『7月6日』

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「ペリー来航来航記念レース」

 この人が大将になって160年前に黒船が箱舘にやってきました。

生真面目な義さんが作ったモデルですので細部まで完全にスケールダウン
されています。 床板の陰におもりを入れて穴をあけておくことにしました。

 レースの参加と関係者を合わせて80名の大パーティーになりました、市内の留学生も10人ほど参加です。
生ビールもワインも飲み放題でグイグイいってますがコップがプラスチックで少々味気ないです。
あの人数じゃ仕方ないでしょうね。 なんとなんと、お友達の「サンバード」が総合で1位になりました。
50万出してセールを全部取り換えたのが良かったのか? 一番の勝因は山本スキッパーがビールに手を
出さなかったことでしょうね。 今回は奥様・Mお姉さまをはじめ女性クルーの活躍があったそうで
おめでとう 祝勝会楽しみしていますよ。
 

 北太平洋で捕鯨をしている亜米利加船の補給基地に箱舘が都合よかったようです。
今はクジラを食うなと大きなお世話を言う亜米利加人ですが、鯨油を蒸気機関の
潤滑油につかったり、西部劇に出てくるお姉さんの履いているいてふわっとした
スカートの下にはクジラの骨が使われてました。 日本人は命あるものに感謝を
忘れず、供養塔まで立てて弔っています。

 パーティーの会場は、BAYの中の青天井です。ペリーレースと銘打っていますので「函館日米協会」に後援を
頂きました。 最初は大会長 加藤清郎様のご挨拶です。

『7月20日』

 給食でクジラを食べた昭和世代はどうにも納得
できなくて、「牛食ってるやつにクジラ食うな」と
言われたくないよです

「最後のロールコール」

 行きは少々しめっぽい雰囲気でしたが帰りはビール飲みながら帰ってきました、「勧進葬祭」は
お上手で商売になるとは山本奥様の話です。沈むまでの時間が少し早かったような気がしますが
事前の練習はできませんの仕方がありません、皆さんご苦労様でした、平松君写真ありがとうね。

10時過ぎに集まった勧進丸ゆかりのメンバーを乗せて函館山の
沖合を目指しました、『ペガサスⅦ』「D-bros α』も
一緒です。弱いヤマセの風に乗って海峡の霧が流れてきてました、
皆さんに少しずつお花を渡してからA級を浮かべました。
いつの間にか霧が濃くなって自分達3艇以外は何も見えません
ちょっと幻想的な雰囲気でした、先生は1分ほどで波間に消え
友達と一緒に約束を果たすことができてうれしく思ってました。

親方の還暦のお祝いにクマちゃんが造った勧進丸と並べて
飾っています。「おめえの時はこのカンジンに乗せてやる」と
お友達は言いますがお迎えの順番は分かりません、あんたが
先かもだよ。
遺族の方は初盆ですので弔問客の準備で乗船できませんでした。
お花を持ってご挨拶に来ています。

 

 どさくさまぎれに書いた上の話はさて置いて、記念レースに移りましょう。
今年3日目のレースになりますが、6月が忙しかったカンジン丸には今シーズン最初です。
船頭は張り切って準備を進めていましたが、直前の理事会で「カンジン エントリー無いよ」 「えっ まさか」
その通りにリストにはカンジン丸は載ってません、総務委員長がその場で保険の対応してくれましたが。
家に帰ってパソコン見ると半分書きかけで保存フォルダーに入ってました。
競技委員長様・仏様 何とかエントリーお願いしますとメールしたら奥様が見てくれていたようで、ギリギリ
エントリーがかないました、観音様にも感謝です。
 風が上がるような天気図でもありませんし山を回って大森浜沖のマークをクリヤーしてくるだけなので
シングルハンドでもハナクソほじりながら楽しめます、アンカーを打った本部艇が中々風に立たず
「こりゃ潮だ」ふんふんとスターボで出てすぐにタックして多少沖側に、もう一度タックして岸ベタを
風と汐を拾いながら函館山最南端の大鼻崎に向けました。スピードの出る大型艇は沖コースでも
何とかなりますが、函館山をアンクロで回り込んでいきますので少しでもレースコースを短くしなけりゃ
勝ち目はありません、作戦大成功で大鼻の沖で大型レース艇の先を走っていました。
追いついてきた『NIX」に真面目にやるとイメージ壊れるとひやかされ、『ダーマⅢ』にスターボをかけて
この辺りまではけっこう活躍でしたが、風が落ち後ろに回るとスピン無しのカンジンはどうしようもなく
不本意(当然だよ)な成績でした。 リベンジはパーティーで。

函館西中学校の隣です、孫も清掃活動に行ってます

 今年の3月まだ雪がたくさん残っていた青森で27回目の青函カップの打ち合わせがありました。
席上、私から一晩続けるロールコールが最近負担になってきた、そろそろ卒業したいことと次は全く別のやり方を
考えてはいかがでしょうとお話ししました。レースにロールコールは必ず必要なものなのか、他に参加艇の
位置把握をする方法があればそれでもよしなのか?色々意見が出ましたが、今年1年かけて次のやり方を
模索しよう、今年はご苦労でも例年通りにお願いしたいということになりました。

 函館スタートの年なので平舘漁港で中継ですがやり方も段取りも手慣れたものです、いつもの
メンバーに修行中の女性クルーを入れてちょっと多めの6人で3時間ほど早目に出航しました。
海峡はヤマセの風がブローで10mほど吹いていて、この風ならポートの一本でかなり早めの
レース展開になりそうです。 カンジン丸はヤマセのセオリー通りに佐井沖から焼山沖、もう少し走って
九艘泊り辺りからコースを西に取って平舘沖の黄色ブイを目指すのです。しかし定説はいつか覆えされるのです。
波風が収まった大魚島を超えて夏の定番海峡ソーメン大会を終えて間もなく、コース前方には風で
真っ白の海面が見えてきました。 陸奥湾に入るまでは観光船コースで仏が浦の見物しながらですが
「こりゃなんだ」です。下北半島の吹きおろしでMAX40Ktです、離岸距離が少ないので波は
大きくなりませんがそれでも波頭がブローで吹き飛んでいます、今までヤマセは下北岸ベタで
こんな吹きおろしは初めてです。
何とか頑張って平舘を西に見る辺りまで南下しましたが漁港は風下側で、もし危なければ青森に向かう
つもりでした。吹きおろしのエリヤはそれほど沖まで広がってはなく大事なお仕事のロールコールも
大揺れの艇の中から呼びかけることになりましたが何とかゲロに耐えて一回目は無事終了です。
波の合間を見て漁港に滑り込みやれやれです。参加艇はヤマセで飛ばしてます、トップ艇は
もうコースを半分超えてました。

 平舘のお楽しみは歩いて10分の町営♨です。 艇長会議でレース終了まで必ずワッチを続ける
ようにと話しているのに中継艇が留守にする訳にはいきません、センドウと新人女性クルーが残り
無線機ワッチしながらビール飲んでました。カラスの行水組が戻り、2回目ロールコールをクマちゃんに
お願いして「ちゃぽらっぽ」にでかけましたが帰り道、沖合に三角のセールが見えてまだ明るい
うちにレースは終盤に近づいてます。
 最後のロールコールということで実態を少々お話ししますが、呑み助の船頭がアルコール無しでマイクを持つ
はずが無くいつも多少酒気帯び交信です。お酒くさい電波で頑張っているレース艇のモチベーションを
下げないように気を付けますが、時々ロレツ・・・ 口がうまく回らないのは本人が一番良く分かっていました。
3回目は22:00ですが9時頃にはほとんどの艇がフィニシュ1時間前を連絡してきますので
交信は青森側にお願いして最後のさいごのロールコールを終えました。来年からはレースの合わせた
クルーズにして泊地だけはレース艇の端っこにお願いしようと思っています。

   (前夜の選手会で使ったデジカメがどこへいったのか 写真は無しです、 
    後片付けで着替えの箱から出てきました。どうして?)

最初の穴を穿ける時は、何かぐっとこみ上げるものがあって義さんゴメンねとありがとうをつぶやいてました。

 二次会はクラブハウスでと言ってましたが、皆さんカンジン丸に流れてきてお部屋の中もコックピットもいっぱいに
なっていた様です。 ようですというのは、ワインが過ぎたセンドウはアルコール性の痴呆症になって記憶が
かなり抜けています、小松さんに塩辛やソーセージが食いたいとおねだりしたそうですが翌日の後始末で
出てきた買い物袋は、「誰が持ってきたんだろう?」後で聞いて赤恥かきました。

『7月13日』

 4月15日に亡くなった故上河睦美先生の散骨に『勧進丸」を出しました。

 亡くなる一週間ほど前、先生はちょっと辛そうな感じもありましたが時々笑顔もあって
まだ説教をされるほど元気な様子でした。
「タキノ 俺は昔から死んだらA級デンギーに乗せて海峡で火を放せと言ってきた
俺はもう長いことはない、実際それは出来ないだろうけど少しでも海に還せるように
よろしく頼む」
「はいはい分かりました、ところで先生それは遺言ですか?」
「そうだ」
「死にそうな人はあまり言わないけど、その時はそれなりに何とかします・・・・」
お見舞い帰りのエレベターの中で、あの様子だとまだしばらくは大丈夫と話してましたが、翌日からは
ほとんど意識が無くなって15日の夜7時頃に亡くなりました。
お葬式の話は別の機会に書くことにしますが、約束の散骨の段取りと当日の様子です。

先生は、先に向こうの世界に行った故佐藤義さんが造ったA級デンギーのモデルに乗せてくれと
おっしゃってました。先生のお宅に飾ってあった素晴らしいモデルヨットです。
一時クラブハウスに置いていましたのでご覧になった方もいるでしょう。
一緒に話を聞いていた奥様とも相談して、遺骨を少しだけ斎場から持ち帰り「勧進丸」の
チャートテーブルに置いてありました。
A級のモデルヨットは細工をするのに自宅に運び、さてどうしたものか? 今までいろいろ仕事をしましたが
沈めるつもりで船に手を加えるのは初めてです。