鮒 と なまず
(虚弱な亀太郎に対する親心)


亀太郎の小学校時代に関しては「中央ラヂオ商会」と「三回転校の小学校」をご参照頂いた事と存じます。

当時の名古屋城のお堀は誰でもが自由に魚を捕ることが出来ましたので、大勢の子供たちが四つ手を持って集まっておりました。 亀太郎は宿題、復習、予習もせず、下校すればお堀に直行でした。  ですから当然の事ながら、

         学校の成績表はアヒル(乙)さんで統一出来ました。

2〜3m先に四つ手を放り出して、魚を足で追うと必ず2〜3匹の小鮒が入っておりまいた。時には20〜30cmの源五郎ぶなも。 でも、お堀のソコは泥沼で、膝まで水に浸かって四つ手まで辿り着くには相当の労力が必要でした。 


日曜日には父が弥富・蟹江方面に釣り誘ってくれました。朝4時起床、竿7〜8本と魚篭(ビク)を担いで5時出発です。 食いの良い明け方には現地に到着しなくてはなりません。

つり gif三本の竿が亀太郎に与えられました。当時は、マッシュではなく殆どがミミズが餌です。(冬は赤虫)
川幅7〜8mの川面にウキ下を加減しながら魚信を待ちます。ようやく辺りがほんのりと明るくなりました。するとウキがモゾモゾと動き出します。タイミングを見計らって竿を上げます。確かな手ごたえ! 銀色の肌の鮒が亀太郎の手に収まります。忘れられない感触です。

春や秋のつりは、さほど強行軍ではありませんが、冬の伊吹颪の寒風に曝されながらの鮒釣りは厳しゅう御座いました。一時間に一回は、あぜ道に作られた稲架(ハザ)の陰で寒風を避けたものです。

寒鮒は動きが鈍く、餌の吸い込みも弱いので、ウキの動きも微妙です。神経を尖らせながらの釣りとなります。 時には一本竿で、川幅1m水深50cmほどの小川を探り釣り・・・父は寒さを物ともせずに、どんどん先に進みます。

今では、稲の刈り取り、脱穀ともに一度で済むようですので、寒風を避ける稲架(ハザ)を見る機会も少なくなったようですね。


夏の記憶は、なまず釣りです。 当時は、あちらこちらに池がありました。 大黒ミミズを付けてほうって置けば、なまずは餌をひと飲みです。30〜50cmのなまずがよく釣れました。時には 70cmほどの大物も。

なまずを持ち帰り洗濯盥(タライ)に入れますと壮観な風景。 殆どのなまずは持ち帰っても、生きておりました。 うなぎとは違い、淡白な味・・・料理は母の仕事でした。今日では、20cmのなまず一匹が3,000円もするのですって!

こんな自然がもう一度、戻って来れば、楽しいのですが・・・如何でしょう?


勉強をしなさいとも云わず、 天気がよければ名古屋城のお堀に亀太郎を行かせ、 日曜日のたびに蟹江や弥富での魚釣りに連れ出した親。 生まれつき病弱な(病歴参照)亀太郎を少しでも外気に触れさせ抵抗力を付けさせようとする両親の気心であたのです。

夕方6時まで釣りをしてお腹がペコペコ。 そんな時、帰宅途中に食べた「めしや」のご飯は本当に美味かったね!! 漬物と味噌汁だけでしたが、味噌汁(この地方では赤味噌)の美味さを知ったのもこの頃でした。

       お腹がすいていれば、何を食べても美味しいよね!!


本当に Return to Nature と心から叫びたい気持ちで一杯です。
テレビゲームに明け暮れする最近の子供たちが不憫です。

今日まで亀太郎の生あるは、”自然” と ”両親の気配り” のお陰なのです。


2000年8月13日記


(2000年6月17日・再記)

トップに戻ります