中村若連の変遷
小野雄三さん

 私は幼かった頃、魚春(高島幸三)さん、正穀屋(宍戸利雄)さんらの年代の人が中心となり寄付を頂き、山車と太鼓と法被を作ったと20歳の頃に生前の高島さんから聞かされたことがあります。それが今現在使われている山車と青い法被です。また、私は17〜18歳の頃は、中山誠さん、水野慎一さん、高城利雄さんらが中心となって祭ごとを取り仕切っていたように記憶していましたが、諸事情があって解散しました(高島さんから水野さんまで続いていたのかな?) 3〜4年くらい過ぎた頃、大槻惣一さん、私、佐藤芳、小林栄重君他と若連を作り、コーヒーカップを買って頂き活動資金にして、松浦勘七様より太鼓を教えて頂き、勘七様の弟様より笛を習いました。それが中村太鼓保存会の始まりでした。

 その頃は総代会がつつこ引きを仕切っておりましたが、また、これも諸事情があったのか2〜3年つつこ引きをやらなかったのです。また、その頃は厄払い祈願祭は神明宮神社だけでしたが、中村の氏神様、厳島神社があるのだから厄払い祈願をしてもらおうと、42の人たち(昭和45年)が中心となり、厄を払う意味でつつこ引き祭も仕切るようになったのです。が、毎年初老会のメンバーが変わるのと人数に上下があり、毎年毎年が白紙の状態で大変だった様です。また、秋祭りの山車にしても本遷宮(昭和54年、関根實初老会長様)に出したきりだったので、若者(野田明君、阿部一雄君、渡辺安彦君)ら数人が山車を出したいがどうしたら良いか相談に来られ、私が総代、町内会長を一件一件廻り承諾を得て大槻惣一初老会長(昭和57年)にお願いしたら、私が副会長になる条件で山車を出していただきました。その年の秋祭りでは予定より1時間以上もお宮入りをしなかったので、警察署の課長から厳重注意されたことも1つの思い出です。

                            

 その年の山車やその後の若連結成の時にも、石川喜義様には大変親身になって相談に乗っていただきありがとうございました。私が40歳の頃から若連を作るために、歴代会長の関根勝夫くん、須賀俊春くん、鈴木正英くん、水口秀雄くん、阿部一雄くん、野田明くん、高橋貞雄くんらと何回か会合を重ね、下準備してきました。そして昭和58年の人形祭り相談会(総代、町内会長、町内有志)の席上、つつこ引き祭りは初老会が行い若連が補佐することで承認を取り付け、再度若連が誕生したわけです。また、山車も若連で自由に出して良いこととなり、総代会より年間の活動資金(年3万円)も頂けるようになりました。

 つつこ引き祭りは、東京の農林水産祭り、NHKのふるさとの歌祭りにも出演し、県下十大祭にも選ばれた奇祭ですので、これからも絶やす事なく、氏神様である厳島神社を信仰していきたいと思っております。

 なお、私もつつこ引き祭りは石川さんと同じで、若連結成以前より息子がつつこ引き祭りを手伝うようになるまで竹係を20年以上させていただきました。