コーヒー
家に帰るなり、新一は事件の話を始めた。
新一は今朝の朝刊を持ってきて、蘭を椅子に座らせ、コーヒーを入れると自分も座った。
「これだ・・・米花公園で殺人・・・通り魔の犯行か・・・。・・・昨日の事故の事も載ってるな・・・。」
「え、ホント?・・・どれどれ?」
覗き込んだ蘭にも見えるように、新一は新聞をテーブルの上に広げた。
「・・・俺、あの現場見て引っかかる事がいくつもあったんだ・・・。俺の勘が正しければ、あれは・・・行きずりの犯行というよりは、計画的な殺人の可能性が極めて高い・・・。」
「引っかかる事?」
「ん、通り魔殺人がどんな状態なのかあまり経験がないから、はっきりとは・・・。でも、あれは被害者の女性の知り合いが犯人なんじゃないかな、って思ってさ。」
新一の言葉に、蘭が身を乗り出す。
「って、どうして?」
「うん、知らない奴がいきなり刃物持って現れたとしたら、被害者も逃げるか、あるいは抵抗するだろ?・・・でも、被害者の女性には、それを無理矢理押さえつけたような着衣の乱れや捕まえられた形跡もなかったんだ。土もついている様子はなかったし。知ってる奴が、・・・そうだな、あの傷痕からだと、こう・・・」
新一は、立ち上がると蘭の腰と背中に手を回した格好で抱き寄せる。
「前からこう抱き合った・・・後、返り血を浴びないように背後から頚動脈をぶつっと・・・。」
蘭の首筋にかかった髪の毛を、後ろにやる。
新一は思わず蘭の白い首筋に見とれた。思いがけず狙ったかのような、この体勢に新一は生唾を飲んだ。
心臓の音に頭の中がいっぱいになりながら、新一の手は蘭の首筋から顎へと移動していく。
「・・・・・・」
腕の中で蘭は新一の思惑に全く気がつく様子もない。
徐々に、蘭の顔へと新一の唇が近づいていく。
「・・・ぶつっと?」
中々発せられない新一の次の言葉を促そうと、蘭がきょとんとしながら、新一の顔を覗き込んだ。
「・・・・・・・・・・・・・」
殺人の方法なんか、話しながらする事じゃないか・・・。
新一は深くうなだれると、思いとどまって続けた。
「つまりぃ、蘭だって、よく知らない奴がこうやって抱き着いてきたら逃げるとかするだろ?被害者はそんな状態で刺されてるはずなのに、抵抗した形跡が全く無かったって事。」
少し惜しみながら、蘭から身体を離す。
「どうしてそんな事がわかるの?・・・背中から刺したって・・・。」
「傷の具合だよ。突き抜けてたしな。包丁なんかの形を思い浮かべてみな?切っ先の方が傷が小さくなるだろ?」
「あ、そっか・・・」
新一は事も無げに話す。
「じゃ、抱き合って殺したってのは?」
「・・・理由は三つ・・・かな?・・・刺し傷の状態もそうなんだけど、一つ目は死体がまだ温かかった事と、死後硬直が始まっていなかった点、二つ目はあれだけ人目につく場所での犯行で、あれだけの被害者の出血から見て、被害者を背後から刺したなら犯人は相当な返り血を浴びてるはずなのに、誰一人として怪しい人物を目撃していなかったという点・・・。返り血を浴びない方法はいくらでもあるだろうけど、そんな準備を誰が見ているか分からない、アベックだらけの公園でするわけにはいかないしな。この抱き合って背中から刺すのが一番手っ取り早いと思うんだけど。死体から血が勢いよく飛び出すのは、刺した時より抜いた時だしな。手から上腕まで何かで覆えば、ぱっと見は気付かれるほどの返り血は浴びないだろうし、・・・米花公園で、あの時間帯、あんな所でそういう方法をとったなら、遠目にはラブシーンにしか見えないしな。それから、三つ目は、被害者の座っていたベンチには、背もたれから座る所までべったり返り血がかかっていたんだ。犯人が後ろから刺したとしたら、どこかで血痕が途切れていたりしてもいいはずなんだけど。」
ケロリと話す新一に、蘭は感心していた。
新一は、今だけは殺人の方法より、鈍感な蘭にキスする方法の方が重大問題だった。
こんな事なら昨夜しておけばよかった。
後悔先に立たず、だ。
「でも、背もたれの後ろからでも刺せるんじゃない?」
蘭の言う事ももっともだ。だが、新一は自信満々に言い切る。
「・・・それはないだろうな。背もたれは立った大人の腰くらいの高さまでしかなかったからな。被害者の肩は立っている大人の上半身まであったし。後ろからなら、返り血を浴びない工夫をして近づく事もできるが、さっきも言ったように誰が見ているか分からないような公園の中だしな。・・・リスクが大きすぎる・・・。」
「じゃあ、あれは・・・殺人事件だったの?」
「・・・まあ、おそらくは・・・」新一は、コーヒーをずずっとすする。
「で、犯人にとってまずいもの・・・あるいは現場・・・犯人そのものを、お前が見ちゃった可能性がある・・・と。」
これはあくまで推測だがな、と新一は続けた。
「その、ぶつかった男って奴の手は見えたか?・・・右手だけど。」
蘭は必死にあの時の光景を思いだす。
「・・・ううん、暗くて・・・あ!違う、お腹を押さえてたから見えなかったんだ・・・」
「お腹?」
「うん、あの時は怪我でもしたのかなって思ってたんだけど、新一が来るなりいなくなっちゃったから・・・」
「顔は?」
「暗くてよく・・・」
「じゃあ、どうして男だって分かったんだ?」
「固かったの。お腹に顔が当たっちゃったんだけど、女の人のお腹って、あんなに固くならないと思ったから。」
固い・・・?
「蘭、ちょっと悪ぃ」
新一が、蘭の顔を抱きかかえるようにして自分の腹部に押し当てる。
「・・・こんな感じか?」
「ん・・・ちょっと違うみたい・・・もっと、固い感じだった。・・・でも、柔らかさもあったのよね・・・なんだっけ、どこかで知ってる感じなんだけど・・・。」
しばらく考えていたが、どうしても思い出せないといった蘭の様子に、新一は「思い出したらすぐ教えてくれ」と蘭の顔を抱いている手を解いた。
簡単に昼を済ませて、蘭は家の留守電に電話を入れた。
「お父さん・・・?わたし・・・。心配かけてごめんね、一週間くらい、こっちにいるから・・・。連絡先は・・・」
博士から借りた、イヤリング型携帯電話の番号を教えると、蘭は受話器を置いた。
コナンだったころの新一の気持ちが痛いほど分かる・・・。
ふぅっと溜め息をつくと、蘭は新一の姿を探して、書斎へ向かった。
「電話、すんだのか?」
新一が手を休めて蘭に聞いた。
「うん・・・」
「・・・そうか・・・」
新一はまた見ていたファイルに目を通し始めた。
「・・・何見てるの・・・?」
「ん、親父の過去の事件のファイル・・・。なんか参考になりそうなもんはないかと思って・・・」
脚立の上に腰掛けて、新一は膝の上でファイルをめくる。
その姿は、沈みかけた夕日に照らされて彫刻のようだった。
蘭は新一に見とれていた。
「ん?」
二人の目が合った。
「あ、悪ぃ、退屈しちゃったか・・・?」
「ううん・・・。ここ、相変わらず本がたくさんなのね・・・。」
「ああ、親父が集めたんだ・・・。ま、そのおかげで、小さい頃から俺も色々知識を得られたわけだけど?」
ふうん・・・と、蘭は下の方の本棚を見て歩く。
「ねえ、新一のおすすめは?」
「ん?・・・ホームズに決まってるだろ?・・・中でも四つの署名かな、お気に入りは・・・。」
「・・・どこ?」
「・・・今、そっちに行くよ・・・」
新一はファイルを持ったまま脚立を降りると、蘭の所までやってきた。
「ほら、これ・・・」新一はまっすぐにシャーロックホームズ全集の前に進み、四つの署名を手に取ると、蘭に手渡した。
「これ全部・・・で一つのお話だよね」
「そ、これは長編だからな。・・・他にホームズの長編は恐怖の谷とバスカヴィル家の犬・・・緋色の研究・・・」
「うん・・・読んだ事ある・・・。」
え・・・?
蘭が読んでいたとは意外だった。
あれだけホームズの話をすると嫌がってたのに・・・
「・・・新一がいなくなっちゃった頃にね、少しだけだけど・・・。新一が好きなものを知りたいと思ったの・・・。」
「蘭・・・」
「新一がホームズになりたいんなら、わたしは・・・アイリーンアドラーみたいに、ホームズに一目おかれるような存在になりたい・・・」
蘭のいじらしさに、新一はぎゅっと蘭を抱きしめた。
「・・・・・・」
鼓動が重なる・・・。
その瞬間、屋敷中にチャイムの音が響いた。
ま・・・また・・・
これで何度目の邪魔が入った事だろう・・・。
新一は、怒りを押さえながら、玄関のドアを開けた。
そこに立っていたのは、意外な人物・・・目暮と高木だった。
「目、目暮警部!?」
「やあ、お邪魔してもいいかね?・・・昨日の事件について、君の見解を聞きたくてね・・・。」
目暮の存在を蘭に知らせるように大声で目暮の名を呼びながら、新一は客間に二人を案内した。
「コーヒーでもいれますね。」
「ああ、ありがとう、・・・構わないでくれたまえ・・・。」
コーヒーを入れるついでに、蘭の所へ・・・
新一はそそくさと客間を離れて、蘭のいる書斎へと入った。
「蘭・・・、今、目暮警部が来てるんだ」
書斎では、蘭が四つの署名を読みかけていた所だった。
「うん、ここから出なければいいんでしょ?」
「・・・いや、お前一人残していくのは心配だし、一緒に来いよ」
「でも、そんなことしたら・・・」
「大丈夫だよ、変装してれば。ここに眼鏡があったはず・・・帽子で長い髪を隠して・・・これでどうだ?」
新一の薦めるままに鏡の前に立った姿は、なるほど、一目では蘭だとは気付かれないだろうといった姿だった。
「後は堂々としてればいい。・・・どっちにしろ、お前の証言も犯人を追いつめる上で大切なんだし。」
新一に手を引かれ、蘭は不安そうに客間に入った。
目暮だけでなく、高木もいる。
「昨日の子・・・かい?」
目暮は優しそうに微笑みかけて、挨拶をする。
「・・・親戚の子なんです。」
新一はコーヒーを置きながら蘭を紹介した。
「は・・・はじめまして・・・」
蘭は冷や汗ものだった。
新一は何ともないように話を続ける。
「お嬢ちゃん、名前は?」親しげに高木がたずねた。
しまった・・・急には思い付かない・・・
蘭の頭はパニック状態である。
「らん・・・ですよ。」
新一の言葉に、蘭は凍り付いた。
「古畑らん・・・父方の遠縁に当たるんです。」
「・・・へ〜・・・」
高木も目暮も蘭をまじまじと見ている。
「で?警部、どんな御用件です?」
新一の言葉に、二人ともたずねてきた理由を思い出したらしい。二人の目は蘭から外れて、新一へと集まった。
「それが・・・昨日の事件なんだがね・・・」
「まだ犯人が捕まっていないんですね?・・・そして、あの後被害に遭った人もいない。」
先に言いたい事を言われて、目暮は言葉につまった。
「ま、そういう事なんだがね。・・・どうだろう、ひとつ、力を貸してもらえないだろうか・・・」
低姿勢の目暮に、新一は快く申し出を引き受けた。
高木の説明に、新一も蘭も身を乗り出すようにして聞き入った。
「動機のある人間は、被害者の周りにいませんか?」
目暮と高木が顔を見合わせる。
「3人ほど・・・いるんだよ。被害者を恨んでた相手が・・・。」
おもむろに、手帳を取り出して、目暮は動機を持っていそうな相手の名を挙げていった。
「一人は、仁科めぐみさん・・・この人は、被害者に多額の借金があり、そのキツイ返済の取りたてに困っていたそうだ。」
新一は、あごに手をやり、考え込んでいる。
「もう一人は、狭山ゆかさん。被害者に婚約者を奪われたらしい。・・・同僚にもよく被害者を殺してやりたいと愚痴っていたそうだ。」
「・・・・・・」
「そして、最後に米山康平さん。彼は、被害者に婚約を解消され、相当腹を立てていたと思われる。」
動機はあるけれど、三人ともアリバイはない。
新一は、蘭がぶつかったという男を特定するつもりで、目暮に写真の提示を求めた。
「写真?」
目暮もいぶかしんでいたが、蘭が事件当日のあの時間に不審な男とぶつかっている事を話すと、テーブルに写真を並べて、蘭に見せる。
「・・・・・・」
蘭の視線に、目暮達も集中する。
「・・・みんな違うみたい・・・」
は〜っと失意の溜め息がもれ、目暮はどさっと後ろのソファの背に倒れこんだ。
「被害者の周りをもう一度洗い直すか・・・」
捜査は一から出直しである。
「目暮警部、どうして被害者は米山康平さんとの婚約を解消したんですか?」
新一の問いに、目暮は呆れ返るように話す。
「なんでも、あなたより好きな人ができたのと言って、電話で一方的に解消されたらしいよ。わし達には考えられん事だがね?」
なるほど、警部には理解できないだろうな・・・と新一は苦笑した。
「で、今の恋人は・・・」
「一流会社のエリートだそうだ。」
「その人の写真・・・とか、あります?」
蘭がたずねた。
えっ・・・と目暮も高木も驚いている。
「らんちゃんまで、そういう男に興味があるのかね?・・・だめだよ?そういう風にしか見られない大人になっちゃ・・・」
目暮が蘭の頭を撫でくりまわしながら、笑顔で説教をする。
新一は笑いをこらえるのに必死だ。
「僕も見てみたいですね。・・・男に興味はありませんけど。」
笑いながらの新一の言葉に、目暮は明日被害者の葬儀で直接会える事を話してくれた。
「残念ながら、写真はないんでね・・・。」
お邪魔したね、と出て行く目暮の後をついていきながら、高木はじっと蘭を見つめていた。
玄関を出る直前、高木は蘭の方に向き直り、ひざまづいて蘭の目線に自分の高さを合わせた。
「?」
きょとんとする蘭の表情を見て、にこっと微笑む。
「ああ、やっぱり・・・誰かに似てると思ったんだ。・・・蘭さんに似てるんだ、毛利さんとこの。」
新一と蘭の顔から血の気が引いていく。
「・・・ねえ、工藤君、本当の事を話してくれるかい?」
動揺を隠して、新一は勤めて冷静に聞き返す。
「何を・・・ですか?」
「この子、本当は・・・君と蘭さんの隠し子・・・って事はないよね・・・?」
蘭も新一も目が点になってしまった。
そして、次の瞬間、
「そんなわけないでしょー!!」
見事にハモって二人で否定する。
「・・・だよね、早すぎるもんなぁ・・・」
高木刑事は見当はずれの推理をしたせいか、照れ笑いしながら、目暮の後を追った。
「9歳のガキが子ども作れるかっての!」
真っ赤になってぶつくさ言う新一に、蘭は事情をよく飲み込めずにいた。