紫煙

いつもの時刻、いつもの通学路、いつもの光景―・・・
気分次第でこうも変わって見えるものなのだろうか。

快斗は少し冷たくなりかけた風を胸いっぱいに吸い込んだ。

「・・・快斗、最近いつにもまして元気だよね」
「そおかぁ?」
幼馴染の問いかけに答える顔も自然に緩む。

「何かいい事でもあった?」

青子の声を聞きながら、鞄を持っているのとは逆の左手で、ポケットの中の携帯にそっと触れる―・・・。

「や、別に?」

言葉とは裏腹に、携帯に触れた指先から嬉しさがこみ上げる。


携帯で蘭からEメールのやり取りが出来る様になって1週間。

蘭が快斗との連絡用に、とメールのアドレスを取得してくれたのだ。
メールでのやりとりが可能となった今、これからはいつでも取りたい時に連絡出来るし、会いたい時には会う事も出来る。
何より、自分と連絡を取りたいと思ってくれる、その蘭の気持ちが嬉しかった。

この携帯のメールアドレスは、蘭にしか教えていない。
携帯が、メール着信を知らせてくれるのは、蘭が快斗を呼んでいると知らせてくれている様なものだ。

蘭とはいつでもポケットの中の携帯でつながっている―・・・。

そう思うと、安心出来た。

「・・・・・・最近怪盗キッド、出ないよね・・・引退しちゃったのかな」
「アイツも忙しいんじゃねーの?・・・珍しいな、おめーがキッドを気にかけるなんて」
「・・・・・・・・・・珍しいかな・・・・・・」
「怪盗キッドは『最低最悪男、大っっ嫌い!!』なんじゃねーの?引退してくれりゃ嬉しいはずだろ?・・・変な奴だなぁ」
苦笑する快斗の顔を、青子は何か言いたそうにじっと見つめる。
だが、今の快斗にはそれが伝わらなかった。

青子はふっと立ち止まりかけた。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・変なのは快斗の方だよ・・・・・」

いつもだったらキッドの肩を持って青子の事、からかうじゃない・・・

それを言ってしまったらお終いになりそうな気がして、怖くて口をつぐんだ。

立ち止まった青子に気づいて、少し先で快斗が振り返る。
「あ?何か言ったか?」
「・・・・・・・何でもない!行こ?」
「変だぞ、おめー・・・」
「誰かさんには負けます―!」
「てめ・・・!」
じゃれあっこがはじまる。
・・・・・・いつもとは少し違う、ぎこちない笑顔に、うっすら涙が滲んだ、その時だった。

「あ・・・おにーちゃんだ」
青子の視線の先に、お隣のお兄さんの姿が映った。

隣のお兄さん・・・哲也は、青子より5つ年上の22歳。・・・青子が小4の時に隣に引っ越して来た家族の長男で、今は大学に通っている。
青子も昔はよく遊んでもらった、優しいお兄さんである。

最近めっきり顔を合わせる事も少なくなってきていたのだが・・・

「青子・・・」
タバコの自販機の取り出し口に手を伸ばしかけた哲也は、突然現れた青子の視線を気にしてか、一瞬手を引っ込めた。

「ひさしぶり!・・・おにーちゃん大学に行く様になってから中々会えなかったもんね」
「うん・・・クラブ活動が忙しくなっちゃってね・・・」
「お?青木の知り合い?」
「あ・・・うん、家が隣で昔よく遊んだんだ・・・中森青子・・・高校生だよ」
青子の言葉に苦笑しながら、哲也は後ろにいる友人を紹介した。
「こいつは同じ大学で同じクラブの時島って言うんだ・・・」
「はじめまして」
「よろしくね!・・・そっちの男の子は彼氏?」
時島の指したのは快斗だった。
快斗には聞き取れなかったらしい。きょとんとしている。

「違います・・・幼馴染で・・・・・・」

今は認めたくないそれを、自分から言い出す事に胸が締め付けられそうだった。
自分の口が自分の声が、まるで他人の物の様に感じられ、青子の気持ちは更に沈んだ。

・・・だが、それでも快斗の口からそれを聞くよりはずっと良かった。

「黒羽快斗です。こいつと同じ高校生です。」

耳と心を閉ざしたい。

そんな思いで視線を快斗と時島から逸らす・・・

哲也は自販機の取り出し口に再び手を伸ばし、中からいくつもの煙草を取り出すと、時島の持っている袋にそのまま入れた。

「おにーちゃん・・・・・・煙草・・・・・・・・・・・」
思わずそれは声に出てしまった。
青子の知っている哲也は、煙草を毛嫌いしていたからである。
なぜなら、哲也が引っ越してきた理由が、前の家が煙草の不審火で焼けてしまったからである。
その話になると、哲也一家は重い空気になってしまったため、哲也の母親や父親、哲也本人からは聞けなかったが、その火事で幼い妹が焼け死んでしまったらしい事は、青子の父、銀三から聞いて知っていた。快斗も、青子から聞いて事情は知っていた。

「ん・・・大学に通う様になってから吸う様になったんだ・・・」
「・・・・・・・どうして・・・・・」
青子の問いかけに、哲也は寂しそうに微笑んだ―・・・。

「・・・・・・・・・・・・・・・・なんとなく・・・ね」

その寂し気な笑顔に、青子は思わず哲也のジャケットの裾をつかんでいた。

「・・・何?」
「・・・身体壊しちゃうよ、そんなに・・・知ってる?一本で5分30秒寿命が縮むんだって・・・青子が子どもの頃、どこかで聞いたの。」
心配する青子の頭を、ぽんぽんと哲也が叩く・・・。
哲也は青子が落ち込むと、必ずそうして無言の内に励ましてくれた。
今も昔も、その仕草は変わっていない・・・が、ほんの少し哲也から漂った香りが、哲也が昔とは変わった事を告げていた。
「・・・・・・全部俺が吸うわけじゃないよ。・・・この内1箱だけな。一日に吸う分もたかが知れてる―・・・」
「そ、あとはクラブの先輩の分・・・!」
時島が嬉しそうに口をはさむ。
「こうして毎日この時間に煙草を買いに来るんだ。・・・クラブの前にね。」
「・・・何のクラブなんです?」
快斗も会話に参加してきた。
「ん?・・・映研って言ったら分かるかなぁ・・・映画撮ってるんだ。」
「へえ・・・面白そうですね」
「ん、面白いよ〜?・・・青木は美形だからね、主に役者・・・まあ、その傍らで手先が器用だから、小道具作ったりしてるんだけど・・・あ、そうだ、青子ちゃん今度出てみない?」
「えっ?」
突然話をふられて青子がためらっていると、哲也が二人の間にすっと進み出た。
「青子は駄目」
「何でだよ〜・・・今度撮るヒロイン欲しがってたじゃないか」
時島の不満そうな声が辺りに響く。
「・・・・・・・・・・・こいつだけは・・・駄目」
「時島さん、無理無理!!青子じゃヒロインなんて出来っこねーもん」
快斗の茶々に、哲也が苦笑する。
「・・・そんなんじゃないよ。・・・俺にとって青子は特別だからってだけなんだ。」
そう言いながら、哲也は青子の頭を撫でた。その撫で方は子猫をあやすかの様に、優しさに満ちていた。
「まあ・・・うちの大学、最近物騒だからな・・・」
苦笑する時島に、快斗が問い掛ける。
「物騒って?」
「ちょこちょこ泥棒が入ってるんだよ。うちの部室でも買い置きの煙草が無くなってたりね。極め付けは医学部の方でも泥棒が入ったって・・・青酸カリとか盗まれたって噂があるんだよ。もともと管理がずさんだったから、それがホントかどうか分からなくて、警察の方には届けてないらしいんだけど・・・。な、青木、お前も医学部にしょっちゅう出入りしてるから噂は聞いてるだろ?」
「噂は噂だけどね・・・確かに管理はずさんだったから、誰が持ち出しても少量ならばれないだろうね」
「お、おにーちゃん?」
不安そうに自分を見上げる青子の視線に、自分を心配してくれているのが嫌でも伝わってきた。
「大丈夫だよ・・・俺はね」
再び、青子の頭を撫でる。

「綾子から『哲也には昔っから特別な子がいる』って聞いてたけど・・・それってもしかしなくても青子ちゃんの事か?」
時島が冷やかす様に声をかける。哲也は、快斗をちらっと見た。・・・その視線は、ほんの少し挑発しているかの様だ。

「・・・そ・・・昔っから、青子は俺の宝物だもんな・・・」

その視線に快斗は気づかない振りをした。

「だから誰とも付き合わないって言ってまわってるんだろ?」
時島の複雑な微笑みには、その綾子とやらの事も含まれているのだろう。

「・・・俺は誰もそばに置かないだけだよ」
そう言いつつも、哲也の手は青子の頭や肩に置かれている。
「おにーちゃん・・・?」
いつもなら、こんなにべたべたと触ったりはしない。・・・特に、快斗の前では。
そんな哲也に不自然さを感じて、青子は不安になった。

時が経ったせいなのだろうか・・・

誰しも変わっていくものなのだろうか・・・・

時に変えられていくものなのだろうか・・・

やがて、並んで歩く4人に、分かれ道が訪れた。

「・・・じゃあな、青子・・・・・・・元気で・・・・・・・・・」
最後にくしゃっと頭を撫でた哲也の微笑みは、悲しみに満ちている様に思えた。
「うん・・・」
何だかこれっきり会えないかの様な別れの言葉に、青子の胸が痛んだ―・・・。

再び歩き出す哲也と時島の背中を見ながら、理由の分からない不安を感じていた。
「なあ・・・青子・・・・・・・おめー今も哲兄の事好きか?」
快斗の言葉に青子はすぐには言葉が出てこなかった。
「・・・大切だよ?だって・・・青子にとって血のつながったおにーちゃんみたいな存在だもん」

「じゃ・・・止めてやれよ」
「え?」
「おめーの大事な哲兄が、今あの時島さんの手にしてる煙草で誰かを殺そうとしてる・・・」
突然そんな事を言い出した快斗は、まるで知らない人の様だった。
「な・・・なんて事言うのよ!?おにーちゃんがそんな事するわけ・・・!」
反論する青子を制して、快斗が言葉を続けた。
「哲兄、お前が最初に声掛けた時、自販機から手を引っ込めただろ?・・・予め持ってた煙草とすり替えようとしてたとこだったんだよ、あれ」
他の誰かならいざ知らず、マジジャンの快斗の前でそれはごまかせるわけがなかった。
「・・・すり変える?・・・どうして・・・」
「な?煙草をすり替えるなんて、基本的に普通じゃ考えられない行動じゃないか?・・・それに、お前の知ってる哲兄は煙草なんて吸う奴だったか?」
「・・・・・・・」
「あの哲兄が大っ嫌いなはずの煙草を吸う様になって、手先が器用で小道具すら担当してる哲兄が、先輩の分の煙草を買う時に予め持っていた煙草にすり替えようとしていた。・・・盗まれた毒物の話が本当だとしたら・・・出せる答えは一つだよな」
青子の手から、鞄が落ちた。
「・・・・・・最初はおれも気のせいかと思ってたけど・・・決定的なのは、もうこれっきり会えないみたいな青子への態度・・・。火事の原因になった煙草をあんなに毛嫌いしてたのに、どうして『なんとなく』で吸うんだ?変じゃないか?・・・おそらく、あの煙草の中に、大学で盗まれたっていう毒物か何かを仕込んだ煙草が一個入ってるはずだ。クラブの先輩に頼まれていつも買出しに来てるんだったら、その先輩がどの銘柄のを吸うかなんて熟知してるだろうしな。」
「・・・・・・・・・・・おにーちゃ・・・」
「今ならまだ間に合う・・・止めてやれよ。」

快斗の言葉に背中を押され、青子は弾かれる様に、既に見えなくなっている哲也の背中を追いかけた。

呼吸する事すら忘れたかの様に、滲んだ景色の中をひたすらに哲也の背中を追いかける。

まるで小さい頃、哲也と行って迷子になったトロピカルランドの再現だ。
あの時も泣いてたっけ。心の中でおにーちゃんの名前を何度も叫んでたっけ。

あの時は周りにたくさん知らない人がいた。

―・・・今は?

・・・今は・・・・・・・・・・・・・・・

求めた背中が視界に映る。

あの時の様に、純粋な嬉しさは感じられない。

「おにーちゃんっ!!」

突然呼び止められ、哲也と時島は驚いて振り返った。
青子は、その時島の手から、煙草の入った袋をひったくる様に奪い取った。
「あ、青子ちゃんっ!?」
ビニール袋から勢いで飛び出した煙草が、道に散乱する。
「ど・・・どうしたの?」
時島の驚いた様子とは少し違った・・・顔色の悪い哲也の表情がそこにはあった。
何よりも、その表情が、快斗の語った言葉が真実であった事を物語っていた。
「お・・・・・・おにーちゃ・・・」
言葉が続かず、涙だけがただ零れ落ちる。

「・・・・・・・・・・・こいつか」
散乱した煙草を一つ拾い上げて、快斗はふと溜息を漏らした。

手にしたそれは、哲也がすり替えようとしていた銘柄の煙草だった。

封を切る為に巻かれたテープの淵には、それと知っていなければ分からない程の小さく、針の先程の注射器で開けた穴があった。

「・・・・哲兄・・・・・・悪い事言わねーから、やめとけよ・・・」
「・・・・・・・・・・・気がついてたのか・・・」
全てを見透かした快斗の言葉に、哲也も観念したかの様に苦笑している。

「犯罪なんて割に合わねーぜ?」

・・・キッドとしての自分が言えたセリフではないが・・・
快斗にも苦しそうな微笑みが浮かんだ。

「自分の未来まで捨てるわけにいかねーだろ?・・・ここに哲兄を大事に思ってる奴がいるんだから」

泣きじゃくる青子を苦しそうに見つめながら、哲也は快斗にそっと歩み寄る。
「・・・・・・・・・・・それ返してくれないか?」
哲也の言葉に、快斗は一瞬躊躇った。
「・・・これから警察に行ってくるから、それが証拠として必要なんだ・・・。」
「青木?」
「・・・俺、先輩の事を殺そうとしてたんだよ。」
そう告げる哲也に、時島は言葉を失った。
「・・・・・・青子と快斗君は知ってるんだけど、俺ん家、7年前に火事があってね・・・引っ越してきたんだ。黙ってたけど、安岡先輩と同郷なんだよ」
青子はビニール袋を固く握り締めた。
「火事は煙草が原因の不審火だったんだ。・・・俺の家の人間は誰も煙草は吸わない。」
「それと安岡先輩がどうつながるんだ・・・!?」
時島の言葉に、哲也はふっと溜息を漏らした。
「・・・当時隣の家に住んでたんだ・・・。そして、中学生だった彼が、時々家の裏に来てはこっそり煙草を吸ってるのを俺は何度も見かけていた―・・・」
「だからって・・・」
「そう、証拠はどこにも無い。・・・そう思ってた。・・・・・・大学が一緒だったのは偶然だが、映研に入ったのはあいつが周りに漏らしてた言葉を聞いたから・・・『俺は人を殺した事もあるんだぜ?』って言葉を・・・。俺の方はすぐ、昔隣に住んでたって思い出したんだが、・・・笑っちまうな、あいつは全然覚えてなくて・・・・・・俺たち一家がその後どこでどうしてるのかすらも知らないどころか、俺の名前すらも顔すらも覚えてなかったんだよ。・・・逆に好都合だったけどな。」
「哲兄・・・」
「・・・・・・最初は真実を知りたかっただけだった・・・。はっきりと殺意が芽生えたのは、あいつの口からその火事の事を聞き出した時だ。・・・火が広がるまで、少し時間に余裕があったんだ。その間にあいつが助けを求めてくれれば、さつきは・・・妹は助かった・・・。」
哲也の握りこぶしがぎりりと音を立てた。
「証拠がない以上、警察には手出しが出来ない・・・なら俺がさつきの無念を晴らしてやる・・・そう思ったんだ。」
「・・・人に人を裁く権利なんてどこにも無いんだよ、哲兄・・・」
快斗の言葉に、哲也は顔をあげた。
「自分の人生も終わりにしちまうつもりだったのかよ・・・」
「・・・・・・そうなっても構わなかった・・・未来と引き換えにしても・・・・・・・でも・・・」
・・・哲也の視線の先には青子がいた。
「・・・・・・・・・・青子に声を掛けられた時、正直どうしようか迷ったんだ・・・さつきが止めに来た様な気がしてさ」
「大事なものが何なのか分かってるんだったらやめりゃいいんだよ・・・」
「・・・そうだな・・・」
昔のままの笑顔の哲也に、快斗はふっと微笑みながら、煙草を手渡した―・・・。


「い〜つまで泣いてんだよ・・・」
呆れ気味の快斗の口調に、反論も出来ない状態で、青子はあれからぼんやりとしていた。。
哲也が警察に出頭するのを見送るまではぼろぼろと泣いて手がつけられなかった。・・・それがやっと収まったかと思ったら、今度はぼんやりとしているのだ。

これほど無反応な青子は初めてだった。

「良かったじゃねーか・・・哲兄が取り返しのつかない事になる前で・・・」
快斗の言葉が届いているのかいないのか・・・青子は真っ赤になった目で虚ろに川面を眺めている。
「青子・・・・・・?」
「時間が・・・・・・・・・・・・・経ったら変わっちゃうものなのかな・・・・・・・・・・・・・」
「え?」
「・・・・・・・・・・いつまでも変わらないでそばにいられると思ってるのは・・・甘えてるのは、青子だけだよね・・・」
「哲兄の事か?」
そう聞き返す快斗の表情は、青子には見られなかった。

・・・違う、快斗の事だよ・・・

それを言ってしまえば、今度こそ終わりになってしまう気がして、青子は押し黙った。

俗に言う、推理・・・という奴なのだろうか・・・
さっきまでの快斗は、青子の知っている快斗ではなかった。

快斗の姿を借りた別人がそこにいる様で、怖くなった。

このまま離れていくのかな・・・

青子の知らない快斗が増えて、段々距離が出来て、離れていくのかな・・・

「あのさ・・・変わらずにそばにいるってのは、ホントはお互いそばにいたいと思ってねーと成り立たねーと思うんだ」
「・・・?」
「つまり、お互いがそう思ってりゃ、いつまでだって変わらずにそばにいる事が出来るんじゃねーかって事・・・」
快斗の手が、ぽんぽんと青子の頭を叩いた。

頭に置かれた快斗の手にそっと触れる。
「うん・・・」

快斗にそばにいたいと思ってもらえる様な女の子になろう・・・

そう思いながら、また滲みかけた涙をそっと拭ったー・・・。