室内の照明を落とすと、薄ぼんやりとしていた窓の外の灯りが静かに流れ込んできた。四角く切り取られた窓に近づくと、はるか遠い地表には光の河が規則的に動く・・・。殆どの人間が、恐らくその光景を前に至福の溜息を漏らすであろう光景を目の前にしながら、彼はパソコンの画面ばかりを食い入る様に見つめていた。・・・否、それは正しくはない。彼は、彼の脳の中に展開していく物語を、慣れた手つきで文章に書き留めていた。
こうなった時の彼の集中力は、並外れたものがあって。そういう時に声を掛けてはいけないのだと、有希子も十分承知していたのだけれど・・・。ロスのホテルで缶詰状態になりながら、物語を書き綴っている彼のもとに戻るなり、「何かあったのかい?」と聞かれ―・・・答えた「何も」という嘘をその瞬間に見破られた。
「心配ねーよ。」「大丈夫。」
どうしてそう言いきれるのと問い詰めたくなる様な言葉を吐いて、小さな身体の息子は、に、と笑った。・・・結果、彼は無事、無傷で生還出来たのだけれど。これからも大丈夫、だなんて保証など何処にも無い。
全て話してしまいたかった。信頼出来る夫に全て話してしまえれば、どれだけ楽になれるだろう。それが勿論、気持ちの上だけだとは分かっていても、優作なら何か手立てを打ってくれるのではないかという期待も込めて。
だが、彼は仕事に追いつめられた状況で、憔悴しきった表情で有希子を迎えていた。多分、これまでの経験から言って、有希子が不在の間に食事を抜いた回数は、食事をした回数を軽く上回っているだろうというくらいに。そんな状態の優作に心配を掛けるわけには、と、ほんの少し口の端を持ち上げて笑ってみせた。うん、笑える、と有希子は確信した。何の事はない、私は女優よ、という自信に満ちた笑顔を向けた所で、優作の口から、柔らかな、それでいて鋭い質問が出た。
「新一とケンカでもしたのかい・・・?」
「・・・ううん。空港まで見送ってくれたわ。元気だったわよ。」
そうか、と答えた後、優作は「うん。」と小さく呟いて、それきりパソコンの画面に向かったままだ。
内にある世界と真剣に向き合い、楽しんで、言葉を操る。そんな優作が、そんな優作を見ているのが好きだった。だが、今日だけは、と、「コーヒーでも淹れるわね」と言い置いてその場を離れた。―これ以上側に居て、不安が表出して泣き出したら堪らない、そう感じたからである。自らの内にぐつぐつと煮え立っているどす黒い不安を、ほんの少しでも沈めてしまう時間が欲しかったのだ。
窓の外の光が落とされていっても、虚ろに海の向こうの息子を思う有希子は、一向に気付く様子は無かった。
さっきまでの闇は、訪れた光にゆっくりと染め上げられ、冷たい感触のガラスの向こうの世界が動き始める。
どれくらいこの場所にこうしているのだろう、と有希子が虚ろに考えている最中に、キイと軽く音を立てながら、閉鎖されていた世界の扉が開いた。
「・・・起きていたのかい?」
「・・・・・・眠れなくて・・・」
気遣う、優しい声。けれど、それ以上答える気力もなく目を伏せた。・・・そんな有希子の前に差し出されたのは、厚みのある茶封筒だった。それは、出版社に向けて原稿を送る際に使うものだ。最も、最近はネット上やMOでのやりとりの方が多い。だから、有希子も少し躊躇いがちにそれを受け取ったのだ。
そんな疑問に首を傾げると、優作は、ふっと笑って。
「新一への挑戦状だよ」と呟いた。
挑戦状という言葉にその封筒を改めて見る。差出人は勿論優作本人だが、宛名は新一への物だけではなかったのだ。
これは、と問えば、「あの子が一番大切なものを見失わないようにね」と、煙草を取り出して口に咥えた。
「大切なもの・・・?」
「ああ。オレが思う、新一にとって最も優先すべき大切なものに辿りつく問題さ。」