ピュア・ハート 第3回
 
 
「こ、ここ…みたい」
 さっきの話で勇気付けられ、その勇気を出す第一歩を私は踏み出そうとしている。
 表札には『菊池』と、ちゃんと書いてある。ほぼここで間違いない。
 さっき、家に電話で、
『今日は部活で遅くなる』
 と、ウソまでついてしまったので、いまさらひくこともできない。
 そうしてでもあの人に会いたい…その気持ちはピークに達していた。
 ゆっくりと目をつぶって深呼吸をして、しっかり気持ちを落ち着けて…
 震える手先が、やっとのことでボタンをとらえた。
 ピンポーン。
 その音を聞いた瞬間、私は固まってしまった。一瞬にして悟ったからだ。ここからもう逃げ出すことはできないことを…
 その時、インターホンの上にあるスピーカーからブツッという電話を取った音がした。
「はーい、どちらさまですか?」
 私はインターホンの前で、さらに固まってしまった。
「あ、あ…」
 声に出せないような衝撃が走る。なぜかって…だってスピーカーの向こうの声は…
「あ、あ、あの…私、えーと…」
「あっ、もしかして崎野さんかい?そう?」
 そう、会いたかったその本人が出てしまったのだ。いきなりこんな風に話すことなんてまったく思っていなかったから。
「う、うん。こんにちは…」
「ちょっと待って!今開けるから!」
 それでも、なんとかここまでの声が出せた。自分でもよくできたって思うくらいの勇気だった。
 ドタドタッと廊下を駆ける音が聞こえる。その間、ドカッて音が聞こえたけど、大丈夫かな?
 そして、ガチャッとドアが開く。
 その瞬間、こんなことしなければよかったなんて、そう後悔してしまった。
 だって…なにも声が出せないから。
 目の前には、右足を押さえているプライベートの菊池くんがいる。なのに…うれしいはずなのになにも言えない。
 そんな自分を嫌いながら、もう一度菊池くんの方を見てみる。
 すると、その後ろには…
「ねぇ、里史。その子、誰?」
 後ろには…一人の女の人。後悔を、余計にするはめになってしまった。
 たまらず、私は恥ずかしいのを忘れ、声に出していた。
「ご、ごめんなさい!私、帰ります!」
 急に訪ねてきていきなりじゃ悪く思ったけれど、私は菊池くんにきびすを返し、ダッシュしていた。
「ちょ、ちょっ、崎野さん!」
 後ろから菊池くんの声が聞こえてくる。けれど、振り向く気にはもちろんなれなかった。
 後の言葉を聞くのが…とても怖くて。
「ばかみたい…私って…!」
 今まで勝手に菊池くんのことを想っていた私。でも、本当の菊池くんのことを知らなかった私。
 そんな自分がいいかげん嫌になってくる。
 菊池くんのことが本当に好きなのかどうかもわからなくなってくる。
 なんでだろう…なんで私、菊池くんのことが好きなんだろう…
 
 一人でとっても重かった授業の準備のための教科書とかを持ち運んでいるとき…
『崎野さん、それ女の子一人で持つには重すぎるよ。持ってあげようか?』
 去年の文化祭の準備をたった一人でしていたときも…
『おいおい、一人でそんな無茶するなよ!ほら、貸してみろよ』
 
 そう言ってくれた菊池くん。でも、その優しさは他の人にも…
 本当に私って…ばかみたい!勝手に盛り上がっていた自分が…
「おーい、待てよー!崎野さーん!」
 しばらくして、また再び追ってくる声が聞こえた。
 もちろんその声の主は知っているけれど、さっきがさっきだけにやっぱり振り向くことなんて、いまさらできない。
 余計惨めな自分になってしまいそうな気もするから。
 けれど、所詮私は女なわけであって、男の菊池くんが追いつけないはずがないことは、私もわかっていた。
 そして結局、私を呼ぶ声はすぐそこまで聞こえてしまうくらいのところまで追いつかれてしまい、そしてある場所でとうとう腕をつかまれてしまった。
「はぁ、はぁ…足、速いんだね」
 私は菊池くんの方を振り向けなかった。ぐちゃぐちゃになった顔なんて見られたくないと思ったから。
 それでも菊池くんが膝を抱えて息を整えているところが容易に想像できる。
 最後の深呼吸の音が聞こえた後、菊池くんはさらに私に言った。
「よし、落ち着いた。あ、あのさ…俺、なんか悪いことしたかな?」
「ううん、そんなことない。私もそんな意味なんてなくて、ただ前を通り掛かっただけだから」
 私はいまだ、菊池くんの方を向かずに、後ろ向きのまま、苦しまぎれに答えた。
 さっきから目から勝手に流れ落ちるものをこらえるのがつらい。
 それでも菊池くんは冷静に話す。
「うそつけ。この先進んだって開けている場所じゃないし、かといって崎野さんの家でもない。確か、崎野さんの家は逆だったはずだよな?こんなところただ通り掛かったって言えるような場所じゃないはずだぜ」
 ビンゴ。もうすばらしく言っていることが完璧なため、次の言葉など発することなんてできるはずがなかった。
「なぁ、どうしたっていうんだよ。さっきも姉さんに『とにかく早く追いかけなさい!』って言われたからこうして来たんだけど、俺にはさっぱり…」
 私は今の菊池くんの言葉を聞いて、はっとした。つまりさっき後ろにいた人は…
「お姉…さん?」
「そっ。俺の姉の菊地真季。そういや、まだ紹介してなかったっけ」
「そんなこと聞いてない…」
 菊池くんにお姉さんがいたなんて。その時、私は今の自分の顔を意識せずに振り向いていた。
「そうだったっけ…って、おいおい、なんで泣いてんだよ」
「だって…」
 その後の言葉は勇気がまだなくて、しばらく出そうにない。
「まったく、わけわからないな。ま、とにかく今から姉さんを紹介しようか。真季姉さん、美人で有名なんだ」
「そ、そうなの…」
 菊池くんの言葉を聞きながら、私はほっとすると同時に、あまりにも菊池くんのことを知らない自分を呪った。
 普通、好きな人だったら家族のことくらい把握しているはずなのに。しかも今まで二年くらい友達として付き合ってきたはずなのにそんな話も出なかったなんて。
 やっぱりこれって一方通行なのかな…
 すでにここで私の今までのポジティブな考えがだんだんなくなってきていた。