中央ラヂオ商会


最下段に写真を添付しておりますので、時間を頂きます。


大正の初期に「ラヂオなるもの、面白そうなので勉強をしてくる」と東京へ・・・そして、流通の商談をまとめて名古屋にて

                 「中央ラヂオ商会」

を開業した祖父。明治16年生まれの愛知県丹羽郡扶桑町出身者。 名古屋では未だ10軒しか無かったラヂオ店は大繁盛をしたと聞いております。(昔の写真が何処かに有りそうですのでHPのupに間に合えば下段にでもご紹介出来ましょう。)
もう、この「中央ラヂオ商会」をご利用頂いた方々は勿論、ご存知の方も少なくなった事でしょう。

亀太郎が小学校二年の頃に祖父は亡くなりましたが、店に来るお客様には言葉だけでなく必ず学生帽を取り、頭を下げて挨拶をする事を教わりまいた。これは、今思うに亀太郎が御世話になった会社の元社長(現特別顧問)の訓話:−

                 「会社の繁栄は礼儀作法から」

に、相通ずるものでした。


店には、ラジオのほかに、数種類の真空管大中小も並んでいて、コツンと何処かに当てるだけでニクロム線が切れれしまう物でした。3本足、4本足の真空管も有りましたっけ?(亀太郎がよく壊しましたね。)
真空管をセットするためには、太さの違う足のサイズを正確に合わせないと完全に固定できないものでした。
電球 gif


使用済み乾電池の芯で絵が書けましたので、手が真っ黒になるのも厭わず、石で潰して遊びましたが、その遊びは下記のS氏により、直ぐに厳禁と成りました。(No good for healthのこと、彼は知っていたのかな?)


亀太郎が物心ついた頃には、常時二〜三人の若い店員さんおりましたが彼らの父や兄も徴兵、家業を助ける為次々と郷里へ帰って行きました。祖父の死後、第二次世界大戦中の昭和18年頃まで店に残ってくれたS氏も徴兵、店は休業と成りました。このS氏、高齢ですが今でも健在で 時々我が家を訪れ、祖父母の仏前に手を合わせてくれます。

”刈谷のD社で電気自動車の基礎を学べたのも「中央ラヂオ商会」で勉強ができたお陰”と・・・・

でも、何事も個人の意欲と努力が無ければ成就できませんよね!


このラジオ店も名古屋空襲で昭和20年3月、焼夷弾の直撃を受けて焼失いたしました。(家族は全員一宮市に疎開した後でしたので、難を逃れました。)


亀太郎、この電気という分野での環境をモノに出来ませんでしたが、今でもこの「中央ラヂオ商会」に感謝しておられる方が存在するということ、誠に有り難い事と思います。

(2000年5月13日記)

(2001年5月26日再記)


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中央ラヂオ商会 写真
ジーエス蓄電器 現東芝?の看板