My favorite 音楽家

   ヘイノ・カスキ(フィンランド 1885年〜1957年) 

私が初めてカスキを聴いたのは、20年以上前にピアニスト舘野泉さんの
ピアノセミナーに参加した時でした。
ショパンともドビュッシーとも違う、何とも深く落ち着いた音色、キラキラした
透明感のある響きに、すぐに魅了されてしまいました。

カスキは、1才になる前に母を亡くしている。
母は明るい反面、繊細すぎるほどの性格の持ち主で、その性格をすっかり
受け継いだカスキも傷つきやすくデリケートな感受性を持ち、生涯独身を
通し、友人との交流もごく少数に限られていたようでした。
カスキが50才の頃の写真は、骨太で悠に90`はありそうな体と書かれている。
体の大きさに反して、春の光にきらめく小川のせせらぎ、木漏れ日の下で
可憐な野の花が風に揺らめく・・・あの可愛らしい曲「春の小川にて」を書いた
感受性豊かなカスキにますます魅かれていきました♪





1885年 東フィンランド ビエリスヤルヴィで生まれる(現・リエクサ)
この周辺はフィンランドでも特に自然の美しい所で、
カスキの音楽に大きな影響を与えたことは言うまでもないでしょう。

ヘルシンキ教会オルガニスト、ヘルシンキフィルハーモニック協会
オーケストラ学校に在学中、E・メラルティンに作曲を学び急速に
才能を開花させる。

1910年、カスキ25才の時に開かれた作品コンサートでは、
大御所クレメッティもカスキのメロディーの美しさを絶賛する。

1911年から4年間ベルリンに留学。
しかし、第1次世界大戦の勃発により、フィンランドに帰国。
帰国後はピアノをS・パルムグレンに師事する。
カスキの印象派的な響きは、パルムグレンの影響が濃い。

1919年代表作「交響曲ロ短調」の成功により、
再び4年間ベルリン・イタリア・フランスに留学。

その後はヘルシンキ音楽院のピアノ教師、亡くなる7年前まで
小学校で歌を教えた。
しかし、繊細で傷つきやすいカスキにとって教師はかなりの重荷で、
次第に大曲やオーケストラ曲は書けなくなりピアノ曲や歌曲中心になる。

晩年のカスキは、

「自分の生涯も終わりに近づいた今、いやでも自分の舞台は終わりに、
心は好んで憂愁の歌を言葉なき秋の調べをかなでてしまうのに
気付かざるを得ない」 と書いている。

いつしか、世の中から忘れ去られ、妻子もなく親しい友人も少なく、
年々作曲意欲も衰え、孤独な日々を過ごしていたであろう寂しさが
にじみ出ている。

1957年 9月20日、72才の生涯を閉じる。

その日は、フィンランドの偉大な作曲家J・シベリウスの
亡くなった日でもある。

カスキは1911年の留学前、シベリウスに何度か会う機会に恵まれ
作品において批評と助言を得ている。
シベリウスは貧しかったカスキに、プライドを傷つけぬよう
心を配りながら、何度がお小遣いをくれたこともある。
シベリウスはこの純朴な青年に好感を持ち、シベリウスの推薦状のお蔭で
1911年からの留学が実現した。

1957年 9月20日 J・シベリウス没 92才  国葬
1957年 9月20日 H・カスキ没   72才
            カスキの死には誰も気付かなかった。



全音楽譜出版社「カスキピアノ小品集」(編集 舘野泉)を参考。




トイヴォ・クーラ(フィンランド 1883年〜1918年)


1883年 フィンランド西岸ヴァーサに生まれる。
ヘルシンキ音楽学校でヴァイオリンと音楽理論を学び
シベリウス初めての生徒となる。
イタリアのボローニャ、ライプツィヒに留学。
その後パリへ渡り、フランス印象派の影響を受け
その手法に努力するが成功しなかった。

1918年 フィンランド独立直後の内戦で、一将校と口論の末
拳銃で頭部を撃たれ、35才の生涯を閉じる。

クーラの作品は、合唱曲・オラトリオ・独唱などの歌曲が中心で
ピアノ曲は、わずか数曲が残されているだけである。
現在CDなどで聴けるのも、羊のポルカ・小さなガボット,
二つの小品のうちの結婚行進曲だけのようです。

特に、「結婚行進曲」は同じ北欧(ノルウェー)のグリーグ作曲の

トロルドハウゲンの婚礼」と比べると、華やかさには欠けるが
これから結婚する2人の未来を、静かに暖かく祝福している
様子が、素朴で優しいメロディーに表れていて、聴いても
弾いても気持ちが穏やかになる作品です。

クーラはこの曲を、エンミとユルヨ・プトゥキネンという2人に
献呈されていることから、友人の結婚祝いに書いたもので
あると書かれている。

クーラの合唱曲にも、とても癒される曲がある。
「わが子をトォネラに」
「祈り」
「陽が昇るとき」
北欧特有の澄んだ響きに、賛美歌のような崇高なハーモニーに
心が洗われるような作品です。

35才の若さで亡くなったクーラ。もし悲劇的な死を遂げること無く
天寿を全うしていれば、シベリウスのような偉大な作品や、美しい
ピアノ曲も数多く残せたのではと思うと、残念でならない。
     






セリム・パルムグレン(フィンランド1878年〜1951年)

ピアニストとして国際的に活躍したパルムグレンは、ピアノ曲を中心に
数多くの美しい曲を残していることから「北欧のショパン」と呼ばれている。
民族後期ロマン派に属するが、北欧の作曲家の中ではとりわけ
印象派の色彩を色濃く表現している

シベリウスが交響曲などのオーケストラ作品に力を注ぎ、フィンランドの
民族性が強く意識される音楽から始まり、次第に純粋音楽に向っていたのに対し
シベリウスより13年後輩のパルムグレンは、シベリウスが全く手を染めなかった
ピアノ協奏曲を5曲書いている。
他に優れた独唱曲や男声合唱曲、オペラ「ダニエル・ヒョートル」
いくつかのオーケストラの為の組曲などを残した。


パルムグレンは、フィンランド西海岸のスェーデンに近いポリ市に末子として
生まれ、暖かい家庭、文化的に豊かな中で育つ。
三人の兄姉達はそれぞれピアニスト・歌手・指揮者として活躍し
兄姉達に刺激され音楽的才能を育んでいった。
1895年  ヘルシンキ音楽院にて作曲を学ぶ。
       その後、留学。
       イタリア・スウェーデン・デンマークに演奏旅行。
1923年〜1926年 ニューヨークイーストマン・ロチェスター音楽院
             作曲科の教授、ピアノも教える
1928年 スェーデン王立アカデミー会員
1936年 シベリウスアカデミー 作曲科教授
1948年 北欧作曲家協会会長
1950年 ヘルシンキ大学「名誉教授」
1951年 12月13日 73歳没

 
全音楽譜出版社「パルムグレン24の前奏曲集」を参考