽の流れと軌を一にして、極めてユニークなファンク・サウンドを生みだした。セカンド・ライン・ファンク、あるいはニューオーリンズ・バイユー・ファンクと呼ばれた。そのファンク・サウンドを明確な形に作り上げた第一の功労者は、ART NEVILLE 率いる THE METERS であった。JAMES BROWN が64年に録音した「OUT OF SIGHT」がファンク・ミュージック誕生の布石とも言われるが、その後「PAPA'S GOT A BRAND NEW BAG」(65)「COLD SWEAT」(67)「LICKING STICK」(68)とそのスタイルを明確なものにしていく。その影響力は絶大で、DYKE &THE BLAZERS の「THE FUNKY
BROADWAY」(67)に代表されるファンキー・ナンバーが流行り、さらに、SLY & THE FAMILY
STNE 等の新しい形のファンク・アーティストが出現してくる、というのが60年代後半である。そうした時代背景も忘れることが出来ないが、ニューオーリンズという土地が、もともとファンクと呼ばれるものが生まれるべくして生まれる独自のの土壌を持っていたことも忘れられない。細かくシンコペートするパレード/マーチのセカンド・ライン・ビート、カリブ海の音楽、ラテン・ミュージックの影響といったものがニューオーリンズの音に染み込んでいった。こうした背景のもと、METERS が登場してくるわけである。その前身は、66年頃に結成された7人編成の ザ・ネヴィル・サウンド。しかし68年には、アーロン、シリルらのヴォーカル組とリズム・セクション組とに分裂してしまう。ネヴィル・サウンドの名を引き継いだのはリーダーたる、Art Neville(ORGAN)、Leo Nocentelli(GUITAR)、George Porter Jr(BASS)、Joe”Zig”Modeliste(DRUMS)のリズム・セクション4人組。69年の、 THE METERS の記念すべき初アルバムである。彼らのデビュー・シングルの「SOPHISTICATED CISSY」、「CISSY STRUT」、「EASE BACK」という三つのヒット曲が収められている。その後のニューオーリンズ・サウンドの方向を決定づけたセカンド・ライン・ファンクを作り出し、ニューオーリンズ以外でもでもその名を轟かせることになる彼らの出発点となるアルバムである。プロデュースは ALLEN TOUSSAINT と MARSHALL SEHORN だがホーンもパーカッションも加えず、必要最低限の4人編成で、しかもオール・インスト・ナンバー。余計な音の一切ない極めてシンプルな音作り、シンプルさ故にとっつきにくいという意見もあるが、ゆったりと間を取って絶妙に押したり引いたりしているこのサウンドに溢れるグルーヴは、シンプルなだけに中毒性が高い。ギターとベースがユニゾンでリフを弾き、オルガンがメロディを奏で、ドラムがヘソとなるビートを叩き出す、初期ミーターズの基本パターンを乱暴を承知で書けばこうなる。特徴となるのは、ファンクと言えかなりテンポが遅いものが中心というここ。ぐい乗りで突っ込んでカタルシスを生むJBとは、正反対。3曲のヒット曲もそうだし、AABなどもそうだ。これを可能にしているのが Modeliste のドラムで、ABやEの様な遅いテンポでも見事にリズムが立っていて、芯のある音にしている。METERSの骨格がいやと言う程わかるファースト・アルバムだ。ミーターズは、Allen Toussaint が自己のプロディース作品でこのユニットを頻繁に用いたこともあり、ジャンルを越えて多くのアルバムにセッション参加としてその名を見出すことが出来る。クレジットこそないが、LEE DORSEY の (YES WE CAN) 、DR JOHN (IN THE RIGHT PLACE)、LABELLE (NIGHTBIRDS)、ROBERT PALMER (SNEAKIN' SALLY THROUGH THE ALLEY)、それに ALLEN TOUSSAINT のアルバムなど多数。
DIXIE CHICKEN ( 1973 ) WARNER BROS BS2686 [ LITTLE FEAT ]
A @Dixie Chicken ATwo Trains BRoll Um Easy COn Your Way DKiss It Off
B @Fool Yourself AWalkin' All Night BFat Man In The Bathtub CJuliette DLafayette Railroad
LOWELL GEORGE ( GUITATRS , VOCALS ) SAM CLAYTON ( CONGAS ) PAUL BARRERE ( GUITARS , VOCALS ) KENNY GRADNEY ( BASS ) RICHARD HAYWARD ( DRUMS , VOCALS ) BILL PAYNE ( KEYBOARDS , VOCALS ) PRODUCED BY LOWELL GEORGE
目指すべきもの、それは自分たちだけのビートであった。DELANEY&BONNIEにいたkenny gradney と sam claytom の参加よって、richard hayward のドラミングがぐっとしなやかになり、リズム・セクションはスリルだけでなく重心がすこぶる安定した。シンコペイトされたビートにふらみ、心地よいズレが加味された。ピアノがニワトリの鳴き声のように響くイントロが印象的なA@は、セカンド・ライン風でありながらよれぎみになって、ルンバ・ブギ的ビートも加わる。もったりした中で高度なひらめきの連続技が繰り広げられている凄い曲である。ミーターズ(「Rejuvenation」のころ)的ファンクの名曲AAは LOWELL のヴォーカルの粘り気とスライド・ギターが張り合う。「Willin'」の続編みたいなLOWELL作ののバラードABではスライド・ギターが美しい。ALLEN TOUSSAINT作(72年「LIFE,LOVE AND FAITH」に収録)のACは重量級スワンプ・ロック。ACDはねっとり感を引き継いだ曲で、タブラとシンセのからみが凄い。BBは、ミーターズは作らないであろうセカンド・ラインによる前衛快作。本作がレコーディングされているまさにその最中に、同じスタジオでレコーディングしていたのが、(はっぴいえんど)だった。そのレコーディングを目の当りにしたショックを細野晴臣は、「何よりもびっくりしたのは、圧倒的なサウンドでしたね。力強いビートと。音のクォリティ。彼らのエネルギーと興奮状態。いまきっと何か新しいことを生んでいるに違いないということが伝わってくるんです」と語っている。志向と実践力の見事な結晶、DIXIE CHICKENは永遠に萎びない。メンバーのセッション参加アルバムも多数ある、CHICO HAMILTOM (CHICO THE MASTER)、ROBERT PALMER (PRESSURE DROP)、LINDA RONSTADT (PRISONER IN DISGUISE )、JACKSON BROWNE (THE PRETENDER )、鈴木茂 (BAND WAGON)、BILL PAYNE を除くリトル・フィート最強期のメンバー5人がアルバム半分に参加の、矢野顕子 (JAPANESE GIRL )など。
LARK ( 1972 ) Reprise K44208 [ LIDA LEWIS ]
A @SPRING SONG AREACH FOR THE TRUTH BIT'S THE FRAME CFEELING FEELING D WHAT ARE YOU ASKING ME FOR ELARK
B @OLD SMOKEY AGLADLY GIVE MY HAND BMORE THAN A FOOL CBEEN MY BEST D WATERBABY ELITTLE INDIANS
ALL SELECTIONS WRITTEN BY LINDA LEWIS PRODUCED BY LINDA LIWIS WITH JIM CREGAN
LINDA LEWIS は、唯一無二のシンガー・ソングライターである。彼女がアコースティック・ギターを弾きながら自作曲を歌えば、それだけでまったくオリジナルな音楽が生まれる。童女のような歌声で、瑞々しいメロディと歌詞をしなやかに歌い上げるLINDAの無垢で愛くるしいヴォーカルは、聞き手の心を開放し、幸福感で満たしてくれる。まさに天才少女歌手がそのまま大人になったような女性である。本作のプロデュースは、Linda 本人とJim Cregan。全曲リンダのオリジナルで、バックに演奏は極めて簡素だ。A@はリンダ自身によるアコースティク・ギターのストロークで始まり、やがてボンゴとエレクトリック・ギターが絡んでくるがギターはごく控え目で、歌に花を添えるているといった程度。ABはアコースティク・ギターの弾き語りだし、AEはピアノとオルガンのみ。その他の曲も、シンプルなサウンド・プロダクションでベースとドラムが入っていない曲も多い。しかし、その代わりにパカーションが細かなリズムを刻んでいるし、抜群のリズム感を誇るリンダのヴォーカルは、楽曲にフレッシュな息吹を吹き込んでいる。リンダの曲は、転調があったり、リズムが変わったりするので、はっとさせられることが少なくないが、奇をてらったようなこころはまったくない。思いがけない起伏を描くメロディも、実にすんなり耳に入ってくるが、これはリンダの卓越した歌唱力のなせるわざだろう。それにしてもリンダの音楽は、一言では説明しずらい。フォークやR&B、ジャズ、ブラジル音楽などの要素が微妙にブレンドされているからであり、リンダのヴォーカルそのものがジャンルを超越しているからである。AAは、リンダがアリサ・フランクリンに影響をうけていることを物語る曲だが、いわゆるゴスペルかといえば、そうではない。リンダ独自のゴスペルなのだ。B@Aにおけるヴォーカルはリズムの上を軽やかなステップで舞い踊っている。そしてこの名作は、本物の雲雀のさえずりで幕を閉じる。まるでリンダ本人が雲雀に変身し、大空に舞い戻っていったかにようだ。
STAND ! ( 1969 ) Epic BN26456 [ SLY & THE FAMILY STONE ]
A @STAND! ADON'T CALL ME NIGGER , WHITEY BI WANT TO TAKE YOU HIGHER CSOMEBODY'S
WATCHING YOU DSING A SIMPLE SONG
B @EVERYDAY PEOPLE ASEX MACHINE BYOU CAN MAKE IT IF YOU TRY
ALL SELECTIONS WORDS & MUSIC BY SLYVESTER STEWART PRODUCED & ARRANGED BY SLY STONE
THE FAMILY - SLY STONE , FREDDIE STONE , ROSE STONE , GREGG ERRICO , JERRY MARTINI , CYNTHIA ROBINSON , LARRY GRAHAM
ABやA@、ADといったファンクの古典が入った4枚目の STAND でスライのファンクは完成する。最初にトークボックスやリズム・ボックス(後のヒップ・ホップや80年代のデジタル楽器などのさきがけとなる歴史的事件)、ハープをファンクに使ったのがスライであり、70年代の新しい黒人音楽=ファンクの方法論を確立した。白人っぽさをうまく自分たちの音楽に取り入れ、ハーモニーやアンサンブルを考えシンコペイションの魔術師みたいにリズムの強調をメロディに乗っけて展開していく、それを支える新しいベースのスタイルとリズムのタメ、裏の意味も含めたインパクトあるトータルなメッセージ、これがスライの方法論である。単調なビートに乗せて白人のわらべ歌のメロディを使って「ウー・シャッシャー」というハヤシ言葉をくっつけることによって実に黒人らしくカッコいいB@。バックにはホーンズが鳴り続けているが、パワーを内部にため込んだようにな抑制の利いた鳴り方で、こういうふうにかなり意図的にに強弱をつけたり、爆発しそうでしないまま最後まで行ったりするのがスライの演出である。AA、BAでは人間がしゃべるようなギターの演奏(トーキング・モデュレイター?)にスライのファンキーなユーモア感覚が見られる。前盤 LIFE よりソウルっぽさを増しながらサイキデリックな感覚にも接近しているが、感覚はあくまでもクールである。 LARRY GRAHAM (STANDの後、抜けて GRAHAM CENTRAL STATION を作る)のベースも一段と強力になった。しかし後に有名になるチョッパー奏法はまだ聞かれない。A@Aなどはメッセージ性も強烈だが、このあたりに表れているには (DANCE TO THE MUSIC) の場合と同じく、白人も黒人も含めたコミュニティ的な生き方へのスライの志向の表れではないかと思う。スライのグループは、兄弟やいとこを含みながらも黒人と白人、男性と女性とを含むグループで、しかもそれを ” ファミリー ”と呼んでいたところにスライの思想が表れている。そういう考え方をなんとかサウンドで表現しようと試行錯誤したのが STAND である。STANDの後、ヴェトナムの泥沼化、カンボジアでの虐殺、ドラッグに端を発する家庭破壊、黒人街のスラム化、公民権運動などで時代が大きく揺らぐ71年に、ファンのだれもがド肝を抜くジャケット、 全面に星条旗がたなびいている最高傑作 THERE'S A RIOT GOIN' ON (暴動)がリリースされる。(暴動)アルバム全体を覆い尽くしているのは、音楽的にあるいは社会的にすべての人々がひとつの夢を追い続けることができるという幻想は、まさしく幻想にすぎなかったという挫折感である。アルバムのかなりの部分をスライ一人でやったと言われるファンクは、どれを取っても下へ下へ沈んでゆく。スライはこの頃、かなりの麻薬中毒だった、そう言う意味では、暴動はある種のドラック・アルバムである。以降スライの麻薬中毒がひどくなりながらも、メンバーをとっかえひっかえしながら、アルバムをリリースしたがスライの影響を自分なりに再構築した多くの若いファンク・アーティスト達との戦いに敗れ、やがてレコード会社もサジをなげレコーディング契約も宙に浮いてしまう。スライの病状を見かねBOBBY WOMACK、GEORGE CLINTON、PRINCE らがいろいろな手をさしのべたが? ファンク・ミュージックには、ニューオーリンズのリズムというのが絶対関係あり、JB にしても、リズムを敷きしめるのではなく、抜いていく、ただ JB と SLY ではズレがある。JB はリズムの強調しか考えなかった。SLY はそれに、強弱と調和を加えた。いま JB はすごいというのは多いけど、すごいことやっていながら SLY はわかりづらい存在になりつつある。SLY が後に、あたえた影響は計り知れない。
風街ろまん ( 1971 ) URC URG - 4009 [ はっぴいえんど ]
A @ 抱きしめたい A 空色のくれよん B 風をあつめて C 暗闇坂むささび変化 D はいからはくち
E はいからびゅーちふる
B @ 夏なんです A 花いちもんめ B あしたてんきになれ C 颱風 D 春らんまん E 愛餓
PRDUCED ・ DIRECTED BY はっぴいえんど
「はっぴいえんど」の1stアルバム通称(ゆでめん)の次に出た2stアルバム(風街ろまん)です。
1969年 「はっぴいえんど」結成 70年レコード・デビュー 1st (はっぴいえんど) 71年 2st (風街ろまん) 73年 3st(HAPPY END) 73年 解散。 「はっぴいえんど」は、69年4月1日に結成されたエイプリル・フール(菊地栄二・小阪忠・柳田ヒロ・細野晴臣・松本隆)から細野晴臣と松本隆、「ランプポスト」から大滝詠一が結成した「ばれんたいん・ぶるう」に「スカイ」から鈴木茂が加わり、細野と松本のウエスト・コースト・ロックへの想いをとげるために結成された。<72年4月から3ヶ月「パフ〈吉田美奈子・野地義行〉」の野地義行が加入> はっぴいえんどの1枚目でめざしたのは、バーバンク・サウンド(ヴァン・ダイク・パークス)、バッファロー・スプリングフィールド、ザ・バンド、ストロベリー・アラーム・クロック、モビー・グレイプなどの当時(70年)の先鋭的なアメリカン・ロック・グループの音と日本語の結合。<バッファロー・スプリングフィールドは、66年アメリカで、スティーヴン・スティルス、ニール・ヤング、リッチー・フューレイ、ブルース・パーマー、デューイ・マーチンで結成される、のちにブルースに代わってジム・メッシーナが参加する。カントリー、R&B、ラテンなどを微妙にブレンドした緻密で独創的なサウンドを聴かせたグループ。> バッファロー・スプリングフィールドやジェイムス・テイラーなどのアメリカ西海岸あたりのサウンドを実によく把握し、それが彼等の体の中を通り抜けて、彼等の思考の洗礼をうけ、そしてレコードとして完成した。はじめの仕事は日本語はリズムに乗らないと言う定説をくつがえすことからはじまった。語の区切り方とか、乗りやすい言葉を日常会話や、果ては死語の中から探すという作業から、その<指向>がはじまった。そのことを考えれば、日本語でロックを唱うということは、かなりテクニカルな問題だった。そのテクニックには音も詞に関しても、ぼくらは絶対の自信を持っていたと思う。あたりまえことを実現だけの話だったから、ぼくらの興味は、どうやって実現するかに注がれるようになった。何を唱うか、じゃなくてどうやったら唱えるか、というのが、はっぴいえんどの指向だった。キャロルは、はっぴえんどがいなければ存在しなかったらバンドだと思いますよ。それまで日本語のロックというのはなかったのだから、ぼくらのやってきたことが前提になったんだと思った。はっぴえんどの戦いが、ぼくらの手をはなれて、勝利を得たという感じでした。(松本隆) はっぴえんど以前にも「日本語」で「ロック」を歌う試みに挑んだグループはいた。ほとんどは、直載な単語を攻撃的なハード・ロック・サウンドに載せて連射するばかりだった。それらは社会派プロテスト・フォークと同じような「詞の優位性」と、押しつけまがしい啓蒙臭とをはらんだ音楽でもあった。言葉それ自体に強烈なアジテーションが託され、サウンドは単なる効果音として添えられているにすぎなかった。それは「ロックに日本語をのせる」ことは、「ロックに意味をのせる」ことにほかならなかった。「詞の意味」と「歌の意味」はイコールで結ばれていた。だから日本語独特のイントネーション、音節、文法などに圧倒され、苦しみもがくしかなかった。はっぴえんどは、歌に「詞の意味」をのせようとしなかった。詞も、メロディも、サウンドも、すべて不可分のものとして提出してきた。詞は言葉で、言葉である限り、そこには何らかのの意味が託されている、それがあるメロディと合体し、カラフルなサウンドに彩られて宙を舞うとき、そこには「詞の意味」とは別の「風景」が現出する、語のイントネーションや音節をすべて白紙に戻し、バラバラに解体してから再構築したり、異質なイメージどうしをぶつけてみたりして。(風街ろまん)は例の「日本語のロック」論争に結着をつける決定的な1枚で、まぎれもない傑作である。奔放なアイディア。洒落っ気。飛躍的に向上した演奏テクニックと、作品自体のクオリティ。それらが、当時、日本では先端技術だった八チャンネルのマルチ・トラック・テープレコーダーと見事に合体した。サウンドも、映像も、すべてすっきりとクリアに変身した。ドラムの音も、ベースのおとも、信じられないほどパワフルに響き、当時の日本の水準からすれば、驚くべき進歩だった。
時代がぼくらに歩みより、ばくらも少しだけ時代に歩みより、ある瞬間、両方が交差した。
「はっぴいえんど」は、日本ではじめてのレコーディング・グループだった。
ドラムとベースが粘りつくようなビートをつくりだす「抱きしめたい」「はいからはくち」「颱風」。ジェイムス・ティラー色の濃い「風をあつめて」「夏なんです」。カントリー・ロック的な「春らんまん」「暗闇坂むささび変化」。ファンキー・ソウルのリズム・パターンを借用した「あしたてんきになれ」。アルバム全体をひとつのサウンド・ポリシーが貫かれている。
(風街ろまん)で、ボクらはすべてを燃焼しきっちゃったね。詞も曲、ベストなものを集めて作ったからね。完璧なレコードだったよ。今でも好きなアルバムだね。だから、あのアルバムを作った後、ボクらは、何もやることがなくなっちゃったんだ。個人個人の音楽性も強くなってきたしね・・・(細野晴臣)
そんな言葉を裏づけるように、細野・鈴木はその後スタジオ・ミュージションとしての活動を本格化させ、大滝はシックスティーズ感覚を生かしたソロ・シングル&アルバム製作にとりかかり、松本は作詞家として、他人へ作品提供を始めた。1973年にはアルバム「南正人」、吉田美奈子「扉の冬」、荒井由実「ひこうき雲」が出る、バックはすべてキャラメル・ママ(細野・鈴木)だった。シンプルなフォー・リズムを基調にしたアンサンブル。タイトでファンキーなリズム。この3枚は現在の日本のポップ・ミュージックの音作りの原型で、多くのシンガー・ソングライターをはじめ、歌謡ポップスの世界にも大きな影響を与えた。細野らキャラメル・ママがやりたかったものは、職業としての「ミュージシャン」で、マッスル・ショールズ
<フェイム・スタジオのミュージシャン〈全員白人〉だったロジャー・ホーキンスds、バリー・ベケットkbd、エディ・ヒントンg、デヴィッド・フッドb らが69年マッスル・ショールズ・サウンズ・スタジオを設立し、ずっしりと音を作るのが特徴で、サザン・ソウルからロックなども手掛ける。特にホーキンスのスケールの大きいドラミングは、スタックスのアル・ジャクスンと共に、南部産のソウル・ドラムの手本となる。>などを目指した。
荒井由実・吉田美奈子から南佳孝・雪村いづみ・アグネスチャン・南沙織などや、テレビの音楽、CMまで各方面に彼等のサウンドを浸透させて日本のトップ・ミュージシャンとしての地位を築きあげていった。キャラメル・ママはスタジオ・ワークの面では画期的な成功を収めた。バンド自体してはボーカルの弱さからステージ活動もままならず、レコーディングにも恵まれなかった。それならばメンバー個々の個性をフルに発揮できる形のチームにと、ティン・パン・アレーというミュージシャン・チーム(細野晴臣・鈴木茂・林立夫・松任谷正隆・矢野顕子・吉田美奈子・小阪忠)ができあがる。彼等がバックをつけた音楽は、「ティン・パン系」などとよばれセンスのいい都会的なポップ・ミュージックの代名詞ともなった。ベーシストとして細野は、はっぴいえんど時代から高い評価をうけていたが、そういう認識が一般に広まった。彼の活躍をきっかけに、小原礼(サディスティク・ミカ・バンド)・後藤次利(フォージョーハーフ・サディスティク・ミカ・バンド)などがスタープレイヤーとして注目を浴びるようになる。それまではむしろ地味な印象の強かったベースという楽器が実は音楽を構成うえでたいへん重要な役割を果たしているのだということを細野はしめした。72年、大滝詠一はCMのイメージ・ソングを手がける、その後、数多くのシンガー・ソングライターがCMを手がけるがその草分けとなる。75年フィル・スプクターを意識した、パーソナル・レーベル「ナイヤガラ」とスタジオ「FUSSA 45スタジオ」をスタートさせその第一弾として山下達郎率いるシュガーベイブ(大貫妙子・伊藤銀次・村松邦男)の「SONGS」をリリースする。ナイヤガラからリリースされる作品はほとんどこのスタジオで録音され、後に「音の魔術師」とまで称される大滝詠一のサウンド実験室となる。 <フィル・スペクターは、61年設立したレコード会社「フィレス」からヒット曲を次々チャート内に送り込み、アメリカ・ポップス界に偉大な足跡を残した。スペクターは、アレンジャーのジャック・ニッチェ、エンジニアのラリー・レヴィン、ソングライターのジェフ・バリー、エリー・グリーンウィッチ、バリー・マンら、そして豪華なバック・ミュージシャン陣からなる一大チームを率いて「ウォール・オブ・サウンド」と呼ばれる独創的なサウンドを作り出した。> ポップスの流れを大きくとらえると、リズム・タイプとメロディ・タイプに分かれる、大滝詠一は歌手として、作曲家として、プロデューサーとして一作ごとに微妙に力点をずらしながら、「メロディ」へのアプローチを続けている。 細野晴臣は、73年にソロ・アルバム 「HOSONO HOUSE」を発表。ザ・バンドやリトル・フィート、ヴァン・ダイク・パークスをはじめとするバーバンク一派、ミータズなどのニュー・オルリンズの影響をうけ田舎と都会がまじりあった新しいポップ・スタイルを示した。 大滝詠一は、72年 ソロ・アルバム 「大滝詠一」を発表。アルドン/スクリーン・ジャムス系の影響を受けたニューヨークをはじめとする都会のロックン・ロール。 鈴木茂は、75年 ソロ・アルバム 「BAND WAGON」を発表。リトル・フィートのメンバーやヴァン・ダイク・パークスのサポートをうけて、ギタリストとして作曲家として、著しい成長を見せた。アルバム中、いくつかの曲で、独自のフィンガー・ピッキングを披露した。このフィンガー・ピッキング・テクニックによって、バッキングのリズム感覚が確実のグレードアップしセッション・ギタリストの第一人者となる。 松本隆は、72年 作家として詩集「風のくわるてっと」を、73年 作詞家として第一作 チューリップ「夏色のおもいで」をだし、その後数々のヒット曲を作詞した。結成当時から「10年早いグループ」と形容された「はっぴいえんど」のメンバーたちはそれぞれのやり方で音楽に対して積極的な賭けを挑みつずけている。
JACO PASTORIUS (1976) Epic 25-3P-84 [ JACO PASTORIUS ]
A @ DONNA LEE A COME ON,COME OVER B CONTINUUM C KURU/SPEAK LIKE A CHILD D PORTRAIT OF TRACY
B @ OPUS POCUS A OKONKOKE' Y TROMPA B (USED TO BE A)CHA−CHA C FOR GOTTEN LOVE
PRODUCED BY BOBBY COLOMBY
1987年9月12日フロリダ、フォート・ローディルの深夜営業クラブの外で、マーシャル・アーツのプロのガードマンにひどく殴られ意識不明になる、9月21日午後10時、9日間脳死状態が続いた後、重病になっていたドラックとアルコール中毒の“世界最高のベース・プレイーヤ”は、塗装の剥げたフレットレスの62年製フェンダー・ジャズ・ベースで天国でのジャム・セッションに出かけてしまった。ジャコ・パストリアスは、1970年代半ばにその超人的腕前でエレクトリック・ベースの役割に革命的影響を与えた。ジャコのプレイのスピードとテクニックは、エレクトリック・ベースの歴史の中で先例のないものでエレクトリック・ベースのパイオニア達---ジェームス・ジェマーソン、モンク・モンゴメリー、ドナルド・ダック・ダン、ジェリー・ジェモット---の功績をはるかに超えていた。チャーリー・パーカーの「ドナ・リー」やジョン・コルトレーンの「ジャンアント・ステップス」で披露する目の眩むようなチョップでジャズファンを、ジミ・ヘンンドリックスの「アメリカ国家」でのうなるようなフレーズはロックファンを熱狂させた。ジャコはジミ・ヘンドリックス、チャリー・パーカー、デューク・エリントン、ジョン・コルトレーン、ジェイムス・ブラウン、バッハ、ボブ・マーリィ、そしてザ・ビートルズを融合させた(フュージョン・ミュージック)。バードの激しいビバップ「ドナ・リー」、コルトレーン様式の実践「ジャイアント・ステップス」、バッハのポリフォニックな「半音階的幻想曲」、ジミのカタルシスをうながす騒音「サード・ストーン・フロム・ザ・サン」、JBのノリのいいグルーヴ「ザ・チキン」、ボブ・マリィーの軽快なレゲエ「アイ・ショット・ザ・シェリフ」、ビートルズの調和のとれたポップ「ブラックバード」、これらの要素のつながりがジャコの音楽の中で表現されていた。これらの異なる世界のエッセンスを〔パンクのスピリット〕をもってみごとに織り合わせひとつにまとめてしまうなどということはジャコにしかできなかった。ジャコはさまざまな人格を持つ複雑な男だった。ジミ・ヘンドリックスに敬意を表すロックカーとしてのジャコ、チャーリー・パーカーとジョン・コルトレーンに敬意を表すビーバッパーしてのジャコ、ビック・バンド【ワード・オブ・マウス】のリーダーとしてのジャコ、ジョニ・ミッチェルの「逃避行」「ドンファンのじゃじゃ馬娘」「ミンガス」「Shadows And Light] などのアルバムで見せるエゴのない繊細なサポーターとしてのジャコ。ジャコ・パストリアスはチャリー・パーカーやジミ・ヘンドリックスのような伝説的な天才、音楽革命家で、両者とも悲劇的なヒーローで放蕩生活を送り、激しくプレイし、若くしてこの世を去った。1976年、EPICから驚異的なデビュー・アルバム『ジャコ・パストリアス』がリリースされると、ジャコは一気に世界中の音楽界であっという間に神話的な存在になった。「トレイシーの肖像」でのまったく新しいハーモニクスの使い方(7thコードにおける、#9th等のコード・サウンド)、炸裂するチョップによるパーカーへの賛歌「ドナ・リー」でのたぐい稀な腕前、「カム・オン、カム・オーバー」でのディープなR&B、「クル〜スピーク・ライク・ア・チャイルド」「チャ・チャ」でのグルーブ感、これらすべてがベーシスト達を驚かせた。ジャコ・パストリアスのベースは、ソロになった時それまでのリズムをキープするのと違って、フレーズの語尾をグリッサンドさせたり、ヴァイブレイトさせたりして、まるでホーン奏者が吹いてような効果を出した。これはジャコが他のベース奏者を聞かずに、パーカー、コルトレーン、マイルスといったホーン奏者や、ビル・エバンス、マッコイ・タイナー、ウェス・モンゴメリーを聞いていたからだ。ジャコ のベース・プレイの特長は、まずそのテクニック、そしてリズムが機械のように正確。1976年4月1日に WEATHER REPORT に加わり「BLACK MARKET」「HEAVY WEATHER]「Mr.GONE]「NIGHT PASSAGE」「WEATHER REPORT」「8:30」まで在籍、81年脱退。1978年「ダウン・ビート」誌の評論家・読者人気投票共に、エレクトリック・ベース・プレイヤー部門の第一位選ばれベース界の頂点に立つ。70年代 スタンリー・クラークは、ベースの新しい価値観を確立させた。そのプレイは、ラリー・グラハムの生み出したチョッパー(親指で弦を叩くようにして音を出す奏法)を基礎にしていた、ジャコは別のコンセプト(コード・ヴォイシングとハーモニクス)を提示した。 1980年 『Word Of Mouth』 リリース。 「Word Of Mouth」 の「クライス」「半音階的幻想曲」での全くの乱れもみせずビートを、恐ろしく早いテンポで正確に刻むテクニック!1981年 伝統的なジャズ・サウンドとフュージョンが同居し、コンボの要素とビック・バンド要素が両立し、80年代ジャズのひとつの方向づけをした。 「ワード・オブ・マウス・ビック・バンド」を結成。 1982年 『Aurex Jazz Festival '82 Live Twin T& U』 リリース。 ベース奏者にとどまらず作曲の才能に恵まれたトータル・ミュージシャンで、ベース奏者でこれほどスケールの大きい構成力を持っていたのはチャーリー・ミンガス以来である。 <僕が最初にジャコを聴いたのは1976年、彼の1枚目のアルバムが出た時だった。このアルバムは、買ってから1年半くらいの間いつもターンテーブルの上にあった。彼は僕に、ただベースを弾くだけではなく、音楽を学ぶ気にさせてくれたベース・プレイヤーだった。僕を虜にしたのは、なんと言っても彼の作曲の才能だ。彼のソロでさえ、隅々まで作曲されていた。それらはハーモニーとリズムの傑作品だった。僕は彼のソロを分析していき、そうしていくことで新しい世界が開けていった。単にベースだけではなく、音楽を学ぶようになった。彼のレコードを聴いて、コードの基本を学んだ。彼が僕や、ほかの多くのミュージシャン達にどれほどの影響を与えたかなんて、言葉ではいいつくせるもんじゃない。・・・・ マーカス・ミラー> <ジャコは多くのプレイヤーのみならず、音楽にも影響を与えた。彼は重要なプレイヤーだった。ジャコはベースを新しいレヴェルに高めたのだ。・・・・ロン・カーター> <彼は偉大な天才だった。それがドラックと酒をやり始め、結局それで身を滅ぼした。私にとって、ジャコはジャズ界のシド・ヴィシャス【パンク・ムーヴメントの火付け役になったバンド、セックス・ピストルズのベーシスト】のようなものだった。ふたりともワイルドで反抗的、自滅型で、若くして悲劇の死を迎えた。ジャコの死を知った時、私は悲しかったが驚きはしなかった。それはすでに時間の問題だったから。しかし彼は絶対に偉大なミュージシャンとして歴史に残るだろう。・・・・スタンリー・クラーク>
THE EBONYS ( 1973 ) Philadelphia International KZ-32419 [ THE EBONYS ]
PRODUCED BY GAMBLE-HUFF MUSIC BY MFSB "THE SOUND OF PHILADELPHIA "
華麗なフィリー・サウンドにのってバリトン・ヴォイスが炸裂する、グループ・ファンのいうところのフィリーの究極。若いグループ・ファンの最終目標になっていたアルバムである。ソウルを多少かじったか、グループに興味がある人なら、必ずといっていいほど出てくる名、それがエボニーズである。だが、これほど知られていないグループも、また、ない。それは、原盤LPがあまり売れなかったため、目にする絶対量が極めて少ないからである。アメリカでは、日本より少ないらしい。AA(IT'S FOREVER) スウィートなコーラスに続いて出てくる、力強いバリトン・ヴォイス、それにからむ見事なファルセット。スウィート・ソウルのエッセンスが詰まった”永遠”の曲である。メンバーはデヴィッド・ビーズリー、ジェイムス・テューテン、クラレンス・ヴォーン、そして、紅一点のジェニー・ホームズ。71年 出演していたナイトクラブにレオン・ハフがやってきて彼らを見染め、新しく始動したギャンブル=ハフのレーベル、フィラデルフィア・インターナショナルの3枚目のリリースに選ばれ、71年、シングル「YOU'RE THE REASON WHY」でデビュー、73年、LP「THE EBONYS」リリース。ヒット曲2曲、アルバム1枚を残し、76年 ブッタに移籍、そこで、シングル2枚とLP1枚を発表した(このセカンドも、フィリーの派手さはないが、好盤)。エボニーズが、同じフィラデルフィア・インターナショナルからデビューした、HAROLD MELVIN & THE BLUE NOTES ほど知られていないのは、後からデビューしたブルー・ノーツ方がオリジナティがあるグループと思われ、第1弾「アイ・ミス・ユー」がR&Bチャート7位、続く第2弾の「二人の絆」がR&Bチャート1位、ポップチャート3位になり、単なるブルー・ノーツの後追いグループのように思われてしまったからだ。「二人の絆」は不朽の名作である、「IT'S FOREVER」も不朽の名作に値するすばらしい曲だ。エボニーズの、LPが出されたのがデビューから2年たってからの73年で、ブルー・ノーツやオージェイズに遅れを取ったが、全曲名曲の、フィラデルフィア・インターナショナル、レコードを代表する1枚である。
CATCH A FIRE 72 THE WAILERS(BOB MARLEY)
63年、PETER TOSH、BANNY WAILERらとグループを結成し、のちにWAILERSと名乗るようになる。WAILERS(BOB MARLEY/BUNNY LIVINGSTONE/PETER MACKINTOSH)は、ジャマイカではやっていた‘スカ’というリズムを発展させた新しいリズム‘ロック・スティデイ’を作り出す。アイランド・レコードとワールド・ワイド契約を結び、73年に発売された『キャッチ・ア・ファイアー』で、世界的な注目を集める。このアルバムで多くの人(ミュージシャン・リスナー)がレゲエを初めとした第三世界の音楽を注目(取り入れる・聴く)ようになった。セカンド・アルバム『BUNN’』73に収められた「アイ・ショット・ザ・シェリフ」をエリック・クラプトンがカヴァーし大ヒットした。 BOB MARLEY 1981.5.11脳腫瘍で死去。享年36才。日本で(レゲエ―初めはレガエと呼ばれていたと記憶?)が、知られる(活字)ようになったのは大好きな写真家のユージン・スミス(http://www.smithfund.org/)(Wiliam Eugene Smith)の影響を受けた北海道出身で日本の女性写真家の先駆者的な(ハーレムの熱い日々)などがある吉田ルイ子 (http://www.geocities.jp/ruikoy/)の本かエッセイだったと思います。そして、リズム(サウンド)として取り入れられたの73年、(加藤和彦プロデュース・アレンジ)の泉谷しげる「光と影」の中でだと思います。
LONELY SURFER 69 -JACK NITZCHE
REPRISE ( Press Original ) Mono-US盤
スペクタ−・ファン、サーフ・ファン垂涎の激レア・アイテム!フィル・スペクターの左腕としてウォール・オブ・サウンドを文字通り作り上げた偉大なるアレンジャーのファースト・ソロ作。早すぎた"ペット・サウンズ"、永遠のサーフ音楽。
「作編曲家ジャック・ニーチェは2000年8月25日、気管支感染の再発がもとでロスにあるクイーン・オブ・エンジェルス病院で逝去。享年63ご冥福をお祈りします」全曲歌なしのインストもの。ニッチェがその後様々なロックアーティストの作品に大胆に導入していったサウンドの原点として聴いてみても、色々発見のあるアルバム。タイトルから言ってサーフィン・インストものを想像してしまいますが、サーフィン・インストの隠れた名曲「The Lonely Surfer」や Astronauts のヒット曲で Lee Hazelwood の書いた「Baja」を除いてはサーフィン・インストと言うよりも、「Stranger On The Shore」や「Ebb Tide」といったスタンダード、「世界残酷物語」、「荒野の七人」などの映画音楽のカヴァーも含めてオールドタイムな選曲がされています。ドラムやパーカッションなどリズム楽器の効果的な使用や、複雑なストリングスのアレンジなど、ポップス新時代の幕開けにあたる66年ならではのジャック・ニッチェのアイディアがそこかしこに感じられるアレンジで聴いてみると、ショパンのメロディが、現代の様々なポップスに影響を与えていることがわかります。好きなことをのびのびとやっているなあという感じが伝わってきます。 バックは Hal Blaine のドラム、Tommy Tedesco、Ray Pohlman のギター、Leon Russel のピアノ、David Gates のベースと、フィレスでお馴染みのメンバーによる老練なる技を堪能できます。ジャック・ニッチェといえば1960年代のポップス界を代表するアレンジャー。ポップス黄金期にはフィル・スペクターとタッグを組んで数々の名作を生み出し、その後の「ロック革命期」にはニール・ヤングやローリング・ストーンズらに「興味深いところでは、井上陽水の1974年のアルバム『二色の独楽』にもアレンジを提供しています。」印象的なオーケストラ・サウンドを提供し、70年代以降は映画音楽に力を注いだ、ジャック・ニッチェが手がけた主な作品には「ビート・パレード」(1964)「パフォーマンス」(1970)「エクソシスト」(1973)「カッコーの巣の上で」(1975)「幸福の旅路」(1977)「(未公開)ブルーカラー/怒りのはみだし労働者ども」(1978)「ハードコアの夜」(1979)「クルージング」(1979)「(未公開)男の傷」(1981)「マイ・ライバル」(1982)「(未公開)吹きだまりの町」(1982)「愛と青春の旅だち」(1982)「ブレスレス」(1983)「天使の失踪」(1983)「スターマン/愛・宇宙はるかに」(1984)「(未公開)ウィンディーシティ」(1984)「ナインハーフ」(1985)「ナイルの宝石」(1985)「(未公開)ショー・ダンサー」(1985)「ニューヨーク・ベイサイド物語」(1986)「スタンド・バイ・ミー」(1986)「(未公開)恋はカメハメハ!」(1986)「第七の予言」(1988)「(未公開)パトリック・スウェイジ/復讐は我が胸に」(1989)「リベンジ」(1990)「ブルーヒート」(1990)「恋する人魚たち」(1990)「ホット・スポット」(1991)「インディアン・ランナー」(1991)「ブルースカイ」(1994)等がある。ニッチェは1975年の「カッコーの巣の上で」と1982年の「愛と青春の旅だち」でアカデミー賞の作曲賞にノミネートされており、後者では主題歌の『愛と青春の旅だち(Up Where We Belong)』でアカデミー賞の歌曲賞、及びゴールデン・グローブの歌曲賞を受賞している。
HELP FROM MY FRIENDS 70 - STEVE CROPPER
VOLT ( Press Original )
ブッカー・T&THE MG'S結成時のメンバーであるSTEVE CROPPERは、58年、Charles Axton、Wayne Jackson、Don Nix、Jerry Lee "Smoochie" Smith、Donald "Duc" Dunn、Terry Johnson等とMar-Keysを結成。61年「Last Night」の大ヒットを生み(R&Bチャート2位)、60年代のサザーン・ソウル・ムーヴメントの立て役者としてその名を馳せた。 1960年代中期以降のソウル・ミュージックで、スタックスレコード(Stax/Volt=Memphis「ロカビリーのヒット曲のリリース元で有名なレーベルSun Recordがあった」/Tennesseeのカントリーのフィドル奏者だったJim Stewartと姉のEstelle Axtonが59年にレコード会社を立ち上げた、二人の頭文字を組み合わせてSt+Ax=Staxとした。最初はSatellite Recordと言うネーミングだった。62年にStaxに改名。最初の大ヒット曲はCarla Thomasの"Gee-Whiz"(1961)。レコードの配給は大手 Atlantic Labelが引き受けた、日本ではWarner Brothers (Atlantic)のレーベルが付いていた。)のスタジオ・ミュージシャンとして、オーティス・レディング(Otis Redding)やサム&デイブ(Sam & Dave)などすべてのアーティストのレコーディングでギターを担当、そのレコーディングバンドを主体に62年にはBooker T.と出会ってMG'sを結成結成、「グリーン・オニオンズ」、「ソウル・リンボー」などのヒット曲を出した。また、作曲家としてもOtis Reddingの「(Sittin' On)The Doc Of The Bay」 、Wilson Pickettの「In The Midnight Hour」 、Eddie Floydの「Knock On Wood」等の名曲を始め、John Lee Hooker、Ray Charles、Jimmy Reed等に楽曲を提供している。彼の手数の少ない、簡素な演奏はスタックス在籍時に、同レーベルのスタイルを確立する上で大きな役割を果たした。70年代半ばにMG'Sが解散した後も、クロッパーはプロデューサーとして、また人気セッション・プレイヤーとして音楽業界での活躍を続けている。 愛器はテレキャスターで、ピックアップはミドルかフロント・ポジションを使う事が多く、リズム感覚が黒人のグルーヴを宿し、カッティングやリフに個性的なスタイルを持っている。音色はクリア・トーンが特徴。1970年代はプロデューサーとして、第2期ジェフベックグループやロッド・スチュワートなどのアルバムを制作。また、ソロ・アーティストとしてもアルバムをリリースした。1980年代、ブルースブラザース(Blues Brothers)でプレイヤーとしてカムバック、同名映画にも出演した。忌野清志郎ともレコーディング、ライブを行い、1998年に映画の続編、ブルースブラザース2000に出演。初期のソロ名義でレアです。
ROCK AND ROLL(HALLELUJAH I LOVE HER SO) 57 - RAY CHARLES
ATLANTIC 8006 (Press Original) <モノラル>
ATLANTIC移籍第一弾、ゴスペル・ソウル(リズム・アンド・ゴスペル)が完成したアルバム。ソウル・ミュージックの開拓者、レイの代表的アルバムの1枚。初期プレスの渦巻レーベル、モノラル盤。
「Hallelujah I Love Her So」、「Mary Ann」、「I Got a Woman」等の代表曲収録。
「初期プレスの渦巻レーベル=ATLANTICのレーベルは緑(上)赤(下)などのように上下で色分けしたレーベル(詳しく書きませんが、その色でモノラル/ステレオが知ることができる)が知れていますが、初期のレーベルはイエロー・レーベル/グリーン・レーベル/ブラック・レーベルと呼ばれ1色でした。特にLPに使われたブラック・レーベルはマニアには(黒物)と呼ばれ非常に高価です。通称渦巻レーベルと呼ばれるブルズ・アイ・レーベルはモノ/ステレオと色が違いますが、60年前後に一時的に短期間(使用期間が非常に短い)使われたレーベルでブラック・レーベルと同じように非常にレアで高価です。ブルズ・アイ・レーベルの方がレアで手に入りにくいと言う人もいます。」
WHAT’S GOING ON 71 - MARVIN GAYE
TAMLA (US Press Original)
オリジナル厚紙ジャケのオリジナル!
60年代後半、「悲しいうわさ」などヒット曲を連発し歌手/エンターテイナーとして全盛期を迎えていたMARVIN GAYEがそれまで歌手/エンターテイナーに徹し自ら創作活動をしていなかったのに何故?WHAT’S GOING ONを作たったか!その背景は、色々な要素が絡み合っている。デュエット・パートナーのTAMMI TERRELLの死(70.3.16)。弟フランキーのヴェトナム戦争からの帰還、フランキーからヴェトナムでの悲惨日々の話を聴き、反戦的なメッセージ、社会問題に対する提言、それに全人類的な愛をテーマにした、モータウン初の明確なメッセージをもったコンセプト・アルバムであり歴史的(革新的・衝撃的)名作を作り上げたか!このアルバム制作前にベリー・ゴーディーに語った「今の世界に不満なんだ。怒っているんだ。それを歌わなければならない。反対しなければならない」という言葉に表れている。ヴェトナム戦争や公民権運動など、当時の社会問題をあらゆる視点から捉え、訴えたアルバム。明確なメッセージは、ロナルド・ベンスン(フォー・トップス)とアルフレッド・クリーヴランド(ミラクルズ)の助けを受け誕生した、歴史上ナンバーワンのベースラインと言われる一曲目のWHAT’S GOING ON(一体何が起こっているんだ?)に表徴され、それがキーとなり、アルバム全体を通して一曲に繋がっているように思われる。ソウル・ミュージック全体?(MOTOWN)のサウンドの変化(作曲法)/ロック界のシンガー・ソングライターの影響も要素として見逃せない。SLY やJIMI HENDRIXを高く評価していた、NORMAN WHITFIELD がTHE TEMPTATIONS の「CLOUD NINE -69」で見せた新しいスタイル(演奏したフレーズ(グルーブ)から曲を組み立て⇔曲)はサイケデリック・ソウルと呼ばれ次第にメッセージ性が強くなって行く。サイケデリック・ソウルをニュー・モータウン・サウンドと呼ぶ人もいる。NORMAN WHITFIELDの作ったスタイルは、MARVIN GAYE/STEVIE WONDERは言うに及ばず、NEW SOULと呼ばれるアーティスト「CURTIS MAYFIELD/ISAAC HAYES/BARRY WHITE/GAMBLE-HUFF」がヒントにしたと言われている。また、「JAMES TAYLORを出るべくして出てきた/心地よい」とMARVIN GAYEはWHAT’S GOING ON、出す前に言っているようにシンガー・ソングライターの影響も見逃せない。WHAT’S GOING ONにより、アーティスト主導のアルバム製作を可能した。ジャケット裏面にはアルバムに参加した40人程のミュージシャンの名前が謝辞の言葉と供に記されている。 '73年の『レッツ・ゲット・イット・オン』などの名作アルバムを連発した。しかし、離婚問題を機にモータウンを追われるなど私生活はトラブル続きで'84年4月父親により射殺された
PRODUCED by: MARVIN GAYE
ORCHESTRA CONDUCTED & ARRANGED by : DAVID VAN DEPITTE
ON THE CORNER 72 - MILES DAVIS
COLUMBIA (US Press Original)
Electric Miles(電化マイルス)、MILES IN THE SKY (68)〜1969 MILES (93)
1949年『Birth Of The Cool』を発表、クール・ジャズ、ハード・バップ、モード・ジャズと1950年代、1960年代のモダン・ジャズの道を切り開いた。1960年代後半からエレクトリック楽器を導入したエレクトリック・マイルス時代に突入、クロスオーバー/フュージョンへの扉を開けると同時に、ジャズとファンク、ロックとの融合を示した。ジミ・ヘンドリックスやスライなどを聴いて、ロックやファンクにも理解を示し「Bitches Brew」や「Jack Johnson」といった傑作を作った。そして「もっと黒人大衆の支持を得たい」とマイルス流ファンクミュージック、Electric Miles(電化マイルス)の最大の問題作ON THE CORNER を作る。タブラやシタールを交えたサウンドと、ドラムやパーカッションが入り乱れるリズムの嵐は圧巻。延々と続く演奏はミニマル・ミュージック的でもあり、聴いてうちトリップしてくる。踊りやすいとは言えないこのファンキーさ、アバンギャルドさは現在の耳で聴いても充分すぎるほど刺激的。一応、4曲に分けられているが、ひとつの大きな音の塊が聴き手に挑戦しているかのように圧倒的な密度で迫ってくる。ファンク、ヒップホップのファンはもちろん、ロック・ファンも必聴。録音メンバーは既述されていない。初期オリジナル盤の内ジャケットのイラストには[BITCHES BRUW WHAT?] [MILES MAN WE GO WAY BACK YOU KNOW KIND OF BLUE][MILES IS MY MAIN MAN LIVE AND EVIL][IF I HAD A TASTE,ID DRINK TO MILES AT THE FILLMORE]と書かれている。膨大なセッションからTEO MACERO が編集して作ったアルバム。 1975年に突如引退。1981年のカムバック後は、Hip-Hopなども取り込み最先端ブラック・ミュージックへのアプローチを続けた。そして1991年に永眠。
MILES DAVIS(Trumpet)
CARLOS GARNETT(Sax) HERBIE HANCOCK/HAROLD I.WILLIAMS(K)
DAVID CREAMEN(G) COLLIN WALCOTT(Sitar) MICHAEL HENDERSON(B)
JACK DE JOHNETTE/BILLY HART(D) JAMES MTUME(Per) BADAL ROY(Tabla)
CHICK COREA(K) JOHN McLAUGHLIN(G) etc
PRODUCED:TEO MACERO
ROOT DOWN JIMMY SMITH LIVE! 72 - JIMMY SMITH
VERVE (US Press Original)
ジャズ・ピアニストから後にハモンド・オルガン奏者としてソウル・ジャズというスタイルを確立、別名B-3と呼ばれる初期のハモンド・オルガンを広く一般に普及させ、60年代までにあらゆるアメリカン・ミュージックにそのサウンドを定着させた。両足でベースラインを弾きながら左手でユニークなコード和音をおさえ、同時に16分音符のランを目にもとまらぬ速さで延々と繰り返しプレイするスタイルは多くの後進オルガニスト達が手本にした。〈BLUE NOTE〉時代にトリオで吹き込んだ『Crazy! Baby』、〈VERVE〉レーベル時代にオーケストラを従え吹き込んだ『The Cat』、ビースティ・ボーイズがサンプリングした『Root Down』など数々の名演を残した。2月8日にアリゾナ州の自宅で亡くなった。享年79歳。
<パーソネル>ジミー・スミス(og)、アーサー・アダムス(g)、ウィルトン・フェルダー(b)、ポール・ハンフリー(ds)、バック・クラーク(conga,perc)、スティーヴ・ウィリアムス(hca)
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