ピュア・ハート 第4回
菊池くんの家に入った私は、いつもになくドキドキしていた。
自分で望んでいたことなのにこう簡単に達成されてしまうと、心のほうが追いつかない。
普通の丸蛍光灯、畳敷きでその上に座布団。
私にとって今まで知らない世界だったにもかかわらず、なんだか溶け込んでいるような気がしないでもない。
その逆に、こういう家っていいなって思うくらい。
でも、それ以前に菊池くんの家にいること自体がうれしい。
そして今回家に入れた理由の真季さん。
真季さんは菊池くんが言っていたとおり、少し妬いてしまうくらい女の私から見ても美人だった。
もし菊池くんが彼女と付き合っているなんてことだったら、間違いなく諦めるくらい。
気さくで、優しくて、それでいて品がいい。そんなさっぱりした性格の真季さんは、どこに行っても人気者らしい。到底私では勝てるはずがなかった。
そんな真季さんを、憧れの目で見ていた私。その後、真季さんはしばらくしてこう言った。
「さて、と。私は出かけようかな!」
いきなり、そんなことを言って立ち上がり始めたのである。
「おい、ちょっと!真季姉さん、どこ行くつもりだよ!」
急に言われて菊池くんも少し動揺気味。
「う、うーんとね・・・・そうそう、ちょっとそのあたりを散歩」
思いついたように言ったのは私の気のせいかな。
私も動揺しながら真季さんを見ていると、彼女はだんだん私のほうに近づいてくる。
真季さんはソファーに座っている私の前で、中腰になりながら、言った。
「崎野理恵さんだっけ?」
「はっ、はいっ!」
瞬間的に固まる私。
すると、真季さんは私のそばに近寄って、耳元で、菊池くんに聞こえないようにそっとささやいてきた。
「今あいつ、彼女いないから。というより、つきあったことがないのよ。だからがんばって自分のものにしなさいよ!」
「えっ・・・・あっ!」
真季さんの今の言葉で、私がフリーズするには十分だった。
「ふふっ、行ってきまーす!」
動揺しまくりの私に、真季さんが一回ウインクして、そして家を出ていった。
もちろん、真季さんが出かけていってしまっただけで動揺が隠せるわけがない。
それどころか菊池くんと二人きりになってしまったという、今までにない初めてのシチュエーションが余計に私を混乱させる。
(いけない、顔が熱くなってきちゃう・・・・)
意識しないように努力しても、すぐに逆効果になってしまう。
「な、なぁ・・・・」
その沈黙を破るような菊池くんの一言が余計に恥ずかしかったりして・・・・一気に顔は今までで最高の赤さになったりと、もう大変。
やっぱり、変だって思われたかな・・・・
「な、なに?」
今の私には、菊池くんの呼び掛けに返すくらいで精一杯。これ以上はできない。
「えっと・・・・今日、来てくれてうれしいよ」
「あっ・・・・う、うん」
『がんばって自分のものにしなさいよ!』
その真季さんの言葉が頭を駆け巡る。
どうしようもないほどに胸はドキドキ、顔もなかなかクールダウンしない。
菊池くんの顔も『まともに見れない』状態から、『顔を見ることさえも照れて出来ない』状態になってしまって。
せっかく二人きりになれたのに。
真季さんも出かけてくれたのに。
今がチャンスなのに・・・・
頭はちゃんとそう考えてる。けれど、体が言うことを聞いてくれない。
少しでも動いたら、それだけでも自分が崩れてしまいそうで・・・・とても怖い。
恋愛ってゲームみたいなもの・・・・今、私はそう思っている。ちょっとした駆け引きがこの先を左右する・・・・今なんか、そのまっ只中だって、そう思う。
でも私の中で取れる今の選択肢は、ただ一つしかない。ひたすら、後の展開にまかせるしか・・・・
しかし菊池くんも、私がいつまでたってもまともに話さなかったのが原因なのか、黙ってしまった。
ここで恋人同士だったら、あるいはうまくいっている関係ならこういう沈黙も悪いとは考えないけれど、さすがに発展途上候補の二人としては、きついものがある。
「あ、あの・・・・」
ついには二人して同時に顔を上げて向き合い、同じ言葉を発する始末。
もうこうなるとさらに気まずい。
「な、なに?」
「いや、崎野さんから・・・・」
こうなるのがオチなわけだ。
どんよりとしたこの重い空気は、なんだか蛍光灯も暗く見えるくらいに感じる。
そうして二分が経過。時計の短針がぴったり5の部分を指していた。
むなしく鳩時計がピッポッと鳴り始める。
静かすぎて、時計の中の機械音までもが聞こえる。
ちょうど五回鳴って鳴りやんだところで、私はいたたまれなくなって、やっとの思いで言葉を発した。
「あっ、私、そろそろ帰らなきゃ!」
本当にそろそろ帰らなければいけない時間だった。
「そ、そっか。門限とかあるんだ?」
つっかえながら、菊池くんは聞いてくる。
「門限六時ってやっぱり早いよね?しかも今日は部活って言ってきたからそうなってるだけで、普段はすぐ帰らなきゃいけないの」
「部活?じゃあどうしてこんなところに来たんだよ」
私ははっとした。余計なことを言ってしまったと、私は思った。
「えっ、それは、えーと・・・・」
さすがに今の質問には困った。理由を言ってしまうと、かなりの確率で菊池くんへの想いがばれてしまう。
チャンスと考えることもできないことはないけれど、今は心の準備が・・・・
答えをためらっている私を見ていた菊池くん。そこで一言言ってきた。
「あ、ありがとう・・・・」
「えっ?」
今の言葉って・・・・なんかとても気になる一言。もしかして、これって・・・・
「っとと。ここでしゃべるのはこのへんにしとこうぜ。ほら、もう十分経ってる」
菊池くんがさっきの鳩時計を指差す。それを見ると、確かに長針が六十度傾いている。
「あれ?本当だ」
まだあれから二分も経っていないような気がするんだけど。でも時計が指しているんだからそうなのかも。
「送ってくよ。こんな時間にふらふらしてると、俺のような狼に襲われるかもしれないからさ。特に崎野さんの場合は余計に危なっかしいし」
実際危なっかしいのは認めるけど、でも、
「あれ?言ってること矛盾してる。狼なのに送っていくなんておっかしい」
「大丈夫だよ。今は襲う気はない」
「今は・・・・なの?」
またまた気になる一言だった。『今は』ってことは、将来、もしかして・・・・
「行こうぜ。大丈夫。マジで襲ったりなんかしないから」
「う、うん」
結局、さっきの言葉も気になったけれど、ほとんど期待はずれに終わった。
これこそ、ハイリスク・ローリターン。せっかく家まで勇気を出して行ったっていうのに、わかったことは菊池くんにお姉さんがいることくらい。
菊池くんの好みとか、どういう人なのか、ぜんぜん聞けなかった。
まあ、でもこれからは気軽に家に行けそうだからいいけど。
そして菊池くんといる時はあっという間に過ぎ、ついに私の家の前に着いてしまった。
「じゃあ、またな」
「う、うん・・・・」
明日も会えるってことはわかっているのに、なぜかバイバイしたくない。
「どうしたんだよ。元気ないぞ」
私自身でも元気がなくなっていることは気付いているくらいの落ち込みよう。
念願かなって話せた。それだけでもうれしいと思っていたのに、欲張ってる。
そう自分に言い聞かせて、私は唇をかんでから話した。
「あ、あの、菊池くん、また明日学校で会えるよね?」
ごく当たり前なことだけど、聞いておかなければ自分の中の安心感がなくなるような気がする。
「おいおい、なに言ってるんだよ。学校はもちろん行くさ」
「本当?」
「崎野さん、なんか変だぞ。ほら、もう五時三十分なんだ。早く家の中に入りなよ。ちゃんとおとなしくしてるんだぞ、なんちゃって」
その言葉は私の心を動かす決定打となった。こんなことを言う様も、私は気に入っていたからだ。
「ふふっ・・・・うん。おとなしくしてる」
流れによってなにか言いたげに顔を見合わせる私たち。私も何かを言いたい。でもそのなにかが見つからない。
しばらく黙ってしまうことになっていく。
菊池くんの顔が赤く染まってゆく。それは夕焼けのせいなのかはわからないけれど。
そして私の顔も・・・・夕焼けに染まっているはずだから気付かないかも知れない。
いつも自然に浮かんでいた梅雨明けの雲も、今日は見守ってくれているように感じる。
「じゃ・・・・今度は本当に、またな」
今度こそ、今日菊池くんを見れる最後のときがやってきた。
オーバーかも知れない。だけどさみしい。
だけどこんなことをいつまでもしているわけにもいかないし。でも言わなきゃと思って、
「うん。また学校で」
私は菊池くんに手を振って送った。
菊池くんは自分の家の方向に歩きながらちゃんと私の方に手を振りかえしてきてくれた。
『がんばって自分のものにしなさいよ!』
その真季さんの言葉にだんだん近づいてきているような気がしている自分が、もっとうれしかった。
「また、明日ね」
もう一度私は小さい声でつぶやくと、明日を待ち遠しく感じながら自分の家に入っていった。