『マンドリンが日本に入ってきた時期について明確に知る材料はない。ヴィナッチャが今日のマンドリンの姿に改良したのが1850年頃で、ヨーロッパで普及し始めたのが1880年頃(明治13年頃)である。少なくともこれより前に日本に伝来するはずは無い。
最初の記録では明治27年サミュエル・アデルスタイン(米国人マンドリニスト)が横浜にて演奏会を開催したとある。以上は個人的活動であり日本において最初にマンドリン教授を始めた人といえば比留間賢八を推すに躊躇しない。』(参考 マンドリン・ギターと其のオーケストラ 武井守繁 P437)
マンドリンの最初の記録は、音楽雑誌に明治27年(1894年)仙台にて四竈訥治がイギリス人からマンドリンを贈られたとされている。そのイギリス人が誰なのか、またそのマンドリンはどこから持ってきたのかなど全く不明であり知りたいところである。そしてその7年後、明治34年(1901年)に比留間賢八が留学先のイタリアからマンドリンを持って帰国し、指導者となる。比留間の門人には萩原朔太郎や藤田嗣治や里見クらがいる。また娘の比留間きぬ子もマンドリン奏者で、数多くの門弟を育てた。明治後期になると多くの西洋文化が入ってきている。その中にかなりのマンドリンが含まれていても不思議ではないと思われる。このことは今後の資料の収集、調査が必要であろう。
四竈訥治(音楽雑誌より) 四竈訥治について
四竈訥治についてはほとんど資料が無く、インターネットで検索してもあまりヒットしない。
ここでこの四竈訥治とはどんな人物だったか??。そこで唯一といってもいいくらいの四竈訥治に関する資料として本人の出版した「音楽雑誌(復刻版)当時共益商社出版」より四竈訥治の姿をまとめてみる。(参考文献 出版科学総合研究所発行 復刻版「音楽雑誌」 増井敬二による解題より)
音楽雑誌 第一号表紙 発行者 四竈訥治の発行主旨 四竈訥治は1859年(安政6年)〜1928年(昭和3年)7月9日死去、享年69歳。訥治は仙台の上級藩士の家庭の長男として生まれる。兄弟は盲唖学校の校長や海軍中将となっている。自分の好きな道に進んだのは訥治だけであった。裁判所や警察で仕事をしながら歌舞曲に興味を持ち、さまざまな邦楽器や明清楽器を学んだ。この時に芸者だった「小辰」と知り合う。1880年小辰(たつ)と結婚。家族からは大変な顰蹙をかった。訥治は小辰から多くの音楽を学んだようである。このことは訥治が発行した「音楽雑誌」に記録がある。1884年弟が音楽取調掛の県派出伝生になったことに刺激され同じく伝習生として東京へ出る。翌年卒業し、当時不足していた音楽教員の短期速成コースで上野で集中的に唱歌や楽器を教えた。そして東京府師範学校教諭心得という官職についた。その間有楽町の自宅で唱歌の講習会(東京唱歌会)を開いている。師範学校には2年半勤めて退職した。その後定職にはついていない。この年の秋、陸軍音楽隊、師範学校生徒による音楽会を開催。 また1881年月琴楽譜集出版、1888年「楽器使用法」、「御国の光」、「懐中ヲルガン弾法」出版、1889-90年「撰曲唱歌集一、二集」、1890年「手風琴独習之友第一集」発行している。このように二十代後半の訥治が音楽活動に積極的であったことが伺われる。
「音楽雑誌」 1890年(明治23年)9月25日第1号発刊で1898年第2号まで計77冊が発行されている。(各号600〜800部)月間誌(時々抜けている)。音楽界批評、時評、各音楽活動記録など、訥治の独自に情報を収集した。また記事の多くは訥治本人によるものである。しかしながらまだ読者層が浸透しておらず経営は楽ではなかった。1993年に社員の使いこみが発覚、1895年印刷所が火災、1896年5月号(58号)で父の大病のため仙台へ帰省。それ以降は共益商社の白井練一が編集にあたった。「おむ賀く」と改題し一年半で廃刊となった。仙台に帰った訥治は東北音楽会長となり、教育界の弟と共同で「鉄道唱歌」を出版。1897年父親死去。次男、長女も続けて死去し、音楽界とは完全に縁をきった。そして故郷を離れて書や漢詩の専門家として各地を転々としている。晩年は帝都で貧しく暮らし69歳で人生を終わった。
「音楽雑誌」は音楽に関することすべてを網羅した雑多な内容である。文明開化の明治時代だからこれはこれで価値のある書物と思われる。しかし、1901年(明治34年)創刊された「音楽之友」は本格的なプロの洋楽を中心に編纂されている。時代的にも多くい著名な演奏家の来日、演奏技術の向上などにより高度な音楽に接することが出来るようになった、こうなると訥治の唱歌をこなす程度では太刀打ちできなくなったのも現実である。「音楽雑誌」廃刊後の、彼が音楽界に戻ってこなかったのはこのような理由もあったのであろう。
【四竈訥治とマンドリン】
「音楽雑誌」第46号(明治27年7月号)で「其形は琵琶とバイオリンにて音色洋琴に近く弾法軽便にして作曲用等には至極便利の楽器」と紹介し、「八弦琵琶」と
第46号 音楽雑誌 (明治27年)表紙 マンドリン記事 音楽雑誌 第47号(明治27年) 表紙 マンドリン記事 も呼んでいる。訥治は日清戦争開戦直後の同年9月、弥生館で開催された義勇奉公報国音楽会で早くもマンドリンを公開している。わずか二ヶ月の練習だった。四竈父娘それに弟子らしい女性3人がメンダリン(マンドリン)、ヴァイオリン、ハープの編成で「八千代獅子」の演奏をしている。四竈はこの「耳新しく珍しい」トリオを「仙花楽」となずけた。
「音楽雑誌」第57号(明治29年4月号)によると四竈は母の誕生日祝賀会で琴とマンドリンの合奏を披露している。このように四竈はマンドリンの導入に力を貸したが、体系的は発展を促すまでには至らなかった。彼にとっては普及させた洋楽器の一つにすぎずマンドリン独自のレパートリーや奏法を紹介しようという気持ちは無かったようである。
【四竈清子】について
「12.四竈清子(1900-1965)と四竈訥治(1859-1928)のこと」と題し当時の思い出が書かれています。
市毛利喜夫氏はクボタフィオマンドリーネンオルケスターの会報誌「グロリア」に「マンドリンとの人生」というコラムを連載されています。それを冊子にまとめて出版されたのが「マンドリンとの人生」(2006年4月 出版はクボタフィロマンドリーネンオルケスター後援会)です。このコラムの12番目に
四竈清子は四竈訥治の6女であること。
市毛氏は1956年春「杉並マンドリン・アンサンブル」に四竈清子が入会したこと。「四竈マンドリン研究所」を開設し10人ほどの生徒がいたこと。
大変優しく、愉快な人であった半面、マンドリンにはヒステリックなほど厳しかったこと。
四竈清子が愛用したマンドリンはラファエレ・カラーチェが彼女のために作った楽器であること。また追記として四竈訥治の略歴とマンドリン活動について記しています。