Whispering rain

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writting by 海辺 里さん

 

警視庁の通用口から出ようとして、高木は思わずまじまじと外を見つめた。雨が降っている。

夕方、現場から帰ってきたときには、曇っていただけだったのだが。

暗くなってからは外の景色に注意を払わなかったから、雨になっていることになど気づかなかった。

「参ったな…」

そう呟いて、さてどうしようかと考えを巡らす。



「あら高木君、今帰り?」

「ええ」

背後から、佐藤が声をかけてきた。出口まで来ると、高木と同じように外を見て目を丸くする。

「降ってきちゃったわね。昼間は晴れてたのに」

「そうですね」

「本庁の中にこもりっぱなしだと、天気の変わるのに気づかないものね」

佐藤は、バッグから折りたたみ傘を取り出して広げた。

そのまま、すっ、と高木の横に並んで頭上に差しかける。



「えっ?」

高木は、この寒空に顔が赤くなるのが自分でもわかった。

「傘、持ってこなかったんでしょ? 手ぶらだもの」

そう言って佐藤は、屈託なく笑った。

「あ、ありがとうございます」

昼間なら、他の刑事たちの視線を感じて多少びくつくところだが、とっぷりと更けた今なら、

さほど見通しはきかない。

「あの、佐藤さん、僕が持ちますから」

「いーのいーの、大丈夫よ」

高木が傘の柄を掴むと、佐藤は笑って首を振った。

「いえ、でも…。僕の方が背が高い分、持つのが楽ですから」

「気にしなくていいのに。でも、そんなに言うなら、持ってもらおうかな」

傘が高木の手に渡り、二人が雨の中へ歩き出すと、ふと会話がとぎれた。



見渡す限り、あちこちのビルの窓にはまだ明かりがついている。

だが、人通りはさすがに昼間と比べて少ない。

降り続く雨が、傘にはねる。佐藤の肩が、時々、傘を持った高木の手に触れる。

考えてみれば、佐藤と二人きりになるのは、この前の連続爆破未遂事件以来だった。

このまま、駅に着かなければいいな…。高木はそんなことを考えていた。



ふと、佐藤が口を開いた。

「高木君…ありがとう…」

「え?」

「…松田君のこと、忘れちゃダメだって言ってくれて。

今まで、忘れよう、忘れなきゃって思えば思うほど、苦しくて、彼のことを口にすることも、

考えることもできなかった。なかったことにしようなんて、無理なことを考えていたからよね…。

このままでいいんだって思ったとたん、不思議なくらい苦しくなくなったのよ。高木君のおかげよ」

彼女はうっすらと微笑みを浮かべて高木を見た。

それは、いつもの元気な笑顔とも、仕事中の自信満々の表情とも違う。

彼女がこんな顔をすることは、この前の事件で初めて知った。

高木は何と答えてよいかわからず、黙って微笑み返した。



傘の向こうには、雨に煙る官庁街が続いている。

そういえば、今年のお盆に帰省して墓参りに行ったときも、こんな風に雨が降っていた。

きちんと区画整理された墓地には、雨にもかかわらず多くの墓参者が訪れていた。

だが、あと百年後にはどうなるのだろう。

風雪で字も読めなくなり、誰のものかわからなくなってしまう墓があるかもしれない。

墓地に眠る人々にも、それぞれの人生があったはずだ。

けれどそれは、関わりがあったはずの人の大部分からは、過去のものとして記憶から追いやられ、

思い出されることもなくなっている。

そして、誰も覚えている者がいなくなった時、人は二度目の死を迎える…。



だから、そう言った。何の見返りも求めずに。

たとえ、彼女がこの先一生、松田の思い出だけと生きていくことを選んだとしても。



「そうよね。忘れてしまったら、かわいそうよね…」

苦しくなくなった、とは言ったものの、そうつぶやいた彼女の瞳の奥には、

底知れぬ深い翳りが残っている。

それを白鳥に教えられたとき、高木は、自分は佐藤のことを何も知らなかったのだと、

つくづく思い知らされた。



ふと由美の言葉を思い出す。

「松田君が、美和子のことをどう思っていたか、ですって? そんなこと、今更知りたいの?」

確かに、自分でもどうしてそんなことを聞いたのだろうと思う。

だが、由美は、普段のいたずらっぽい表情から面を改めると、言った。

「前、あなたと松田君は似てるって、言ったわよね? それだけ言ったら、わかるでしょ?」



…やっぱり、そうだったのだ。それなのに、彼は佐藤美和子を置いて行ってしまった。

写真で見た松田陣平は、俳優のような端正な顔に、何かに挑むような不敵な表情を浮かべていた。

頼りないとよく言われる自分とは、一体どこが似ているというのだろう。

今でもさっぱりわからないのだが、高木も、結局、三年前の松田と同じ選択をした。

違うのは、高木はコナンのおかげで生還できたということだけだった。

三年前にもコナンがいれば、松田は死なずにすんだだろう。

佐藤がこれほど悲しむこともなかっただろう。

…そして、高木の想いは、決して報われることはなかっただろう。

だが、過ぎ去った時は、もう二度と呼び戻すことはできない。

人は、現在を生きていく他はないのだ…。



「ねえ、高木君…」

佐藤の言葉に、はっと我に返る。

「もう一つあるの。あのとき…」

彼女は珍しく口ごもりながらうつむき、ややあって思い切ったように続けた。

「あのとき、爆弾犯を撃つのを止めてくれて、ありがとう。

あそこであなたが止めてくれなかったら、私、あなたにも、松田君にも、嫌われちゃったわね…」

「それはありません」

その言葉は思いがけず、何のためらいもなく口から出た。



たとえ佐藤が松田の仇を撃ち殺し、彼女に手錠をかけなくてはならなくなったとしても、

この気持ちが変わるとは思えなかった。

たとえこの先に何があろうと、笑いかけてくれるたびに幸せな気持ちになれたことを、

これからもずっと思い出すだろう。

笑顔だけではなく、男勝りの精悍な表情も、少女のように幼い泣き顔も、

心の傷のひとつひとつさえも、何一つ、嫌いなものなどない。

松田が佐藤の心の中から消えることがないように、

佐藤も高木の心の中から消えることはないだろう。決して。

「佐藤さんを嫌いになるなんて、僕には、考えられません」

高木はもう一度、繰り返した。



佐藤はぴたりと足を止めた。振り向くと、彼女は押し黙ったまま、高木をじっと見つめている。

雨の音と、時折車道を行き過ぎる車の音の単調な繰り返し以外には、何の物音も聞こえない。

傘の中で、二人は正面から向かい合っていた。

その時になって初めて、高木は自分の言ったことの意味に気づき、顔がカッと熱くなった。



「あ、あの…」

「…あのね、ずっと言おうと思っていたんだけれど…」

高木のうろたえた声は、これも少し震えた佐藤の声に遮られた。

「この前、母にね…、『お父さんを亡くしてつらくなかったの、

結婚しなければよかったって思わなかったの』って、聞いたのよ。

そうしたら、母はこう言ったの。

『吹雪の中を歩くとき、火にあたって体を温めていた人と、そうでない人とでは、

どちらが長く持ちこたえられると思う?』って。高木君はどう思う?」

唐突に何を言い出すのかと高木はいぶかったが、少し考えて答えた。

「それは…、体を温めていた方でしょう。何もしていなかったら、すぐ凍えてしまいますから」

「私もそう答えたわ。すると母が言ったの。

『それと同じよ。あの人と過ごした時間は、短くてもとても幸せだった。

その幸せな思い出が心を温めてくれたから、どんなにつらいときも、

美和子と二人でやってこられたのよ。後悔なんてしてないわ』って。だから、私、決めたの」



傘の影の下から、佐藤の瞳が、射抜くように高木を見上げる。

大きくなる鼓動の音に、雨音がかき消される。



永遠にも思える一瞬の後、ゆっくりと、固いつぼみがほぐれるように、彼女の表情が優しく和んだ。

「あんなつらい想いをしたくないのは、今でも同じよ…。

でも、この前、デート止めようって言ったのは取り消すわ」

「佐藤さん…」

「たくさん、思い出作ろう?」

「はい…」

それ以上、言葉が出なかった。

胸が熱くなり、風の寒さも、雨の冷たさも、空の暗さも、感じられないほどだった。

本当に自分を打ちのめしたのは、己の腑甲斐無さでも、白鳥たちの妨害でもなく、

彼女の拒絶だけだったのだと、今更ながら思う。

傷ついたままでも、一緒にいることを選んでくれたのなら、これ以上何を望むだろう。



「高木君、寒くない?」

佐藤の声に、現実に引き戻される。雨足が強くなってきていた。

「こう寒いと風邪引くわよ。帰ろうよ」

「そ、そうですね」

高木は内心残念でたまらなかったが、言われるまま、佐藤と並んで歩き出した。

そして、駅につかなければいい、と、もう一度心から願った。







「あの…また、トロピカルマリンランドで、いいですか?」

「ええ、いいわよ…」






…おしまい…

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海辺さんのサイトでは、隠し部屋に置かれてる作品なんですけど、
石礫が前に差し上げた、キリ番絵を挿絵(素敵な作品の足ひっぱてる気もするけど^_^;)として使用して頂いてまして、
そんな訳で、貰える事になり、かなり素敵なんで、勿論、頂いてしまいました(某所でちゃっかり(笑)了解得ちゃいました)
高木くんの見守る優しさと強い愛…そして、それに癒されていく佐藤…
そして、未放送の恋物語と繋がっているんですよね。うん、こんなエピソードあったかもしれませんよねv