英雄 第3章
立食式のパーティは、演奏がメインとはいえ、生花のアレンジメントやコサージュが所々に飾られ―・・・手作りのパーティとは思えない程の装飾が施されていた。綺麗だね、と呟いた新一に、さやかが「これは全部香奈さんが作ったのよ?」とそっと耳打ちした。
香奈の意外な一面に触れた様な気がして、少し彼女に興味を持った新一は、人ごみの中に香奈の姿を探した。
会場の片隅で、ハンカチを片手に飲み物を受け、香奈は一人ぽつんと佇んでいた。
「・・・香奈さん誰とも打ち解けようとしないからね・・・でも優しいとこもあるのよ?」
新一の視線に気付いたさやかがそう漏らした。さやかの言葉を聞きながら、少し寂しさを感じて・・・新一は視線を香奈に戻した。
香奈は新一達の視線に気づいている様子はなく・・・ふっと床の上に落ちている白い花を拾い上げた。・・・どうやら、すぐ側のテーブルの脇を飾っているアレンジから落ちたものらしく、香奈はそのアレンジにそっと手を加え・・・花を戻して形を整えると、ふっと微笑んだ。
それは小さな微笑だったのだが・・・意外に思えた事もあり、少し離れた新一にも香奈の微笑みは十分過ぎる程の印象を残していた。
そんな新一の気持ちを汲み取って、さやかが嬉しそうに「でしょ?」と呟いた瞬間だった。立ち上がりかけた香奈に、他の女性奏者がぶつかり・・・よろけた香奈はテーブルに倒れ掛かってしまった。テーブルの上のグラスが派手に音を立てて割れたので、周囲の目が二人に注がれる。
「あ・・・ごめんなさい・・・!」
慌てて一緒にガラスの破片を拾いかけた女性に、香奈は「いいわ・・・私がやるから行って頂戴」と冷たい視線を向けた。その所為で反感を買ったらしい。むっとした彼女はさっとその場を離れて行った。
新一は一人で破片を拾う香奈の姿に手伝おうと走りかけた・・・だが、それを止めたのはさやかだった。
「・・・?」
思わず見上げたさやかの視線の先には、佐野が香奈に駆け寄る姿が映し出されていた。
「・・・ケガは?」
「・・・・・・ないわ、私には・・・」
「そうか。・・・君は触らない方がいい。これから演奏が控えているのに指を怪我するわけにはいかないだろう?」
優しく妹を諭す・・・といった柔らかな微笑みとその言葉に、香奈が少しむっとした。
「・・・それは貴方もでしょう?」
「・・・君は言葉が少し足らないんだよ。今だって、彼女にいいから行けと言ったのは、『指を怪我するといけないから止めておきなさい』って事だったんだろう?」
「誰も貴方に通訳してくれなんて頼んでないわ」
憮然と返す香奈を佐野は心配そうに見つめている。
「・・・心配なんだよ・・・・・・・・・」
その佐野の言葉に嘘偽りは無かった。・・・だが、返って来た香奈の言葉も態度も、氷の様に固く・・・そして冷たい物だった。
「心配ありがとう。別に私は周りの人間にどう思われてても平気だから。」
香奈は拾い上げた破片を、さっきまでグラスを包んで持っていたハンカチの中にまとめ、おもむろに立ち上がり・・・まだしゃがみ込んでいる佐野を見下ろす様に言った。
「別に貴方に心配してもらう程の事じゃないわ。」
そう言って佐野に背を向け、戸口へと向かおうとした香奈に、佐野が言った―・・・。
「・・・この後で、君に話しておきたい事があるんだ。・・・時間を作ってくれないか?」
「この後?」
「・・・・・・アメリカに行く前にどうしても君に伝えておきたいんだ・・・」
「・・・今この場所じゃ駄目なわけ?」
「大切な話だから、二人だけで話したいんだ・・・」
香奈の冷たい視線にもたじろぐ事なく、佐野はまっすぐに香奈を見つめた。
「・・・分かったわ。このパーティが終わった後でね」
そう言い捨てると香奈はパーティ会場の外へと出て行った。
「佐野君・・・決心ついたんだ・・・」
呟いたさやかの表情を思わず見上げると、優しく微笑んでいた。
「決心?」
尋ね返す新一に、さやかは頬をほんの少し染めて「大人の事情よ」と答えた。
「佐野君ね、香奈さんに・・・アメリカに行く前に伝えておかなくちゃいけない事があるんだって、そう言ってたから」
さやかの笑顔を見ていたら、新一にもさやかの言わんとする事が理解できた。
「・・・好きだって・・・?」
「そう・・・勢いあまってプロポーズまでしちゃったりしてね・・・!」
さやかは、まるで自分の事の様に頬を染めて嬉しそうに微笑む。
「どうして・・・?」
新一がそう思っても仕方がなかった。
「どうしてそんなに嬉しそうなの?」
「佐野君と私は幼馴染なの・・・分かるかなあ・・・」
さやかの言葉に、新一の脳裏に浮かんだのはやはり蘭だった。
「分かるよ・・・僕にもいるから・・・・・・・幼馴染」
「なら分かるかな・・・佐野君も一人っ子だから、私の事妹みたいに可愛がってくれてたの。・・・そのお兄ちゃんが幸せになれるんだもの。嬉しいでしょ?」
さやかのその心境は新一には理解出来なかった。
蘭が将来・・・自分が蘭以外の人を好きになった時に、そう祝ってもらうのは今想像したって複雑な心境には違いない。
正直にそれを告げると、さやかが、「それは新一君がその子の事を好きだからよ」と微笑んだ。
好き?
おれが?蘭を?
まだ幼い新一にはさやかの言葉の半分も理解出来なかったが・・・蘭が誰かの事を好きになったとしたらと考えると胸がずきんと痛んだ。
もう一つ疑問に思っていた事を、さやかに尋ねた。
「ねえ・・・どうして幼馴染なのに佐野君って呼んでるの?香奈さんや他の仲の良いお兄さん達は佐野って呼んでるよ?」
「ああ、お母さんのファンだって話してたお兄さん?結城君って言うのよ・・・」
「そう。それに他の人たちだって。佐野さんか佐野って呼んでるのに・・・おねーさんだけ『佐野君』なんだなーと思って・・・幼馴染なのにおかしくない?」
「ああ、それはね・・・」
くすくすと笑いながらそう言いかけたさやかに「そろそろ演奏の準備して・・・始めるよ」と結城が声を掛けた。
「あ、はい!・・・新一君、このお話の続きはまた後でね?」
さやかはそう言い残すと慌てて廊下の方へと駆けて行った。
有希子も話し相手の佐野がいなくなり、新一の側に戻ってきた。
「新ちゃん楽しそうにお話してたわねー・・・」
そう突っかかってくる有希子に、少し憮然として「かーさんもでしょ」と憎まれ口を返す。
「・・・さやかさんって蘭ちゃんに似てるわよねえ・・・・・・」
「蘭に?」
「そう・・・蘭ちゃん、大きくなったらあんな感じになるんじゃないかしら・・・。新ちゃん、今のうちに蘭ちゃんと仲良くなっておくのよ?」
くすくすと笑いながらからかう有希子に「似てねーよ・・・」と仏頂面で返した。
「・・・似てねー・・・」
・・・これから成長するであろう蘭が、ただただ純粋に幼馴染の佐野を兄と慕い、恋路を応援する彼女に似ていて欲しくはなかった。
蘭の顔が見たくなってきたその時、ゆっくりと会場の照明が落とされた。
「お待たせしました・・・これより演奏を始めたいと思います。皆様ご存知の通り、佐野がアメリカに行く事になり・・・」
その話の事情を知らない者など、この会場にいるはずもなく・・・結城の言葉に、「前置きはいいから」と野次が入った。
「今日は裏方に徹してるんだし、唯一の表舞台なんだぜ・・・ゆっくり話させてくれよな」
なおも入る野次に苦笑しながら、彼はマイクをピアノの側のスタンドに戻した。
佐野の合図で始まった演奏は、ベートーベンの英雄だった。
先ほどのコンサートとは違い、他の楽器の旋律はなかったが、佐野と香奈のバイオリンの音色と、さやかのピアノの旋律はコンサートホールで聴いたそれとも全く遜色なく、ぴったりと合った息に、飾り気の無い原典譜の演奏がよく合っていた。
いつもは演奏する側の彼らも、その心地よい旋律に酔いしれた。
佐野の演奏は、これが最後だった。
曲も中盤に差し掛かった頃、バイオリンの音色が途絶え・・・佐野の身体が大きく揺らいだ。
「・・・さ・・・佐野君!?」
グランドピアノの向こう側にその姿を見ていたさやかが、思わず佐野の名前を呼んだ。次の瞬間、大きく音を立てて佐野の身体は床の上に倒れていた。
演奏が中断され、女性の悲鳴があがる中、「救急車!!早く!!!」と叫びながら、佐野に真っ先に駆け寄ったのは新一だった。
そして、彼の頚動脈にその小さな指先を当てた後、呆然とした表情でそっと佐野の側を離れると、俯いて消え入りそうな声で言った。
「今何時何分・・・?」
「・・・え・・・時間?6時23分・・・だけど・・・」
ショックを隠しきれないままの状態で答えるさやかに、新一は目を伏せて言った。
「・・・警察も・・・・・・警察も呼んで・・・」
優作について現場にちょこちょこ顔を出しているとはいえ、咄嗟の新一の行動に、有希子は目を見張る思いだった。
実際、優作と二人で旅行に出かけたりしている最中にこうした事件に巻き込まれた事もあったと有希子も話には聞いている。多分、新一のこの行動はそうした時に見せた優作の行動が手本になっているという可能性は十分あるのだろう。
今は物も言わぬ佐野の身体に触れない様に、新一がそっと佐野の様子を見る。
特に目立った外傷は無いが、かっと大きく見開いた両目とその表情はそれが自然死ではない事を物語っているかの様だった。
全く佐野の身体に触れずに・・・ではそこまでしか分からなかった。
こうした現場はなるべくそのままに保存しておく事・・・優作から言われている事でもある。
幼い新一にはまだそこまでの観察力は無い。ましてや、警察関係者ではないのだから触れる事の無い様に、と優作から教えられていた。
ここは離れ小島でも何でもない、東京のど真ん中である。
すぐに駆けつけてくれる警察に、現場の状況や死因等の解明は任せればいいのだ。
新一はそれより、周囲にいる人間全員の行動に意識を集中させた。
やっと正気に戻りかけた女性達から、すすり泣く声が漏れ始めた頃、警察が到着した。
パーティの会場は、そのまま葬儀の会場になったかの様に悲しみに包まれていたが、警察の到着でその雰囲気も掻き消されていった。
「おお・・・?有希子さん!?」
聞き慣れたその声に、新一が顔を上げた。
「・・・目暮警部補・・・」
知り合いの姿にほっとして、有希子が力なく微笑んだ。目元の涙の跡に、目暮は有希子に被害者と関係がある事を知り、「ご愁傷様です・・・」と呟いた。
「被害者とはどういったご関係で・・・?」
「私の恩人です。・・・仕事をしていた頃、彼にお世話になった事がありまして・・・今日は彼が渡米するという事でコンサートに来て、このパーティにもお邪魔させていただいてたんです。」
「そうですか・・・それは・・・・・・」
ハンカチを握り締めて、俯き・・・涙を流す有希子に、それ以上かける言葉すら見つからなかった。
現場からの叩き上げである目暮にとって、そうした現場は数多く目にするものだったのだが、知り合いともなれば話は別だ。
勿論、現場に優作の姿が無かった事も、目暮の浮かない表情の一つの起因ではあった・・・
「ねえ、目暮警部補、・・・佐野先生の死因は?分かった?」
そう問い掛ける新一に、目暮は一通り現場を見た状況を伝えた。
「・・・話を聞いている限りでは発作の様だが、突然の心臓発作という状況じゃないんだよ・・・」
一通りの鑑識の結果報告を交えながら、目暮はせがまれるままに新一に状況を伝えた。
「じゃあ、指先のケガから毒が入ったの?」
「彼の指先から毒物が検出されているからね・・・そう見て間違いはないだろう。問題は、被害者が衆人環視のこの状況で死んでいるという事だな。一体犯人はどうやってこの状況で演奏中の被害者の指先から毒物を付着させる事が出来たのか・・・」
腕を抱える目暮に、新一がきっぱりと言い切った。
「そんなの簡単だよ・・・」
「え!!?」
小さな子どものその発言に、目暮が驚いたのは言うまでもない。
「先生は演奏してたから怪我したんだ・・・僕ずっと見てたから分かるよ?」
そう言いながら、新一はさっき佐野から貰った自分のバイオリンを取り出して、佐野の真似をしてみせた。
「先生はね、こうして・・・こう、弦を指で弾いたんだ。その後倒れたんだよ」
「ピチカートね・・・」
新一の説明に香奈がそう呟いた。きょとんとしている目暮に、さらにさやかが説明を付け足す。
「ピチカートっていう奏法なんです。弦を指で直接弾いて音を出す・・・英雄では中間にピチカートの指示がありますから、彼はそれに従ったんでしょう・・・」
「弦に予め毒を塗りつけておいて、何か細工をして怪我をしやすい様にしておく・・・ピ・・・なんとかで怪我をした彼の指先に毒物が・・・ははあ、なるほど!」
目暮の頭の中でも筋が通ってきたらしい。
「おい、彼のバイオリンを調べてくれ・・・!」
そう指示を出されて鑑識が調べると、バイオリンの弦から細かいガラスの破片と毒物が塗りたくられた痕跡が検出された。
「どうやら間違いない様だな・・・」
目暮の言葉に、その場の雰囲気が一変した。
「彼のバイオリンに近づけた者は?」
その問いかけにおずおずと挙手したのはさやかだった。
「私・・・私が佐野君にバイオリンを手渡しました。・・・ケースから出して、頑張ってねって話しながら・・・」
「ほう・・・あなただけですか?他には?」
俯いたさやかの代わりに、香奈が「結城君に調律してもらってたわ。私のも一緒に頼んだから、私が受け取って佐野に手渡したわ。」と答えた。
「すると、被害者の他にバイオリンに触れたのは、香奈さんとさやかさん、結城さんの3人だけで間違いないですか?」
断定しかけた目暮に、結城が反論した。
「おいおい、ちょっと待ってくれよ・・・コンサートが終わった時点で、誰にだって佐野のバイオリンは触れたはずだぜ?皆結構バタバタしてたし、佐野は有希子さんと席を外してたんだ。あいつはバイオリンケースに鍵かけないから、その時間帯なら誰にだってチャンスはあったはずだ。・・・それに、もしその時点で毒物やガラスの破片が着いてたとしたら、調律をした俺が死んでたんじゃないのか!?」
「そうね・・・あなたも快く思われていないから、あなたが誰かに狙われてたって可能性もあるんじゃない?」
冷たく言い放つ香奈に、うろたえかけていた結城が食ってかかった。
「な・・・!?自分だってそうじゃないか!!」
「・・・あら、私を『殺す程の価値がある』理由を持ってる人なんて知らないわね。・・・人殺しっていうのはその後の自分の人生も賭けてやるものじゃない?生憎、私にはそんな深い仲の人間なんていないしね」
目暮はその二人の口論を聞きながら、鑑識に香奈のバイオリンも調べておく様に指示を出した。
「ねえ、ちょっと・・・やめましょう!?刑事さんの目の前よ?二人とも・・・」
さやかが仲裁に入ると、眉間に皺を寄せながら結城がすぐ側にあったパイプ椅子にどかっと腰掛けた。
「目暮警部補・・・こちらのバイオリンからも毒物とガラス片が検出されました・・・!」
その鑑識の報告に、香奈は眩暈を覚えた。結城は勝ち誇ったかの様な笑みで、「それみろ」と呟いた。
「やめましょ!?ね!?」
再び入ったさやかの仲裁に、結城は毒々しい言葉を吐きかける。
「さやかじゃねーの?バイオリンに毒仕込んだの・・・」
「・・・結城君?」
「お前、佐野にふられた腹いせに、バイオリンに毒塗ったんじゃねーの?もしくは、この女を殺そうとしてしくじったか・・・。だって、佐野とこの女に新しいバイオリンプレゼントしたのお前だろ?」
本当ですか、と尋ねる目暮に、さやかは戸惑いながらも、はい、と答えた。
理由を聞いても困った表情をして答えようとしないさやかに、さらに結城が毒を吐いた。
「前に好きな奴がいるって話してたからな、・・・佐野がこの女を好きだと知って腹立てたんだろ?」
さやかのそれより一瞬早く、香奈が結城に言い返していた。
「あら、あなたもそうじゃない・・・さやかさんの事好きだったんでしょ?振られた腹いせに佐野を殺そうとしたんじゃないの?」
「・・・佐野を殺す程の動機だったら、あんたにもあるだろ?・・・大事な大事なオニーチャンを殺したのは佐野だって思い込んでたろ、あんた・・・!」
「そうね。私にも動機はあるわ・・・でも、バイオリンに触れた者全員に容疑をかけさせたがる貴方の方がおかしいって私は言ってるのよ」
「調律はお前らの目の前でやってたろ?・・・もし俺が毒を塗ったなら、調律は他の誰かに任せるとかするんじゃねーか?自分が死んじまったら元も子もないからな!」
こうした醜いなすりつけの現場にも数多く立ち会ってきたが、ここまでといった状況も珍しかった。
目暮は、さやかと香奈から結城を引き離し、一人ずつ控え室に呼んで事情聴取をする事にした。
香奈は念のためにと、鑑識から指先を調べられた後、近くの医大から借りてきた消毒で両手を洗い流した。
香奈の指には毒物が付着していなかったのだが、念のためである。
ハンカチを押し当てて声もなく泣いている。さやかのそんな様子に新一が声を掛けると、「香奈さんはどうしてる?」と真っ赤になった瞳を向けて、そう問いかけてきた。
「彼女ね、きっとどこかで一人で泣いてるわ・・・佐野がこんな事になって、自分のバイオリンにまで毒が塗ってあって・・・ショックを受けてない筈がないの。・・・お願い、新一君、様子を見てきてくれる・・・?」
そっと入った給湯室では、さやかの言葉通り、沈んだ香奈がいた。
水しぶきが顔にかかるかと思われる程に蛇口をひねり、その流し台に両手をついて彼女は俯いていた。
泣いてる・・・のかな・・・
頬を濡らした右手でそっと拭い、香奈は再び手を洗い流すと蛇口を捻って水を止めた。
さやかが守ってあげたくなるというタイプなら、香奈はその逆だと思っていたのだが・・・案外、脆いのは香奈の方かもしれない。
そんな事を考えながら、ハンカチを探して困っている香奈に、そっと自分のそれを差し出した。
「・・・・・・・・ありがと・・・」
「どういたしまして・・・」
「水でも飲みたかった?」
覗いていた言い訳をしようと考えていた新一より先に、香奈から言葉が出た。
「・・・違った?」
「・・・・・・ううん、そう・・・」
物の見方も、周りの人間が思うより余程好意的に見ているのかもしれない、と新一は思った。
香奈は、手渡されたコップの水を飲み干す新一を悲しそうにじっと見ていた。空になったコップを受け取るとさっと洗って元の場所に伏せ、手を拭いたハンカチを新一に返そうとした。
「いいよ・・・おねーさんにあげる・・・まだいるでしょ?」
新一の言葉に、香奈はきょとんとしている。
「・・・泣きたいの我慢してるんでしょ・・・・・・・・・?」
「私が泣いても佐野は生き返ったりしないわよ・・・兄の時に経験済みだもの。同じ事繰り返したりしないわ」
香奈の言葉は、自分に言い聞かせているかの様に聞こえ・・・新一はそっと香奈の手を取ると、ロビーから屋上へと出た。
「・・・何?」
訝しげにそう言う香奈の目の前に、チャリ、と音を立てながら、新一は銀色に鈍く光るロケットをかざして見せた。
「・・・・・・・さっきね、刑事さん達の前でバイオリンを弾く真似をした時に、バイオリンケースの中の・・・松脂を入れる所に入ってたのを見つけちゃったんだ。多分先生のだと思う・・・」
香奈はちらっと新一を見ると、大きく溜息を吐いた。
「コンサートの休憩中、先生探し物してなかった?・・・薄暗い舞台の上で誰かが探し物してたんだけど・・・きっとあれ、先生だったんだ。団員さんの中に似た感じの背格好の人は先生しかいなかったから・・・」
「佐野がうろうろしてたのは知ってるわ・・・。探し物してるなんて誰にも言わなかったから、団員の誰も気がついてなかったでしょうけど・・・」
新一が香奈の目の前に、ロケットのペンダントをちらつかせた。
「おねーさんは真実を知りたいと思う・・・?」
そう切り出した新一に、香奈は「もう見えてる真実なんか、今更興味ないわ」と溜息混じりにそう呟いた。
「・・・おねーさんのお兄さんが亡くなったのは、今でも先生の所為だと思ってる?」
「・・・・・・答えなくちゃいけないの?」
「・・・答えて」
一瞬躊躇した香奈は、ゆっくりと首を横に振った。
それを確認して、新一は次の問いかけを始めた。
「じゃあ、おねーさんは・・・おねーさんは先生が好きだった・・・?」
しばらく躊躇った後、香奈はそっと頷いた。
「・・・・・・・・・・じゃあどうしていつも先生に辛く当たってたの?」
「佐野は・・・兄が死んだ後、私の気を紛らわせようと色々良くしてくれたわ。・・・お荷物になってるんじゃないかと思う程にね。私も、ずっと好きだった佐野がそこまで構ってくれるのが嬉しくて、佐野のその好意を勘違いしたの。」
「・・・勘違い?」
「・・・兄の代わりに構ってもらってるだけなんだと思い知らされたのは、楽団に入った頃だったわ。」
香奈の頑な過ぎる程の冷たい態度の理由が、新一にも少し分かってきた。
「・・・もしかして、先生は・・・さやかさんを好きなんだと?」
「誰が見ても明らかでしょう?・・・お似合いだと思ったわ。だからこそ、私に構うのはやめて欲しくて・・・でも佐野の側から離れてしまうのは辛くて・・・佐野が教えてくれたバイオリンを辞めてしまうのは嫌で・・・」
「・・・先生が・・・・・・この後で話があるって言ったのはどんな話だか分かった?」
新一の問いかけに、大きく息を吸い込んで、香奈は答えた。
「この楽団を辞めてくれ・・・そう言われるんだと覚悟してたわ。私一人で楽団の雰囲気を随分壊してたし・・・」
「違うよ・・・・・・・・・おねーさんに言いたかったのはきっと・・・・・・・・・・・」
そこまで言いかけて、新一は喫茶室での佐野との会話を思い出した。
今更だろう・・・?
確かに佐野はそう言っていたのだ。
そんな風に言っていた人間が、その直後に告白なんて考えるだろうか・・・
・・・・・・自殺?
ふと頭を過った考えを振りほどいた。
自分が好きな女性も一緒に死ぬかもしれない・・・そんな罠をしかけて佐野が自殺するなんて、考えられない事である。
大体にして、渡米や香奈の事が自殺の理由とは思えない。
「おねーさんはピ・・なんだっけ・・・」
「ピチカート?」
「そう、それ・・・どうして平気だったの?」
「してなかったわよ?・・・・・・・第1バイオリンと第2バイオリンは全く同じ演奏とは限らないの。英雄は第1でピチカートがあるんだけど、私は普通に弓で旋律を弾いたのよ」
「・・・・・・・弓で?第2バイオリンはピチカートがないの!?」
「え?ええ・・・本来やるはずだった曲なら私も同じ所でピチカートがあったんだけど、佐野が急に『英雄』にしないかって言い出して、演奏直前に変えたの。」
「それ・・・先生が言い出したのっていつ!!?予めやる曲は決まってたの?皆知ってた?」
「曲を決めたのは・・・2ヶ月以上前よ。練習も必要だしね・・・楽団の殆ど全員知ってたと思うわ。・・・曲を変えようって佐野が言い出したのは、会場の照明が暗くなってからだったわ。つい今しがたコンサートでもやった曲だし、練習も必要ないから私とさやかさんも反対する理由も無くて同意したんだけど・・・」
もしかしたら、二人一緒に殺すつもりだったのかもしれない・・・。
だが、それなら佐野はなぜ突然曲を変更したのだろう・・・
もし佐野が無理心中を狙っていたのなら、香奈を道連れにするつもりだったのが、急に心変わりをしたという事もあるにはあるかもしれないが・・・
でも・・・・・・そうしたら・・・
まだ辻褄が合わない箇所はいくつかあった。
佐野の話したい事の内容がほんの少しでも分かっていれば、絡んだ糸は簡単に解けたかもしれないが、佐野がこうなってしまった今となってはそれを知る術もなく・・・
大体にして、佐野と香奈が二人一緒に狙われなければならない理由も見つからなかった。
結城やさやか、香奈が弦に触れて無事だったという事を考えると、佐野のバイオリンに毒を仕込んだのは佐野自身・・・だが、佐野には香奈のバイオリンに毒を仕込む機会は無かった・・・。もし予め毒を仕込んでいたとしても、調律で結城が触った時点でアウトだ。
第一、やけに沈んだあの佐野は、香奈に「後で話がある」と約束をしていた・・・つまり、発作的にでもない限り、自殺をするとは考えられなかった。
・・・佐野と香奈が死んで得をするなんて人が、この楽団にいるのだろうか・・・
じゃあどうして・・・・・・・・誰が、何の為に・・・?
「バカよね・・・佐野は・・・・・・・・いっつも人の事ばっかり心配して・・・・・・兄の時もそうだったわ。ノイローゼみたいになってきてる兄に、心配だからって佐野がついて出かけたの。それで事故に遭って・・・佐野は奇跡的に後遺症も無く助かったけれど、その後こんなお荷物背負い込んじゃったんだものね・・・」
「お兄さんは・・・」
「え?」
「香奈さんのお兄さんは、どうしてその日出かけたの・・・?」
香奈の脳裏はあの日の光景を再現し始めた。
「誰かに会う約束があるから・・・って出かけてたわ・・・」
「相手は?女の人だった?男の人だった?」
「さあ・・・佐野も相手を知らなかったみたいだけど・・・。大切な話だからって、佐野は席を外してくれる様にって兄が頼んでたみたいだし、直接相手には会わなかったって言ってた。理由アリみたいだから、一人離れた駐車場で兄の帰りを待ってたって・・・・・・・。佐野はね、人が気がつかない様な所でも律儀に気を使うのよ。相手も下手をしたら気付かずに通り過ぎてしまう様な事でもね。」
人が気がつかない所でも・・・・・・・・・・・
新一の脳裏に生じたひっかかりが、ほんの少し解け始めた。
「香奈さん、指・・・あの時指怪我しなかった・・・?」
「え・・・?」
「ほら!!あの時!!!・・・パーティの最中にガラスの破片を拾ってたでしょう!?」
新一の真剣な眼差しに戸惑いながら、香奈は手を開いて見せた。
「ああ、少し切ったけど・・・これくらい何て事ないわよ。これまで練習中に指を怪我した事だってあるんだし・・・今日は佐野との最後の演奏だと思ってたし」
「・・・バンドエイドとか消毒とかしなかったの?」
「そんなものしてたら指が滑って正確な音が出せないし、消毒で弦が錆びたりしたら困るもの・・・血くらいだったら、後でどうにでも落とせるだろうと思ったの。・・・弦って意外とデリケートなのよ?指の油程度だって、ちゃんと拭き取っておかないと錆びの原因になるんだから」
「先生、気がついてたんだ・・・だから・・・・・・」
新一の頭の中で、佐野の行動の理由が見えてきた・・・
香奈が指に切り傷を作った事に気がついたんだ・・・だから・・・香奈さんがピチカートをしないで済む曲に差し替えたんだ・・・
だとしたら・・・・・・・・
「おねーさん・・・・・・・ハンカチはどこへやったの・・・・・・・?」
「えっ?」
「おねーさんが・・・割れたガラスを拾い集めたあのハンカチ、どこへやったの!?」
突然の予期しない新一の言葉に、香奈は戸惑いながら「ホールのごみ箱・・・」と答えた。
「今からそこに行こう!」
新一はそう叫ぶなり駆け出した。
香奈は、佐野というより、兄のその姿に重なる小さな少年の後を慌てて追いかけた。
あとがき
新一君ホントに小学生?(^^;;;
佐藤刑事に突っ込みいれていただきたいわーってな感じですが(おい)
さて、トリックのピチカートですが、火曜サスペンス劇場か何かで偶然見かけたお話が参考になってます(^^;)
そのドラマでも演奏中に人が倒れたわけです。その辺も参考にしてますが、この楽団や細々とした所はくぬぎのバイオリンの先生が所属している楽団を参考にしてるんですね。演奏会にも行ってみて、雰囲気とか参考にしてます(^^;)(の割にはあまりにもリアリティが無いですが・・・(はがっ))
しかし現在「参考にしました」と言い切れるのはピチカートのこの部分くらいです(−−;)
途中まで何も考えずにそのまま使っていたら新一君が「そんなの簡単だよ?」と言った時点で終わってしまいました。(おい)
え?・・・こんなに簡単に犯人分かっちゃった!?うそお!!!とくぬぎが驚愕したのは言うまでもありません(−−;;;
いえ、勿論ドラマでは犯人は違う人だったと思うんです。(←記憶にないんです、すいません〜(><、))
ですが、ピチカートのトリックだけでお話を盛り上げようと思ったら、くぬぎの腕じゃ無理でした(^^;;;;
最初の計画通りの方が犯人だとしたらもうちょっとはもちそうだったんですが(^^;)、
なので、途中でいぢくりまわしてわけがわからなくなってますわー
何気に新蘭に走りかけて更に暴走(大笑)
あ、そうそう!
途中で第1バイオリン、第2バイオリンとありますが、「ファーストバイオリン」「セカンドバイオリン」と言うのが一般的らしいです。文章にするとすっごく分かりづらいだろうとわざと第1バイオリン、といった言い方にしました(^^)これでも一応間違いではないそうなのでv
一部手を加えてちょっとトリックとこの状況に合わせて変えてしまっている部分はありますが、第1バイオリンにピチカートがあるのは本当です(^^)
それから、GWに載ってた時点で、「英雄」を一部「運命」にしてました(^^;;;(←何をしてても突っ込み所満載な奴(笑))