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相馬野馬追振興
太田神社の一番螺 & 飯舘歴史探訪

太田神社の一番螺の話はコチラ

飯舘歴史探訪

南相馬市の西に広がる飯舘村
山中郷と呼ばれた、自然と歴史に囲まれた村

しかし原発事故で大きな被害を受け
ほとんどの住人が避難を余儀なくされました

2012年・正月
飯舘村の二つの神社にお参りしました
東日本大震災で大きな被害を受けた飯舘村。
福島第一原発の北西にある村は放射線の被害を大きく受けてしまい村全体が計画的避難区域となりました。

飯舘村は自分も気に入ってた場所で、南相馬訪問の際に何度か立ち寄っていました。
歴史的な神社などもあり、いずれ探訪したいと考えていたのですが震災の影響でそれも困難な状況に……。
しかし正月に南相馬でテレビを見ていたところ、飯舘村の人達が山津見神社に参拝している映像が流れました。
山津見神社は行きたかった神社の一つ。この機会に立ち寄ることにしました。

それともう一つ。前回のレポートで飯舘村の初発神社のことを少し書きましたが
今回は偶然にも住職の方からいろいろ話を聞くことができたので、そのことも改めて記したいと思います。(^^ヾ
2011年12月31日。

大晦日の夜、南相馬市に向っていました。
川俣村と飯舘村の境、左手側にある神社、
初発神社の社に灯りが点いていました。

初詣客を迎え入れるためかな?とか考えながら
車を停めて社の前をウロウロしていたら、
隣の建物から住職の方が出てきてくれました。
夜分にスミマセン。(^^;

その方にお話を伺ったところ
歴史や野馬追の話など色々聞くことができたのです!

……が、その話は後ほどに。先に山津見神社のお話をします。
正月、南相馬市の若狭宅でテレビを見ていたら飯舘村長が山津見神社に参拝したニュースが流れました。
山津見神社は以前から興味のあった神社です。と言うわけで自分も行ってみることにしました。(^^ヾ
        虎捕山鎮座 山津見神社

飯舘村の北西にある山津見神社。
いつも使っている県道12号線から北に4kmぐらいです。


山津見神社には次の様な伝説があります。

約九百年前、この辺りに墨虎という悪者がおりました。
墨虎は大男で力強く、部下をひき連れては村落を襲い
略奪を繰り返しました。墨虎は霊山(近くの山の名)に
物見台を設けて周りを監視し勢力を大きくしていきます。
まさに猛虎の如き勢いです。
ある時、源頼義が朝廷のお役目で近くを通りかかりました。
村人達は頼義公に墨虎退治を願い出たところ
頼義公は願いを受け入れ部下に墨虎討伐を命じます。

墨虎はよく戦いましたが遂に敗れ一旦は逃げ出しました。
しかし再び現れては隠れたりと、捕らえる事が出来ません。
頼義公も大いに悩んでいました。
ある夜、夢の中に山の神が現れ頼義公に告げます。
「墨虎を獲んと欲せば白狼の足跡をふみ追うべし」

頼義公は直ちに藤原景道に追跡を命じます。
景道は里の人に道案内させて山中に入っていくと、
獣の足跡が点々と続く岩山を見つけました。
そして遂に岩窟に潜んでいた墨虎を発見、退治したのです。
という伝説がある山津見神社。
そのため山津見神社には狛犬ではなく
白狼の像が社の前にあるのです。


伝説と言うかむしろ史実?という感じで
実際に墨虎が隠れていたという岩窟が残っていたり
墨虎に関わる痕跡が各地にあるそうです。
虎捕山と言う地名も墨虎を捕えたことに由来しています。

なお本殿は背後の虎捕山の上の方にあります。
山の神の威徳を感じた源頼義公が山頂に祠を建て
「虎捕山神」と御名を称えてお礼したそうです。
山津見神社の御祭神は大山津見神。山の神です。
白狼は山の神の使い(御眷属様)です。

では何故、九曜紋?(妙見様の象徴)と思いましたが
この地が相馬藩領であったことの流れだそうです。
なるほど。(^^ヾ

神社には野馬追に関係していそうなものもありましたが
はっきりとしたことは分かりませんでした。
山神信仰や白狼伝説など興味深い文化が感じられる
不思議な神社でしたね。
機会があれば山の上の本殿にも参拝したいです。(^^ヾ
山津見神社を参拝した後、境の初発神社へ。
改めて参拝&昼間の写真を撮りに行きました。
飯舘村の初発神社。
やはり明るいときに来る方が良いですね。(^^ヾ


大晦日の夜に住職さんからいろいろな話が聞けました。

さかのぼること戦国時代。
相馬氏と隣の伊達氏は争いを繰り返していました。
ある戦いで、相馬の殿様が伊達勢を迎え撃とうと
待ちかまえていたところ、ここまで攻めてきませんでした。
これを妙見様の御加護と感じた相馬の殿様は、
ここに妙見様のための神社を設けたのです。
川俣町から飯舘村へは現在では道路も整備され
車でなら容易に入ってこれますが、昔は道も険しく
ここまで攻め入るのは困難だったのでしょう。
……なんて現実論はともかく。(^^;
相馬氏の妙見様への信仰の深さが伺える話ですね。


飯舘村にはかつて大きな「牧」がありました。
牧とは馬などを放牧している土地のことで
野馬追の歴史を辿ると度々出てくるキーワードです。

昔は相馬から騎馬武者がやってきて野馬懸を行い
勝利した方が初発神社前に馬で駆け上がり
勝利を報告したと言われています。
神社脇にあった「水神」と書かれた石碑と井戸。
すぐ隣には小さな田んぼもありました。

井戸の横に柄杓があったので水をすくおうとしましたが
水位が低いため届きませんでした。
夏場なら水位が上がるのかな?(^^;

そういえば飯舘村には冬場の井戸の水位によって
その年の米の豊作不作が分かると言われる
「作見の井戸」というのもあるそうです。
今度はそこにも行ってみたいですね。
飯舘村もかつては山中郷と呼ばれ
村から野馬追に出陣する騎馬武者もいました。
飯舘村も相馬野馬追の郷の一つなのです。

この村が相馬藩領であったこと。
初発神社が村の境にある理由。
牧の存在。野馬懸が行われていたという話。

自分が気になっていたこと・知りたかったこと。
その答えが垣間見れた気がします。


しかし飯舘村は放射線の数値が高く
浪江や大熊のように先行きが見えない状況です。
いつの日かこの村に以前のような温かさが戻り
人々が安心して暮らせる日がくることを祈ります。
飯舘歴史探訪と題打ってみたものの、二つの神社だけでは少々物足りないかな?(^^;
自分としては飯舘の中に野馬追や歴史に関することが見れたのは嬉しいことなのですが……。

と言うわけで、飯舘村とは関係ない話になりますが、おまけに「はなどり地蔵」のお話を。(^^ヾ
            田植えを手伝うお地蔵様

大熊の初発神社の隣にあった「はなどり地蔵」
鹿島の初発神社にも「鼻取地蔵」があるそうですが
調べたところ全国各地に同じような話があるそうです。

福島、東京、神奈川、静岡、長野、山梨、鹿児島……
福島県だけでも、大熊、鹿島、いわき、二本松……

日本の多くの地域に鼻取地蔵が存在しています。
呼び方は色々で「鼻取地蔵」や「田植地蔵」。
「代かき地蔵」というのもありました。
話は大体同じで、田植え前に行う整地(代かき)をしようと
馬に馬鍬をつけて作業しようとするが鼻取する人がいない。
そこに童子(老人)が現れて手伝ってくれるが、
作業が終るといなくなってしまう。
いなくなった方向にお地蔵様があり、その体は泥だらけ。
お地蔵様が手伝ってくれたのか。ありがたや、ありがたや。


ちなみに。
この話は「まんが日本昔ばなし」でも取り上げられていて
DVDでも第4巻に収録されています。
(YouTubeにも見つけましたがイイのかな?^^;)
(右の写真は大熊の鼻取地蔵堂です)


つまり全国各地でお地蔵様が大活躍だったんですね!
……ということが言いたいわけじゃなく。(^^;

このことから自分が考えたのは
日本が広く稲作を行っていたという今更ながらの事実。
そしてその作業には馬が使われていて「鼻取」という言葉が
あたりまえのように親しまれていたということ。

つまり馬が生活にとても密着していたということです。
野馬追は人と馬の関係を改めて気付かせてくれた気がします。
飯舘歴史探訪(+鼻取地蔵)、いかがでしたか?

飯舘村も野馬追の一地域であり、歴史ある村なのです。
原発事故の影響で今は人が住めなくなってしまいましたが、いつの日か必ず取り戻したい場所です。

常磐道と国道6号線が不通な今、原町に行くには飯舘村を必ず通ります。
飯舘村の歴史散策は今後も少しずつ行いたいと思います。
▼戯れ言 (いつもの妄言です。気にしないでください^^;)

日本人と馬事文化

自分は以前「競馬は文化か?」という疑問を持っていました。
相馬野馬追を知り、南相馬に何度も訪れることで、その疑問は解消しました。
日本の競馬は文化だと自信を持って言えます。
確かに日本は欧州に比べると競馬や馬事文化のレベルが低く感じられます。
しかしそれは日本人と馬の関係が他国と違うからなのです。

日本の競馬は欧州の真似的なところも多く競馬ファンは比べて見てしまうところがあります。
外国では大きなレースがある日は町をあげての祭だったり、乗馬人口の多さなどから
馬に対する認知度が高いと感じてしまいます。
日本でも有馬記念は普通のニュースでも取り上げるくらいの認知度はありますが
競馬=ギャンブルという認識や、乗馬人口の少なさなどから馬への新密度は小さいです。

しかしそれは日本の馬文化の違いにも起因していると思うのです。
一昔前の日本人にとって馬はもっと身近な存在でした。
稲作中心だった日本は農作業のためにどの家でも馬を飼っていました。
「曲り家」や上で取り上げた「鼻取地蔵」の多さなどがその証です。

また日本には全国に競馬場跡があります。
現在の競馬法に基づく競馬場となると限定されてしまいますが
地方競馬場や今なお続く草競馬など全国的に競馬に関する地域があるのです。
それは馬が身近な存在だったからこそ出来たことなのです。
実際、ある地方競馬場がそこに出来た理由の一つは
「どこの家でも馬を飼っていて身近な存在だったから町民の理解を得れた。」
という話を聞きました。

武士達の時代、馬は速く走る乗り物でした。
しかし武士以上に多い農民達に取って、馬は乗り物と言うより共に農作業をするパートナーだったのです。
他国の乗馬人口や馬文化と比べて日本が劣って見えるのは
人と馬の在り方が異なっていたことが起因していると思います。

車や耕運機の発達で馬は地域からどんどん消えてしまいました。
今では競馬場で走る馬ぐらいしか馬を見る機会はありません。

現代の日常に感じられない馬の存在。
しかし地域のことを調べると、そこには馬の蹄跡があったことを物語る何かがあると思います。
史跡だったり地名だったり……もしかしたら鼻取地蔵は身近なところにいるかもしれませんよ?(^^ヾ

相馬太田神社の一番螺 & 飯舘歴史探訪  終

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