師匠が歩んだ芸道
師匠の本や噺のまくらなどから集めてきた、師匠の年譜です。
1939年 8月13日 神戸市中区中郷町2−3にて誕生。本名「前田 達」、
父は「前田 武男」ブリキ屋を営む。母は「前田 ますえ」
1945年 6月10日 神戸大空襲により被災。父の故郷・鳥取県倉吉へ転居
1946年 4月 倉吉の明倫小学校入学
5月 兵庫県伊丹市へ転居。神津国民学校へ転校
1952年 4月 伊丹市立北中学校入学
1954年 7月7日 父・武男死去
1955年 4月 中学卒業。三菱電機伊丹製作所に養成工として就職。伊丹高校定時制に入学
このころから、弟の武司(後ののマジカルたけし)と、漫才で素人参加番組に出演し始める
恩師の森本先生を通じて、桂米朝を知る
1957年 三菱電機を退社。県立伊丹高校の給仕をしながら、賞金稼ぎ稼業をする
1960年 4月 神戸大学文学部入学
1961年 4月1日 3月で大学を中退し、桂米朝に入門。二代目桂小米として内弟子修行を始める
1962年 4月 千日劇場で初舞台
1963年 3月 内弟子卒業
1965年 10月9日 「お笑いとんち袋」(関西テレビ)で初レギュラー
1967年 4月15日 「ポップ対歌謡曲」(朝日放送ラジオ)にレギュラー出演
1968年 11月9日 「大阪オールナイト・叫べヤングら」(ラジオ大阪)の土曜日にレギュラー出演
1969年 7月15日 日立ホールにて「第一回小米・春朝二人会」
1970年 3月3日 一番弟子・桂べかこ入門(現 桂南光)
4月10日 「ヒットでヒット、バチョンと行こう」(ラジオ大阪)の金曜日に吾妻ひな子とレギュラー出演
10月15日 前山志代子(ジョーサンズの良子)と道頓堀・自安寺で結婚
1971年 3月 二番弟子・桂雀三郎入門
5月26日 伊丹の杜若寺で「小米の会」を開始
11月11日 ABCホールで「1080分落語会」に出演。三席演じてふらふらに
1972年 3月3日 長男「前田一知」誕生
1973年 2月1日 角座上席の出演を降りる。「死ぬのが怖い病」で病院にて治療を受ける
10月1日 二代目桂枝雀を襲名。四代目桂福団治と共に道頓堀角座で襲名披露
1974年 1月 初のレコード「桂枝雀 上方落語傑作集」を発売
3月 「枝雀独演会」(朝日生命ホール)
1975年 2月14日 「第一回 枝雀 朝丸兄弟会」(京都府立文化芸術会館)開催
3月 三番弟子・桂雀松入門
3月 「小倉船」で「昭和49年度大阪府民劇場賞」を受賞
1976年 5月1日 第一回「桂枝雀独演会」(サンケイホール)開催
1977年 2月4日 「枝雀の会」(北御堂)開始
3月17日 次男「前田一史」誕生
6月 四番弟子・桂雀々入門
12月 「上方お笑い大賞・金賞」を受賞
1978年 10月3日 「桂枝雀の古里人間話」(毎日放送ラジオ)開始
1979年 3月 五番弟子・桂九雀、六番弟子・桂雀司(現 桂文我)入門
9月30日 「枝雀寄席」(朝日放送テレビ)開始
1980年 12月 「上方お笑い大賞・大賞」を受賞
1981年 1月 七番弟子・桂む雀入門
2月 「第12回ゴールデンアロー賞・芸能賞」を受賞
3月 「昭和55年度大阪府民劇場賞」を受賞
9月10日 「まるくまぁるく桂枝雀」出版
10月1日〜7日 「枝雀十八番」(サンケイホール)6日間連続独演会を開催
10月14日 「なにわの源蔵事件帳」(NHKテレビ)に主演
1982年 4月17日 「浪速なんでも・三枝と枝雀」(朝日放送テレビ)開始
1983年 4月10日 「笑いころげてたっぷり枝雀」(毎日放送テレビ)開始
6月3日 「まるく笑って落語DE枝雀」出版
1984年 3月28日 「第一回 桂枝雀独演会」(東京歌舞伎座) 落語会では空前のカーテンコール(演目は「地獄八景亡者戯」)
1985年 6月7日 「桂枝雀フリー落語の会」(御堂会館)開始
7月6日 「第一回 桂枝雀英語落語会」(テイジンホール)開催
9月30日〜10月5日 「再び枝雀十八番」(サンケイホール)
1986年 9月3日〜27日 「好色一代男〜おらんだ西鶴〜」(東京・新橋演舞場)で片岡孝夫(現 仁左衛門)と共演
1987年 4月28日〜30日 「枝雀三夜」(東京歌舞伎座)開催
6月 ハワイ・ロサンゼルス・カナダで初の英語落語海外公演
1988年 6月 シカゴで英語落語公演
7月 オーストラリアで英語落語公演
12月5日 「桂枝雀のいけいけ枝雀機嫌良く」(毎日出版社)出版
1989年 3月12日〜17日 「オールナイトライブ枝雀」(朝日放送ラジオ)放送
10月27日 「枝雀とヨメはんと七人の弟子」(飛鳥新社出版)出版
1993年 1月1日 NHKドラマ「乳の虎〜良寛ひとり遊び〜」に主演
4月16日〜 相愛大学人文学部日本文化学科「日本文化特殊講義U」の非常勤講師を一年間担当
1994年 10月22日〜29日 落語芝居「変身」(一心寺シアター)に主演
1995年 1月30日 NHKドラマ「この指とまれ」に出演
9月 八番弟子・桂紅雀入門
1996年 10月4日〜27日 「おのぶの嫁入り」(京都南座)に出演
10月7日〜 NHKドラマ「ふたりっ子」に出演
1997年 6月2日〜25日 「米朝一門勢揃い!新・次郎長物語 海道一の男たち」(京都南座)に出演
10月7日〜 NHKドラマ「この指とまれ2」に出演
1998年 7月26日 「枝雀寄席」(朝日放送テレビ)の8月分収録で「どうらんの幸助」を演じる
1999年 3月13日 大阪府豊中市桃山台の自宅で、首を吊って自殺を図る
4月19日午前3時1分 心不全のため逝去
スポーツの世界でも、芸能の世界でも、広く捉えるとビジネスの世界においても、その道を極めた人の足跡を見ると、流れが見つかります。
枝雀を襲名してからをみると、襲名直後の1973年から1975年頃までの間は、笑いの追求に全力投球していた時期。
1976年から1985年頃までの10年間は、大爆笑王としての師匠らしさがその噺に定着してくる時期。
この時期に、話で笑わせるだけでなく、見せて笑わせる落語に変貌を遂げていきます。
1986年から1994年頃までが、お客を爆笑させると同時に師匠自身も楽しんでしまうという境地に入った時期。と言えるのではないでしょうか?
血圧の問題がなければ、これ以降は師匠が目指していた「黙って座ってニコニコしているだけでお客さんがお笑いになる」状態に近づいたに違いありません 。
NHKで放送された番組「夢のようなうつつのような」で、師匠は「宿替え」の中で、胴くくりをかけるのを忘れてしまいます。こんなときどう処理するか、
この時は「間違えてしまった。」という気持ちが出てしまっています。あと少しすれば、間違えてもそれを笑いにしてしまうことができたのかもしれません。
手元に「宿替え」の音源が3本あります。演じられた時期が違うこれら3本を比較することで、師匠の芸風の変化がわかります。
まず、1981年10月1日 大阪サンケイホールでの「枝雀十八番」でのものです。
初の6日間連続興業の初日、しかも一番に演じたわけですから、師匠やや緊張しています。
・全体に語り口が早く、テンポが良いが、ためがない。
・まくらがあっさりしていて、すぐ本題に入っている。
・荷造りの場面で、おかみさんに対する気遣いがほとんど見られない。
・映像でないので分かりにくいが、荷物を担ぐ際の仕草はさほどオーバーでない様子が、客席の反応から感じられる。(つまりさほどビジュアルではない)
・ヨシにこないだ会った?(これは言い間違い)
・親父を前の家の二階に忘れてきたくだりがある。
話の面白さに集中した語りです。顔の表情や仕草はおそらくオーバーではなかった様子です。
次に、1984年3月5日 徳島県郷土文化会館でのものです。
・かなりためが出来てきている。話し方も声の高さを変えたり、舌を回したりして、バリエーションが出てきている。
・まくらの前の導入部分があり、そしてまくらでしっかり笑いをとっている。
・荷造りの場面で、おかみさんを気遣う場面がある。「足元気ぃつけぇ、足元気ぃつけぇ」
・風呂敷をくくったり、胴括りをかけたりするところは少しオーバーになった。担ぐところはまだオーバーではない様子。
・釘を打ち込んでしまったのを見つけるおかみさん、見つけたときの仕草がオーバーになっている様子。
・親父を前の家の二階に忘れてきたくだりあり。腰をガチャガチャ、というギャグで笑わせている。
しょっちゅう喧嘩しているが、心の中では相手に思いやりがある夫婦。という設定になりました。
顔の表情・仕草・オーバーアクションなど、いわゆる枝雀落語らしさが出てきています。
師匠もかなり意識して色々な仕草を投入して、ビジュアル化を図っていた時期でしょう。
最後に、1994年12月25日 東京鈴本演芸場での「宿替え」です。
・ためる部分と、テンポよく進める部分に分かれている。笑わせる部分の声や仕草がかなりオーバー になった。
・まくらは以前よりあっさりした。「宿替え」という言葉の説明に力点を置いている。(東京での公演だからでしょうか?)
・荷造りの場面、おとうさんと言っている。「そこまで来たら、おとうさんに任せなさい」
・稲荷さんと天神さんのくだりが詳しくなった。師匠の宗教観でしょうか?「神さんも仏さんもそんなに心の狭い方じゃないよ」
・胴ぐくりをかけるところで飛んだり跳ねたり、担ぐところ、相当オーバーに演じている。
・胴ぐくりが敷居を一緒にくくっているのを見つけたおかみさんの顔の表情と、「あほっ」までの間が絶妙。
・前半はおとうさんの方が強く、後半はうって変わっておかみさんの方が強い様に演じている。
・男女同権に対する師匠の考え方が加わった。「男は男の仕事をし、女は女の仕事をする。それが男女同権というものです」
・打ち込んだ釘を発見するおかみさん。その前に相当な間と仕草で引っ張っている。(緊張と緩和による笑いを演じている)
・親父は登場しない。「毎日ここまで箒を掛けにこんならん」で下げている。
噺全体が、あたかもテレビドラマのように、登場人物同士の関係から、その時々の心理状態まで精密に仕上がっています。
有名な「笑いは緊張と緩和によって起こるもの」ということを所々に織り込み、大爆笑を誘っています。
大爆笑させようと思えばそのように、少し笑わせようと思えばそのように、状況に合わせて演じ分けられる域に達していると思います。
TVを意識したビジュアル化の完成と、噺の解釈、そして積み重ねた稽古による「不世出の名人芸」です。