The scent of vanilla


「はぁ〜あ・・・・・・・」

それは朝から何度めかの不満いっぱいの溜息だった。
もっとも、彼女の場合、この世界情勢を嘆いているだとか、景気の動向に頭悩ませているだとか、今日の晩御飯は何にしよう、といった類の溜息ではない事は、この鈴木財閥の豪邸の内装も声高に物語っているので分かっていただける事だろう。
園子の場合、別に取り立ててどうこう不満のタネがあるワケじゃなく。端的に言ってしまえば、『暇を持て余しすぎて退屈』である事が不満だった。
せめて学校が始まってしまえば、いつだって蘭をからかったりして遊べるのになー、とかいう不謹慎な呟きを、この夏休みに入ってから一体何度しただろう。

鈴木財閥のお嬢様はとても退屈していた。

数日前のエッグ騒動でキッドをゲット出来てればこーんな退屈しなくて済んだのに、などと、どこかの怪盗さんが聞いたら一笑に伏されるか眉間に皺を寄せるかのどちらかだろうといった不満を、午前中に鈴木会長の秘書である西野氏に聞かれて。それが良家の子女の発言ですか、と思い切り深い溜息を吐かれたので、午後からはそっちに不満を漏らさない様にと、園子なりの配慮はしていたのだが・・・。どちらにしてもあまり代わりは無かった。

・・・まあ、目の前に積まれた夏休みの課題が一時退屈を忘れさせてくれる事は分かっていたのだが。あえてそれをするつもりになれないのも園子さんの園子さんらしい所だった。

だから、園子の携帯に蘭から電話が掛かってきた瞬間、慌てて飛び起きて電話を取って。その内容に思わずがっくりしてしまったのだ。

「キッチン〜〜〜〜〜?」
「そうなの、ちょっとだけ使わせてもらえないかなーって・・・オーブン無いし、家・・・」
「・・・いいけど何作るつもりなの?」
ちょっと間が空いてから、電話の向こうの親友は、ケーキ、と遠慮がちに囁いた。

はは〜ん、さては新一君にだな?
こういった話題がとかく好きといった園子のアンテナがぴくりと動く。

「・・・帰ってきてるの?」
意図的に含んだ言葉に相手の出方を伺ってみる。
「・・・まだよ。あ、でも夕方には帰ってくるはずだから、それまでには間に合わせたいの。ね、園子、お願い」
「・・・そういえばおじさんは居ないの?」
「お父さんなら今夜は同級生と飲み明かすから帰ってこないって」

ははーん・・・新一君はおじさんの不在を狙って帰ってくるワケね・・・

「そんな事より、園子〜・・・もう生地まで作っちゃったのよ、お願い・・・」
「はーいはい。そーんな情けない声出さないの。いいよ、キッチン貸してあげるから。あ、そうだ。ついでに数学の課題と―・・・あと英語もか、もってきて?」
ちゃっかりしている、という電話の向こうの声はこの際聞こえなかったものとして、とりあえず今日の予定はついた、と園子はほくそえんでいた。


大きな紙袋を手にして訪れた蘭は、屋敷の中に入ると、外とはうって変わったその涼しさに、ほっと声をあげた。
通されたキッチンのテーブルに、その紙袋の中身を取り出すと、中身の無事を確かめた。その動作から、その微笑みから・・・それがとても大切な物だと分かるくらい、優しく扱って。園子の、コーヒーにするか、紅茶にするか、という問いも届かなかった様だった。
「・・・やっぱりダンナへの愛を込めた手作りって。作ってるその表情からして違うわねー」
に、と笑いながら園子がそう冷やかすと、蘭は「えっ?」と聞き返した。・・・真顔で。
「・・・え、新一君に、じゃ・・・ない、の?」
「・・・・・・どうして新一なの?」
「だって・・・そんなに大切そうに・・・」
「・・・?」

とぼけてるワケじゃない、とさすがに園子にも分かったー・・・。そう、本気で蘭は不思議がっているのだ。
「・・・まさか浮気!?」
「ちょっと、園子っ!・・・どこがどうして浮気になるのよ!」
大体、私と新一は別につきあってるとかそういう仲じゃないんだからね、と。周囲から見れば今更何言ってるんだか、この二人のどこをどう見て付き合ってないだなんて言えるのだろうかという、今や本人達しか口にしないお決まりの台詞が続いた後、「で?どうして新一になの?」とやっと会話が繋がった。

「・・・帰ってきてるの?って電話で聞いたでしょ?」
「・・・・・・うん」
「・・・蘭に一人称でそう聞けば、絶対に新一君の事で返事するだろうと・・・」
「コナン君よ、コナン君!」
ちょっとムッとした様子で声を荒げた蘭は、すぐにしゅんとして・・・「そんなに私、新一しか見えてない様に見える・・・?」と聞いてきた。いつもなら、当たり前じゃない、と園子も笑ってしまう所だけど。・・・笑ってしまえない様な影が、蘭の表情を覆って見えた。

「・・・あのね、コナン君の誕生日・・・」
「うん?」
「・・・・・・新一と一緒だったの」
「え?・・・あ、ああ、そういえば新一君も5月だっけ」
園子からしてみれば、つい最近聞いたばかりのコナンの誕生日の方が鮮明に記憶に留まっているのだろう。だが、新一の誕生日だって、『蘭と買い物の予定が入っている日』の翌日程度にしかインプットされていない。園子からはその程度の事なのだから致し方ないだろう。

「でね・・・どうして教えてくれなかったのかなーって。・・・園子、子どもの頃誕生日って嬉しくなかった?」
園子が「そりゃあね」という返答を返すと蘭の視線が床に落ちた。

「・・・コナン君ね、その日誰にもお祝いしてもらってないの・・・」

私ったら、バカよね、気がつかなかったの、きっと寂しそうにしてたんだろうけど、新一の誕生日だってそればかりでいっぱいで、きっとコナン君、それで言いそびれちゃったんだわ、と。ひとしきり自分を責め立てる言葉を吐き続けて、息が切れた辺りでふと途切れた。

「・・・そんなの言わなくちゃ分かんないモンでしょ?」
「うん・・・それはそうなんだけど、言えない状況に私がしちゃってた、って言うか・・・気付いてあげられなかったのよ」
コナン君の様子に気付いていれば、聞けばきっと答えてくれた、と。また自分で自分を沈めていく。ああ、蘭は人が良すぎるから・・・放っといたらどこまでもどこまでも自分を責めてしまうに違いない、と園子が口を挟もうとした瞬間、蘭がぱっと顔を上げた。

「・・・でね、今からじゃ遅いかもしれないけど・・・せめて、ケーキでもと思ったの」

それは何かをふっきれた様な・・・台風の中心で思いがけず、真っ青な空を見た様な、そんな感じだった。

「・・・でもね、夕方には帰って来るって言ってたから、それまでに間に合わせなくちゃってそればっかり気になってて・・・オーブンで焼くっていうのすっかり」
そんな蘭に水を差す様で悪いのだが、と思いつつ、他の誰かに後で指摘されて蘭が落ち込む事になりかねないとも思い、園子がおずおずとそれを口にした。
「・・・・・・・こういうのってさ、普通来年とかにしない?去年の分まで盛大に―・・・ってさ」
「・・・やっぱり変かな・・・」
「3ヶ月、・・・や、月の頭だから4ヶ月か・・・随分経ってるしね・・・」

園子の言葉に少し困った様な表情を見せながら・・・ほんの少しの沈黙の後、蘭は「だって」と小さく呟いた。

「だって、いつも一緒に居られるとか・・・来年も一緒にいられるとか・・・限らないもの・・・」

それは、新一によってもたらされた不安だった。それを受け止めて、優しく包んでくれるコナンも、確実にずっとずっと傍に居られると信じていて大丈夫とはとても思えなかった。


「・・・とにかくね、『あの時にああしておけば良かった―・・・』っていう後悔を、コナン君にはしたくないって思って・・・」


そう言って。強くなりたいの、と微笑む。
『誰かにそんな後悔した事あるの?』と一瞬聞いてしまいそうになったけれど。分かる・・・。それはきっと、新一君の事を指しているのだと、口にされなくても分かった。
何かを見据える蘭は、十分強い・・・と園子は思った。
「・・・そっか。」
「うん」
「・・・何か手伝おうか?」
「生地はもう出来ちゃってて・・・あとは焼くだけなの。持ち帰るのが大変だから、飾りつけは家でするつもりだし」
料理長から聞いたオーブンの使い方を説明してもらい、蘭は生地の流し込まれた型をオーブンに入れる準備を始めた。


・・・こんなので喜んでくれるかなあ、コナン君、大人びてるし、こういうのってやっぱり子どもっぽいかなあと不安そうな声を漏らしながら。


きっと・・・あのおちびちゃんなら、蘭が自分の事をそういう風に気にかけているのだと。大切にしているのだと・・・分かるだろう。

惜しげもなく注がれた優しさに、ほんの少し隠された愛情にも似たものを感じ取る事は不可能に近いだろうけれど。でもきっと、あの子なら、それで十分過ぎる程の暖かさ。

そして、・・・喜ぶのだ、きっと。心の底から、自分には見せた事も無い様な笑顔で。


「なんか・・・いいなあ・・・」



え?と振り返った蘭には何がいいのか分からず・・・視線を手元のケーキの型に移して、これ?と聞いた。
思わず言ってやりたくなった。

あの子に対する蘭の気持ちと。あの子が向ける蘭への気持ちが羨ましいのだ、と。

「・・・園子サマの時にはガトーショコラを御馳走するように」と言い置いて。


今日の所は新一君の恋敵のしあわせを邪魔しないであげよう、と―・・・。心を鎖で縛り付ける様に必死に我慢した園子さんだった―。





1時間後、蘭の携帯を本人の目の前で半ば勝手に使って、「蘭ったら年下の彼氏と今夜は一晩中デートだって嬉しそうに話してたよー By園子」という人騒がせなメールを、そうとは知らずに工藤新一・・・江戸川コナン本人に送るまでは。








あとがき
これ、ホントに書きたかった場面とはまったく違ってしまってますけど^^;大体、「プレゼント」ですらありませんし(笑)
コナン君サイドと蘭ちゃんサイドで書き進んでその場面を書こうとしていたのですが、どうしても長くなってしまうので。

あ、そうそう、表題の「The scent of vanilla」は「バニラの匂い」という意味です^^;
お菓子作りによく使う、バニラエッセンス級の甘い匂いが立ち込めてますって事で。あう。

・・・でも舐めると、その匂いからは想像できない味でしたよーバニラエッセンスって(試したのかっ(^^;))