英雄 終章

薄暗いロビーは、10年そこらでは印象が変わるはずもなく・・・磨き上げられた大理石風のエントランスは、そのままだった。
打ちっぱなしのコンクリートの壁は、当時では随分新鮮だったのだが、今は・・・雨が降っていて日の光が差し込んで来ていない所為もあるのだろう、以前より灰色がかって、その薄暗い印象をより強くしている。

少し躊躇いながら、ゆっくりとガラスの扉を押し開け、彼女は中へと入った。


10年も前の約束である・・・


ましてや、相手は小さな子どもだったのである。約束した事すら覚えていないかもしれない。それならそれで良い、佐野の供養に舞台でも眺めて帰るつもりだった。

久しぶりの休息に、今日一日、佐野と過ごした場所をぶらぶらと歩いてみた。

ここは、その仕上げだ・・・

海外公演やプライベートの事情も重なって忙しい毎日に、こうしたのんびりした時間がとても貴重に感じられた。


「やっぱりいないか・・・」

分かっていた事である。

香奈は、10年前、新一と並んで座ったソファに腰を下ろした。


新一の活躍は、新聞で欠かさず情報を得ていたし、最近記事には出てこないが、きっと今忙しい毎日を送っているのだろうとも思う。

10年前、彼が知った真実に興味がなかったと言ったら嘘になる。彼が彼なりの真実を掴んだ事にもすぐに気がついた。だが、新一の様子を見ていたら、真実を言わせるのは彼を傷つける事になるのでは、と思うとそれ以上聞けなかった。

「日本警察の救世主かあ・・・」

そう呟いてぼんやりとガラスに映りこんだ自分の姿を見る。
「・・・あの頃のまんまじゃいられないわね」
くすっと苦笑していると、誰かがやってくる気配がした。

覚えててくれたんだ・・・

嬉しさに、胸が高鳴り・・・思わず声が弾む。

「もうっ、新一君、遅いよ!」

だが、壁からひょっこり顔を出したのは、小さな男の子だった。
その子は一瞬、10年前に時が遡ったのかと錯覚してしまう程、新一の姿そのままだった。

「あ・・・やだ、ごめんね、間違えちゃった」
そう言うのにも、大分間が空いてしまった様に感じた。余程驚いたのだろう、男の子は何か言いたそうにもじもじしている。

「あ、あの・・・」

声も、香奈が記憶している新一そのままである。だが、あれから10年も経っているのだ。子どものままのはずがない。

「ん、なあに?僕・・・」

優しく問い返すと、その子はごそごそとポケットに手をやった。

「あの、・・・工藤新一の代理で来たんですけど・・・」
「え?新一君の代理?」
「・・・・・・・それで、おねーさんにこれ渡して欲しいって頼まれて」

彼が取り出したのは、あの日のままのロケットだった。

「これ・・・」

「あの日伝えられなかった真実だけど、今のおねーさんならちゃんと受け止められるだろうからって・・・新一にーちゃんが・・・」

戸惑いを隠せない香奈に、彼はにこっと微笑んだ。

ああ・・・・・・

震える指先で受け取ったロケットは、大切にしていたらしく、あの日のままだった。
「見てもいい・・・?」
「うん・・・そのつもりで持ってきたんだ・・・」
パチン、と小さく音を立てて開いたロケットには、何も知らずに幸せそうに笑っている懐かしい写真が入っていた。

「それからね、これも預かってきたの・・・」
そう言って彼が取り出したのは、一通の封筒だった。

そこには新一の名前と、今日行けないというお詫び・・・それから、10年前に伝えられなかった真実が、丁寧な文字で書き綴ってあった。

「・・・佐野が・・・・・・?」

佐野の気持ちを知り、手紙を握りしめた香奈に、男の子は「はい・・・」とハンカチを差し出した。

「このハンカチ、新一にーちゃんのなんだ・・・渡してやってくれって。・・・香奈さんが泣きたい時、ちゃんと泣ける様にって。」
「・・・うん・・・ありがと・・・・・・」

優しい微笑みの少年は、そっと隣に座ると、香奈の気が済むまで何も言わずにただただそこにいた。

「・・・新一君、元気・・・?」
「うん、たまに電話してくるよ・・・」
「そう・・・・・・・幸せに暮らしてる?」
「うん。・・・おねーさんは?」
「・・・幸せだと思うわ。」
「世界的に有名なバイオリニスト・・・おねーさん約束守ったんだもんね。おねーさんの記事、新一にーちゃん、いつもチェックしてるんだよ?」
「まだまだよ・・・・・・新一君の方こそ、日本警察の救世主、高校生探偵・・・すごいよね。新聞見てるわよ、いつも。最近出てこないからどうしたのかと心配してたんだけど・・・元気そうね」

はっとしてその場を取り繕う男の子に、香奈はふっと笑みを漏らした。

「・・・新一君に会ったら伝えておいて・・・あの時はありがとうって・・・」

その言葉に一瞬落ち着いた少年に、香奈はあの日の面影を重ねていた。

佐野の本心を知った今なら分かる・・・
新一は10年前のあの時、香奈の為に真実を告げなかったのだ・・・

「え?あ、あ・・・うん伝えとく・・・」

戸惑いながらの少年の返事に、香奈はとても優しい気持ちに包まれていた。

「新一君、今でもバイオリンやってる?」
「あ・・・ううん、やってない・・・みたい。たまに触ってはいるみたいだけど・・・あのね、新一にーちゃんって昔っから変なクセがあってね、一度ケチがつくとトコトン嫌っちゃうというか・・・」
「バイオリン、嫌いになった・・・?」

そう言いながら悲しそうに覗き込む香奈に、少年はまるで自分の事の様に慌てている。

「や、そういうわけじゃないんだけど・・・。あのね、先生に教えて欲しかったのに、あんな事になっちゃったでしょう?だから・・・意地になってるんだ、きっと」
「そう・・・でも、佐野の所為でバイオリンを嫌いになったりしたら、佐野は悲しむわよ?・・・そういう子どもっぽい感情はいつか捨ててねって伝えておいて」
「うん・・・」
ほんの少しだけ困っている様に、少年は苦笑している。
「・・・もしその気があるなら、佐野みたいにはいかないだろうけれど、私で良ければ教えるからって・・・。」
「え・・・海外公演とか忙しいんじゃないの?」
驚いて尋ねる男の子に、意味ありげに微笑んで見せた。
「・・・これからは日本での活動が主になるの。と言っても別に教室開くとかじゃないんだけど・・・」
「え・・・?」

「・・・秋に結婚するの。・・・それで式に来て欲しいって」

「あ、そ・・・それは・・・・・・・」

さすがにこれには困った表情を見せる少年に、香奈はふっと微笑んだ。

「・・・もし都合が悪かったら、君が・・・新一君の代わりに来て?」
そう言いながら、印刷したばかりの招待状を彼に渡した。
目の前の少年は、代理でも良いと聞いて、少しほっとした様子だ。

「佐野の事、忘れたわけじゃないんだけど・・・・・・」
「・・・先生も、自分の為にずっと一人ぼっちになってる香奈さんは見たくないんじゃないかな・・・」
「・・・・・・佐野ならそう言うわね、きっと・・・・・・・」
「あの・・・あのね、10年前・・・ホントの事言っておいた方が良かったんじゃないかって、ずっと新一にーちゃん気にしてたんだ・・・」

思いつめた男の子の表情は、その内面からの優しさがにじみ出ていて・・・

思わず、ぽんぽんと頭に手を置いていた。

「うん。・・・知ってた・・・・・・・。でも新一君の表情見てたら聞けなかったの。・・・悪い報せの所為だと思ったんだけど、私の事を考えてくれてた所為だったのね。」
「香奈さんが・・・香奈さんなら下手をしたら、このままずっと一人でいるなんて言い出すんじゃないかと思って・・・」

まっすぐに見つめる瞳に、私を心配する気持ちが痛い程溢れていた。

新一君が考えていた通り、もしあの時点で佐野の想いを知らされていたとしたら・・・私ならすれ違った思いを悔やむばかりで、絶対に前を向こうとしなかっただろう・・・

10年という長い月日をかけて私が前を向くまで、彼はずっと心配して待っていてくれたのか・・・。
彼の知った佐野の想いと、知らせるべきだったのではないかという疑念を抱いて・・・

そう思うと目頭が熱くなった。


「・・・お腹の中に赤ちゃんがいるのよ・・・1週間前に病院で検査を受けて分かったんだけど・・・」

その報せに、男の子の顔がぱっと明るくなった。

「・・・新一君に一番に知らせたくて、まだ旦那になる人にも言ってないの・・・」
幸せそうに微笑む香奈に、少年は目を輝かせながら喜んでいる。

「それでね・・・この子が男の子だったら・・・・・・・・・新一って名前を貰ってもいいかなって聞きたくて」
「え・・・?隆一じゃなくて?」
「うん・・・・・・絶対新一だって決めてるの」

男の子は、頬を赤くしながらきょとんとしている。

「・・・新一君みたいに、優しい子になれますようにって・・・駄目かな?」
「あ・・・そ、そんな・・・事はない・・・・・・と思う、けど・・・」
真っ赤になって照れながら、男の子は「伝えておくね」と付け足した。

「また会えるかな・・・」

そう微笑む香奈に、男の子はにこっと・・・澄み渡る空を思わせる笑顔を返した。


10年前と同じ様に指切りをして・・・重い扉を開けると、外は雨上がり独特の、むせ返る木の葉の匂いに包まれていた。
もう、日は完全に落ち、道路沿いの飲食店のネオンが瞬いている。

「じゃあ・・・ここで・・・」

私はそう言いながら歩きかけ
・・・君は言葉が少し足らないんだよ。』と言っていた佐野の言葉を思い出した。

このまま別れてしまって良いのだろうか・・・

そう思って、ふっと立ち止まって振り返る。
見送ってくれていたのだろう、別れた場所で手を振っている彼に、大きく息を吸い込んで・・・



「・・・・・・相変わらず嘘を吐くのが下手ね!」

そう叫んだ。


ぎょっとする彼の顔が、遠くからでもはっきり分かった。


「そう伝えておいて!・・・新一君に!!・・・あと、約束したんだから、絶対に式に来てよ!!」

しょーがねーな、と言わんばかりに苦笑すると、彼はあの頃のままの笑顔で手を振った。


そして、再び歩き始める・・・

・・・10年の歳月をかけて暖められた真実の優しさを感じながら。




あとがき

うーん・・・実はこの「英雄」・・・ずーっと構想してた犯人は違う人だったんですよ(^^;;;
書いてる最中にかなり手直しいれて修正したんです(−−;;;なので、推理やトリックの辺りはぼろっぼろですわー(><、)

バイオリンに関して嫌な思い出となった事件として扱うつもりだったんです(^^;;;
だから、「バイオリン」をやれる状況下にいながらやらなかった、と・・・。新一にーちゃんはクラシックなら分かるみたいですし、月影島でピアノの音の暗号を解いた辺りで、絶対音感はあると確実に出てますし、どう考えても恵まれたこの環境、憧れたホームズのバイオリンに興味を持たないはずがなかったんじゃないかと・・・。

K3の事件で「一度ケチがつくと」という描写を見て、「あっ」と思ったんですが・・・・・・


でも、やっぱりすれ違いのための殺人にはしたくないなと思いまして・・・(−−;)



今回、犯人は当初のままでもこの場合でも「事件」は「悲しい事件」です。(事件は皆そうなんですが)
でも、理解出来ないから、といって人を殺していい・・・その人との関係を切り捨てていい理由にはなりませんよね。

そう思ったので、あえて動機を途中で捏造しました。無茶です(^^;)
なので、途中でかなり見苦しい点があった事をお詫びしますー(−−;;;;