英語との出会い
英語と出会ったのは、小学校六年生の時。英語の歌が好きだった母親の勧めで、近所の英語塾に行ったのが最初です。
33年前ですから、今の塾とは様子がかなり違いました。いわゆる寺子屋方式というやつで、2時間ぐらい畳に正座して、先生の読む英語をオウム返しに繰り返すという方法でした。
"I am Tom. You are Susie.""Ai Amu Tomu. Yu a- Suuzii." 発音は声が大きければ褒められる。文法と綴りはきっちりと鍛えられました。小京都の一つに数えられる静かな市で大きくなった私には、英語を習うのは少し刺激的でワクワクしました。
成績優秀
中学校では、小学校時代の塾通いの貯えで成績優秀でした。英語クラブに所属し、文化祭で英語劇の主役を務めました。
英語の先生も熱心な方が多く、色々な角度から指導してもらいました。「ええか、Dogの発音はな、ドッグではにゃぁ。ドよりはダに近ゃあ。ダァグ」 お判りのように、中学校は名古屋でした。30年前にはまだ、名古屋弁が幅を利かせていたのです。
ビートルズに目覚め、全曲空で歌えるまで聞き込んだこともあり、自分の喋る言葉が英語では無いということに気がつきました。3年の時のクラスに、おそろしく発音の良い女の子がいました。今から思えば帰国子女だったのでしょう。ひそかに「かっこいいなぁ」と思っていました。
低迷期
高校にはいると、環境が一変しました。英語の先生というよりは、英文学者、英文法学者というタイプの先生が多くなりました。 「ピップ、フーズファーザーワズアフェイマスプレイヤーオブバァリボォ、ビガンツゥウォークザセイムウェイアズヒズファーザーディド」「ピップはね、彼のおとうさんがバレーボールの有名な選手だったからね、お父さんがしてきたことと同じ道を歩み始めたんや。」 「この文ではな、ザセイムウェイアズっちゅうのを覚えときいや」 高校は三重県のT高校でした。日本一名前が短い高校です。
中学の頃に、本物の英語とは何か、少し分かり始めていましたから、この授業についていく気がしませんでした。単位が取れる程度に出席して、ビートルズとジョン・レノンに傾倒する日々でした。英語のポルノにも目覚め、英語では、いくことをComingと言うことを覚えたりしていました。
長いブランク
京都のD大学に在学中は、アルバイトに思いっきり精を出しました。アルバイトでお金を稼いでは、愛車シビックで遠距離ドライブに行くという4年間でした。
M社に就職後も、最初の5年間はとても忙しく、仕事をしているか寝ているかという生活で、10年間英語から遠ざかっていました。
再び目覚める
1983年に結婚して、新婚旅行でハワイに行き、相手が何を言っているか分からない、自分の英語が通じない、という(人並みの)悔しい思いをした私は、再び英語を勉強しようと決意。会話集のようなものを読み始めました。「英会話の本」を読みあさりました。
1984年に、会社からのご褒美でサンフランシスコへ10日間行きました。この時はJALで往復して(なんとビジネスクラスだった)、現地では、駐米の方にお世話していただいたので、ほとんど英語を使わずでした。
1985年には、研修でサンフランシスコ・シカゴ・ニューヨークへ15日間行きました。研修ですから、クラス中は通訳の方が助けてくれましたが、それ以外はすべて自分でやらねばならず、英語を学習するぞ、という意識が高まりました。
楽しく学習
英語を身につけようとの意識は高まりましたが、仕事で英語が必要な状況ではなかったので、気楽に、時間があれば英会話の本を読み、英語のカセットテープを聴いていました。テレビ映画が音声多重放送になり、副音声が受信できるラジカセを購入して、可能な限り副音声で聴いていましたが、 何も解りませんでした。
相変わらず仕事は忙しく、また、子供が二人相次いで生まれたりして、休日に英語をじっくり学習するという環境ではありませんでした。
英語のソースも今ほど潤沢ではなく、テープ付きの本は数えるほど。当時住んでいた岐阜市ではFENは入らず、一本のテープを何回も繰り返して聴く、という方法でした。旺文社の3000語レベル英会話は、本当に何千回と聴きました。
1988年に横浜に転勤になってからは、仕事の移動でで車の中にいる時間が長かったので、FENをつけっぱなしにしていました。
1日平均2時間ぐらいはFENを聴いていたと思います。
海外での危ない経験
海外への出張は、1988年にワシントンDC・トロント・シカゴへ20日間行きました。トロントからシカゴ経由で帰国する予定だったので、トロントで乗り込んだ飛行機が故障で出発できず。別の飛行機に乗り換えることになったのですが、この時には滞在許可が切れていたため、入国審査官が「飛行機のトラブルで再入国するのか?」と聞いていた様なのですが、解らず。今まさに事務所につれて行かれそうになった時、英語を話す人に救われました。解っているふりをしてはいけないことを身をもって経験しました。
結局、予定通りに帰国できず、3日間シカゴに滞在することに。この3日間は色々なところを見て回ることが出来ました。一人でレストランに入り、自分が注文したものがその通り出てきた時は嬉しかったです。
まずはアジアから
少し英語が分かりかけてくると、まずアジアで話される英語が分かるようになります。
1987年に香港・クアラルンプールへ行きましたが、よく解るしよく伝わりました。楽しい学習でここまでくるとは素晴らしいと思いました。(後で大いなる勘違いをしていたことに気づきます)
1989年には再び香港へ。前にもまして自分の意志が相手に伝わる状態。外国語で不自由なくコミュニケーションしている状態を、初めて経験しました。
アジアの仕上げは1993年のマニラです。英語を使って、香港・タイ・台湾・マレーシア・フィリピンに多くの友人を作ることが出来ました。
本格的に勉強
1992年アリゾナ州フェニックス、7日間。1994年ワシントンDC・ ミシガン州、15日間。1996年夏シカゴ、15日間。、秋シカゴ・ボストン、10日間。
仕事で海外に出張する機会が増え、通訳無しで仕事をしなければならない時も出てきました。ホテルではなく、アパートで15日間暮らしたり、レンタカーを借りて買い物に行ったりするようになり、海外での行動範囲も広がってきました。
これらの実体験による学習で、英語には種類があることを知りました。一つは、日本で英語の先生が話す英語。あるいは、日本に来たビジネスマンが話す英語。かなりゆっくりで、日本人が理解しやすい英語です。もう一つは、ネイティブがネイティブ同士で話す英語。スピードが早く、スラングも混じり、また少し崩した発音など、相当手強い英語です。ヒスパニック系やアジア系の人達、あるいはインターナショナル部門で仕事をしている人達の英語は解るのですが、英語しか話さないネイティブの人達の話は、「いったい何を言っているのやら」という状態でした。
一つの例が、1996年にシカゴのアパートで暮らしていて、近くのコンビニでサラダを買ったときです。サラダをバッグに詰めながら、店員が「ユィダフォ?」解りません。「パードン?」「ユィダフォ?」フォークをつけるか?と聞いていると言うことが分かるまでに、店員がフォークを見せてくれました。
これ以来、遅いスピードの教材は捨て、ノーマルスピードのテープを聴くようにしました。ノーマルスピードの英語は全く違う音です。NHKラジオの「やさしいビジネス英語」をテープで聞いて理解することを中心にして、文法、ボキャブラリーの勉強もしました。
この間に、TOEICを2回受験しました。結果は左の通りですが、英語が解っているとはとてもいえませんでした。
TOEIC初受験
1994年1月にTOEICを初めて受験。
リスニングとリーディングの正誤問題が難しいと思いました。
リスニング430点、リーディング350点の780点でした。
TOEIC二回目受験
1996年10月にTOEIC二回目受験。
リスニングとリーディングの正誤問題が
相変わらず難しいと思いました。
リスニング435点、リーディング365点の800点でした。
TOEIC三回目受験
1999年6月にTOEIC三回目受験。
リスニングはこんなにゆっくりだったかな、という印象
リスニング445点、リーディング410点の855点でした。
スピーキングは、ALCのSSTを1999年7月に受験
レベル5との判定でした。(ちょっと残念)
2000年5月、JALアカデミーのレベルチェックで、
レベル6という判定でした。
課題は「スピーキング力」と「理解力」でした。
特別早くなければ、英語の音は聞こえています。単語もほぼ解ります。問題は「何が言いたいのか」が理解できないことです。
講演を聴いたり、意見交換やディスカッションするときなど、相手が何を言いたいのか把握できず、まごつくことがありました。
ネイティブ同士の早い会話、これにはほとんどお手上げでした。
自分の意見を言う、最も強化が必要なポイントでした。JALアカデミーに通ったのは、この点を強化しようと思ったからです。
2000年11月にTOEIC四回目受験。
リスニング430点、リーディング475点の905点でした。
初めて、リーディングのスコアが上になりました。この一年でかなりの量の英文を読んだことの効果かもしれません。
リスニングのスコアが下がりましたが、JALアカデミーでキングズ・イングリッシュ中心の勉強をしているので、
一時的な現象だと思っています。
課題にしていた、内容を理解する点については、この一年取り入れた学習方法のおかげでかなりよくなりました。
英語のセッションを聞きにいっても、話者の主張する内容が理解できるようになりました。
仕事で必要に
これまでは、気楽に英語に取り組んできました。それは、仕事では英語を必要とされなかったからです。ところが、97年春に異動があり、能力開発を担当することとなり、状況が一変したのです。
能力開発の分野では、アメリカが世界をリードしています。必然的に英語のセミナーに出る(内容を理解する)、英語で書かれた本を読む、英語でコミュニケーションする、といった機会が増えました。この時点の英語レベル、TOEIC800点では、全く歯が立ちませんでした。
この3年間で、7回アメリカへ出張し、実戦で厳しく鍛えられると共に、一日最低一時間、話の内容が理解できるリスニングを中心に学習してきました。