雨宿り


音も無く、満たす様な霧の雨。潤うくすんだ灰色の風景の中で、小さな赤い傘が探偵事務所の前に佇む。

先ほどから変わらないその光景。雨宿り・・・でも無いだろうに、と覗き込むと、ほんの少しだけ傘が持ち上がって。あれ、と思った。覗かせたのは、頬のラインまでだけれど。少し心細気なその口元は、知っている人のそれだった。


相談事・・・かな・・・。

少し身を乗り出した所で、赤い傘はまた俯いて。吹っ切った様に、くん、と小さく頷いて建物の中へと入った。

幸いなのかどうなのか、今ここにはオレ一人だ。
歩美は別に今日でなくても構わないと言ったのに、「雨でも晴れでも先方が待ってる事に違いはありません。」と言い切ってお使いに出てしまっている。

コナンとの事で何か相談したい事でもあるのだろうか・・・

オレにだけ話があるとしたのなら、家ではなく事務所に来たのも頷ける。
最近、何を思ってなのか、コナンは以前程には彼女の事を話さなくなった。ケンカでもしたのだろうか。それとも気持ちが離れたのだろうか。蘭にそう聞けば、バカね、と笑われた。

蘭は、彼女に会った事はまだ無い。けれど、オレ以上に彼女の気持ちが分かるらしい。コナンから得ている情報は確かに蘭の方が多いかとは思うが、それ程変わらないはずなのに。どうしてなのかと聞いても、笑って教えてはくれない。

ふ、と深い溜息を吐いた辺りで、遠慮がちにドアを叩く音が、空っぽの探偵事務所に響いた。どうぞ、とドアを開けて彼女を迎え入れると、彼女は不思議そうな表情でオレの顔をじっと見た。

「何?」
「あ・・・いえ、突然お邪魔したのに・・・」
びっくりされなかったから、と続く様な気がして切れた。
「ああ・・・」
ぷっと思わず吹き出してしまった。ホームズの所に訪れた依頼人も、こんな感じだったのかもしれない。けれど、目の前の小さな貴婦人を驚かせても何もならないから。正直に「窓から外を眺めてたんだ。」とそう告げると、彼女はくすっと笑った。コナンが何か悪戯をした時も、彼女はこんな風に笑うのだろうか、といった表情だった。

あの、と差し出されたのは白い箱で、手渡された重みに「これは?」と訊ねると、「あ」と少し頬を染めながら伏目がちに彼女は答えに詰まったが、優しく香る美味しそうな匂いがその中身を教えてくれている。
「・・・レモンパイ?」
ソファを勧められながら、少し躊躇って、彼女は言葉を繋げた。
「工藤君から好きだって聞いて・・・置いてあるお店を探したんですけれど、なかなか見つからなくて・・・私が焼いたので、お口に合うかどうか分かりませんけど・・・」
さっさと箱を開けてぱくっと一欠けらを口に放り込む。「美味い!」と決してお世辞ではない一言を口にすると、彼女はくすくすと笑い始めた。

・・・・・・・・・あれ・・・・・・?

考えるより先に伸びたオレの右手が前髪に触れると、彼女は驚いてそっと顔を上げた。その瞬間、コナンとの会話を思い出した。


あれはこの子とオレが会ったそのすぐ後だった。灰原に似てるというオレの言葉に、コナンは不思議そうに首を傾げていた。
「・・・そう?」
「・・・オレは似てると思ったけどな。」
そういえば、お前はちゃんと灰原の顔を見た事は無かったか?と聞けば、父さんの写真に写ってたのを何枚も見てるよ、とコナンは小さく溜息を吐きながら答えた。

「ふーん、でも・・・父さんには、藍ちゃんがそう見えたんだ・・・」

それは少し嬉しそうに。でも、表面上はそれを隠した。そんな響きがあった。だから「違うのか?」と訊ねたのだが、「もっとよく似た人を知ってるから」と、お茶を濁す様にはぐらかされたのだ。・・・もっとも、それも今となってはある意味では正しかったのだと分かったのだが。


ああ・・・そうか、あのコナンの言葉はこういう意味だったのか、と無防備な彼女を目の当たりにしてやっと気がついた。

「あ・・・あの・・・?」
「あ・・・・・・」
「何か・・・?」
「ああ・・・、・・・えーと、・・・折角笑ってんのによく見えないなー・・・なんて・・・」
「・・・切った方が良いですか?」
「あ、いや別にそういう意味じゃ無くて・・・ただ・・・・・」
「ただ?」
「・・・よく見たいと思ったんだ・・・」
ああ、と。「こうですか?」と前髪をオレの指先の入った部分から両手で少し分けて見せた。

はらりと落ちる前髪の隙間から覗かせる、その笑顔は暖かで、柔らかで。少し染まった頬が、まだどこか恥ずかしそうだけれど。これは間違いなく―・・・

浮いていた腰を下ろすと、ソファの向こうで彼女が少し首を傾げた。前回会った時より格段に柔らかなその表情で。

「・・・何か・・・・・・あったの・・・?」
「え?」
コナンと、と言ってしまって、しまった、と思った。コナンが彼女の事をどう思っているのかなんて、誰から見たって明らかだけれど。彼女の方はそれを知らない可能性だってあるのだから。
「工藤君とですか?」
ああ、最近コナンとはゆっくり話してないから、と何とか誤魔化そうと言葉を濁すと、彼女は微笑みながら「変わりないですよ」と答えた。
「・・・工藤君は柔らかい人だから。」
「柔らかい?」
それはまた、初めて聞くコナンに対しての形容だよな、と言葉を繰り返す。家でオレと互角にやりあうコナンも、彼女には猫を被ってるのだろうか、と。
「・・・ケンカにならないんですよ、私が何を言っても、包み込んでしまうから。」

「藍ちゃんてさ、ケガした子犬みたいなトコがあるんだ。」
以前そう表現した時のコナンの甘く綻んだ笑顔に、ああ、余程大切にしているだと感じてはいたけれど。あいつなりに彼女を包み込んでその傷を癒そうとしているのだろう。

「いつか・・・彼に本音で接してもらえる様になりたいと思ってます・・・」
「・・・・・・・・・少し見ない間に変わったね・・・」
「え?」
「うん。あ・・・コナンにもう言われてるんだろうけど。」
「いえ・・・工藤君は何も・・・あ、でも、お父さんが・・・」

途切れた言葉。

「・・・あ、あの・・・今日はその事で伺ったんです・・・・・・」

真っ赤に染まった頬。落とされた、視線。

「お父さんが・・・・・・・笑ってくれました・・・」

ただそれだけの事なんですけれど、お仕事中なのにお邪魔してしまってすいません、と所々詰まりながらたどたどしく流れる言葉。一通り流れた後で、彼女の口から、はふ、と固く目を閉じながら溜息が漏れた。

「たったそれだけの事ですけれど嬉しくて・・・・・・。工藤君のお父さんに御礼を言いたかったんです・・・。」
どうして、と訊ねると、彼女は「お父さんの味方をしてくれたから」と恥ずかしそうに俯いて、そう呟いた。

もしかしたら、彼女の父親の最大の味方は、コナンだったのかもしれない。そして、誰より、彼女の味方。

深い悲しみの淵で凍りついた心を、時間をかけて慈しむ様に大切に大切に溶かしてきたんじゃないだろうか。その昔、オレがその人にそうした様に。


ああ、とあの日の泣き顔が重なる。

見つけたんだ・・・

彼女は、・・・まだその姿をしっかりとではないけれど、求めていたそれを、その小さな両手に掴みかけているのだ。

「・・・良かったな・・・」
そう呟いて、頭に載せられた手のひらに、彼女は「はい」と明るく微笑んだ。


20年も昔の面影。


雨はいつしか止んでいた。