今日、大きくは原発賛成・反対という論点ばかりがクローズアップされ、百万言が費やされている。だが、見過ごされがちなのが、脱原発派の内輪の論点だ。大きく分ければ急進派か漸進派(少しずつ進む)ということになろうが、後者でも10年から20年の時期を設定したい派と、新規建設を禁止して寿命がきた基から順次廃止していけばよいとする派では、やはり大きく異なる立場だろう。大まかにいえば、以下の三択になりそうだ。

A案「即時全廃」
B案「10年から20年かけて全廃」
C案「自然減による全廃」

脱原発が政治的には急速に現実味を帯びてきた今、派内での議論も急ぐべきではないだろうか。というのも、一見すると何てことのない三択だが、実は表面からでは見えてこない、究極ともいえる対立点を含んでいるからだ。とくに、力任せともいえるA案と、フェードアウト(消え去る)ともいえるC案では、同じ脱原発派といっても天と地ほどの開きがある。まず、A案だと想像以上に経済的な損害が大きいと指摘せねばなるまい。
1・電力部門に約23兆円の巨大不良債権が生じる。
原発は電気を生産し、それを消費者に売ることによって、自身のライフサイクル(建設から維持費、解体処分、高レベル放射性廃棄物保管コストまで)に要する経費を捻出している。よくある誤解だが、建設費だけ償却すれば済む話ではなく、人間でいえば墓場の維持代まで稼がねばならない。大雑把に100万kW級の原発を例にとろう。生涯稼働率7割、発電単価5円とすると、年間売上高から純利益分の3%を差し引いた約300億円がだいたい平衡額だと思われる。耐用40年とすれば、100万kW級の原発はその生涯に約1兆2千億円の収入を得て、ようやく収支がトントンとなる計算だ。つまり、仮に操業20年で廃止を余儀なくされた場合、約6千億円の損害が発生する。この考え方を福一事故基を除く50基に適用してみよう。個々により出力も稼動年数も異なることからかなり煩雑だが、個別ごとに計算して集計した私の概算結果では、今年全停→そのまま廃炉で、なんと22・6兆円もの損害となることが分かった。

2・追加燃料費が15兆円かかる。
今日、電源は「夏季の1億8千kWの需要ピーク」と「年間1兆kWhの消費量」の両方のニーズに対応している。ピークは夏のほぼ一ヶ月間だ。火力と水力の合計設備容量が需要ピークのややオーバー程度のことから、現実稼働率からするとピークに少し届かなくなると思われる。だが、これは全国的な節電、火力の増設、またはその両方の対策で乗り切ることができよう。真の問題はむしろ年間発電量に生じる欠落分だ。原発が担ってきた「量」の穴埋めをするためには、現状では火力の発電量アップ以外にない。実は原発停止が拡大するにつれ、すでにこの対策が実施されているが、その結果として火力の燃料費が急増している。最終的には追加燃料費が毎年3兆円という試算が出ているが、私もこれはほぼ正しいと思う。自然エネルギーの開発等でこの追加燃料費をなくすためには、最低10年はかかるだろうから、その間に約15兆円もの余分な経費が発生することになる。

3・その他の損害が多々ある。
即時全廃だと、直接的には4・5万人が失業するが、原発産業は裾野が広いので、実際にはメーカーや地元経済圏などを含めてその何倍もの人が仕事を失う。その結果として社会保障費も増大する。これらは隠れコストといえる。意外と見過ごされているが、平時においては経済の問題が人命に直結している。貧困が人を殺すと言われるが、自殺・病苦などの背景にも経済事情が絡む場合が多い。経済の悪化で死人が増えるのは確かだ。

というわけで、A案の即時全廃で最終的に約40兆円くらいの大損害=国民負担が生じると思われる。このようにA案は非常に反動が大きい。原発それ自体が生産設備であり、自身のコストを捻出している以上、一挙全廃により電気料金の「大幅値上げ」は絶対避けられない。東電だけでなく全電力会社で「十年間数割増し」は覚悟する必要はある。家庭は耐えられても、果たして製造業と雇用はどうなるだろうか。たぶん悪夢のはずだ。

対して、C案の「自然減」策だと、上に挙げた損失がほとんど発生しない。すでに自身の“年金”を積み終えた老朽原発が電源から少しずつ脱落していくだけだ。ゆっくりとしたペースなので、この分を自然エネルギー開発や火力の効率向上等で補うことが可能だ。失業者も少しずつなので、現状のバックアップで対応できる。よって、寿命基を順次廃炉化していくだけのC案は、三択の中でもっとも社会的に軋轢の少ない方法といえるだろう。このように“同じ脱原発方針”でありながら、半世紀かけて作られたシステムを今すぐ叩き壊すか、それとも時間をかけて壊すかによって、かくも大きな違いが出るのだ。

ところが…である。ならばC案しかないと思いきや、実はそう単純ではないのだ。というのも、経済的に一番痛みの少ない策が「自然減」であるとしても、視点を変えると、三択の中でもっともリスキーとも考えられるのだ。

大震災の際、都内のオフィスビルに残留した人ならば周知のことだが、エレベータが止まったままだった。エレベータ屋さんは復旧のためにフル稼動を余儀なくされた。実は、次に忙しかったのが配管屋さんである。というのも、給排水管が揺さぶられ、あちこちのビルで水漏れ事故が発生していたからだ。年月と共に継ぎ手部分が腐食・疲労しやすいのが配管の弱点で、そこに力が加わると設計時よりも容易に破損してしまうのだ。

私が福一原発事故の原因に思い至ったのは、タービン建屋の床に「謎の汚染水」が溜まっているという報道に接した時だ。これは炉とタービンを行き来している閉鎖サイクルの水以外にありえない。地震の揺れか、全電源喪失による圧力の急上昇により、循環系統に何らかの破損が生じたのだ。ここから私は「冷却水抜け→空焚き→メルトダウン」を確信することができた。後の発表によると、それが最初の一日で起こったらしい。

これは「現タイプの原発は根本技術からして間違っているのではないか」という疑念を抱かせるに十分な根拠である。圧力容器がいかに分厚い鋼鉄製だとしても、そこに連結し、縦横に行き来している配管に少しの亀裂が生じただけで蒸気が漏れ、炉心が制御不能に陥ってしまう。それまでは圧力容器や格納容器が地震はおろか航空機の衝突にも耐えうるとして、地震事故のリスクは仮定下に据え置かれてきた。ところが福一事故により改めてシステムとしての弱点が浮き彫りにされ、そのリスクが完全に現実化したといえよう。

この地震事故リスクを勘案するとどうなるか。地震学では、北海道太平洋沖、房総沖、東海・東南海・南海沖の巨大地震とそれによる大津波が想定されている。ここ十年の間に連続しても不思議ではないらしい。C案ではたしかに上に挙げた経済的な損害がないかもしれない。ところが、どこかの基が地震でまた重大事故を起こし、都市部に向かって放射能を撒き散らすような事態にでもなれば、そんな皮算用は一挙に吹っ飛ぶ可能性がある。

対して、一気に原発から脱するA案ならば、経済的な大損害および国民の耐久生活は避けられないが、もはやビクビクしなくてすむ。この「リスク除去」と「安心感」は大きなアドバンテージだろう。プライオリティを「サバイバル」に置くなら、実は本能的に危険を察知しているともいえる急進派こそが一番正しいかもしれないのだ。

そうすると、実は脱原発派には究極の選択が突きつけられていることが分かる。
「40兆円の経済的損害を引き受ける代わりに地震事故リスクを今すぐゼロにするか。それとも経済的損害をゼロにする代わりに以後30年以上にわたって地震事故リスクを引き受け続けるか」…である。

これがA案とC案とすれば、リスクを半分に減らす代わりに両方とも引き受けるのがB案である。ある意味、どれをとっても地獄だ。二種類のリスクはシーソー関係にある。一方のリスクを根絶しようとすれば、別のリスクを丸々引き受けねばならないのだ。40兆円を潔く支払えば、半か丁かのサイコロゲームから降りることができるが、支払いを渋ると否応なくこの賭けに参加させられる。われわれは今まで賛成か反対かばかり論争してきたが、これからは同じ脱原発派内の、このジレンマにこそ向き合わねばならない。

では、脱原発が決まったとして、現実にどうすればよいのだろうか。たとえば、C案を選んでも、原発の耐震性を全面的に見直し、数兆円かけて全基を補強工事すればかなりのリスクは軽減できよう。あるいは、一部の原発にA案を適用して一挙に廃止し、残りにB又はC案を適用するというように、両案の妥協というか、折中案もある。科学的な観点から地震学的又は工学的にハイリスクな基を抽出し、法律を作った上で停廃止するのだ(実際には現在停止している基を再稼動させず廃炉化という措置になる)。地震学的に危険なのは浜岡原発、工学的にハイリスクなのはマークTタイプや老朽基…といった具合に。この折衷案ならば、どちらのリスクも根絶はできないが、それ相応に減らすことができよう。

私個人としては、脱原発の際は「A・C折衷案」を推したい。三連動型巨大地震が迫っているこの時期に、防潮堤の完成を理由に浜岡原発を再稼動されたのでは、首都圏のリスクが高すぎる。ここは「損切り」を決断すべきだ。ただし、私の試算では浜岡3・4・5号機を廃止した場合、2兆5千億円の生涯損失が出る。その他、東海2号機もどうせ寿命が近いから、再稼動せずにそのまま廃止したほうがいい。市民がそれを決断するなら、当然これらは市民の負担であるべきだ。文字通り「身を切る」がごとく、兆単位の経済的な損害およびそれを補填するための電気料金の値上げ、景気の悪化等は覚悟して然るべきだ。また、追加燃料費をできるだけ抑える現実的な代替手段の確立も急がれる。脱原発派は自分たちの選択する道がどれほど険しいかを肝に銘じなければならない。(フリーランスライター 山田高明