序章「年の瀬」


手にした封筒を左手に持ち直して、頭の中で口にするべき言葉を反芻した。…佐藤さんにこんな所を見られたら、一体何をしているのかと笑われてしまいそうだけれど…扉の向こうは別世界が広がっているのだから、これくらいの緊張は仕方ないと自分に言い訳を重ねる。

深呼吸を3回繰り返して、やっと自分の中でGOサインが出た。

コンコンと音が響いた後、中から「どうぞ」と声が掛かった。警視長の声だ。
「失礼します…。」
お辞儀を終えた僕の視界には、あの人が居た。
「あ…、済みません、お話の途中で…。」
「いや。今済んだ所だ。」
それに、誰かに入って来られてまずい話をしているのなら、ノックされた時点でそう伝えるよ、と警視長は少し強張った様な表情で笑った。彼の方は、表情一つ変える事は無く、いつも通りに涼しげだ。
「…それでは、休暇の件はお願い出来るのですね?」
「ああ…。今君に抜けられるというのは、正直痛いのだがね。」
「買いかぶり過ぎですよ。」
内心そんな風に思っているとはとても思えない程に、彼は優雅に笑った。
「それでは、失礼します。」
この人の優雅さは、白鳥さんのそれとはまた違った趣だ。歩く仕種を目の当たりにしながらそんな事を考えていたら、彼はまっすぐこっちに向かってきた。え、と戸惑ってすぐに、僕のすぐ後にドアがあるからだと気付いて、彼の邪魔にならない様に一歩下がった。
「ありがとう。」
クスリと、そんな音がした気さえする微笑。綺麗という言葉は本来、男性に使う物じゃないとは思うけれど、他に何て表現すべきなんだろう。とりあえず、由美さんなら、彼の事は既にチェック済みだと確信した。

彼の手を離れた扉はゆっくりとした動作の中、カチャ、と最後に軽い音を立てた。やっぱり高級なドアっていうのは、閉まり方も随分ソフトなものなんだ。僕の家じゃこうはいかない。閉め方にもよるんだろうか。

「・・・高木君?」

「・・・え?あ、はい!?」

しまった、我ながら余計な事を考えていたと向き直ると、小田切警視長は先ほどとはうって変わって、柔らかに微笑んでいた。

「あ、し、資料をお持ちしました。」

緊張する。あの事件で間近に顔を見る機会もあったけれど、本来なら僕みたいな平刑事があまり頻繁に接する様な人じゃない。資料の事だって、目暮警部に要望があったのを頼まれて持ってきた、ただのお使い・・・なんだけれど。

ありがとう、と受け取ると、警視長は封筒を脇に置いて手を組み、まっすぐ僕を見た。

「・・・彼は元気かね?」

「彼・・・?」
「私に Need not to know と言い放った彼だよ。」
ふふ、と満面の笑みを浮かべて警視長はそう言った。

「君が彼と親しいと聞いてね。君と二人きりで直接話せたらと、私が目暮に頼んだんだ。」
「特に親しいというわけでもない・・・と思います、けど・・・」
そうか、周囲からはそう見えるのか、と頬を掻く。僕は彼の事がとても好きだけれど、彼は僕の事をどう思っているのかは、正直に言ってよく分からない。まあ、少なくとも嫌われてはいないと思うんだけど。

「彼は・・・君と向き合っている時は、牙を剥く事も無ければ、特に幼い演技も見せない様だから・・・君にはかなり気を許していると私はそう踏んでいるんだがね。」
「え・・・」

東都タワーでの彼とのやりとりが頭を掠めた。
何者なんだという問いに、彼は笑顔で「あの世でね」と答えた。

「何も、彼の隠そうとしている事を、君から聞き出そうと思って呼び出したわけじゃない。安心したまえ。」
「あ・・・いえ、ええと・・・知らないんですよ、僕も・・・」
以前、一度真正面から聞いてみた事があったんです。でもその時は答えてくれなくて。いつか彼の方から話してくれるまで、待とうと思ってるんです。そう一気にまくし立てると、小田切警視長は呆気に取られた表情の後、豪快に笑い出した。何か僕は変な事を言ったんだろうかと思わず赤くなると、小田切警視長は「いや、失礼」と笑いをかみ殺した。

「・・・彼が君に気を許している理由がよく分かったよ。」

「彼・・・コナン君は、・・・相変わらずですね。事件に巻き込まれもしてますけど、元気ですよ。」
「そうか・・・」
小田切警視長がふっと遠くを見つめて微笑んだ。小田切警視長は鋭い人だ。コナン君の肩を持つわけじゃないけれど、彼の…コナン君の表情が曇る様な事は避けたい。この機会を狙って話題を違う方向に向けてしまおう、なんて打算が働いた。

「あ・・・け、警視はお休みをとられたんですか?」
「ああ、暮れに彼に抜けられると厳しいんだがな・・・」
「どちらかに行かれるんでしょうか・・・」
「・・・さっき、ちらっと言っていたな。岐阜がどうとか・・・雪が、とか。とにかく1週間、そこに滞在する予定らしい。」

実に彼らしいと思う。同じエリート系でも、彼は、白鳥さんとはこういった面で異なる。白鳥さんなら、暮れの犯罪多発なこの時期にまとめて1週間なんて休暇、申し出を考える事すらしないだろう。

「まあ、一課には他にも優秀な刑事が揃っているわけだから心配は無いだろう。彼の留守中は宜しく頼む。」
「はい。」
失礼します、と頭を下げて、さっきの高級そうな木製のドアに手をかけると、警視長が僕が持ってきた封筒に手をかけながら、最後に僕に声をかけた。

「君はいつでも彼の味方であってくれ。」

一瞬、警視の事かと思ったけれど、コナン君の事だと分かって「はい」と明るく返事を返す。手元から視線を移して僕の表情を見た警視長は、温かく微笑んでいた。