癒えない傷あと

−父から聞いた戦争−



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    −ニューギニアに眠る兄を想う−   
   
  
―57回目の終戦記念日を迎えてー

平成十四年年八月十五日は私にとって忘れられない貴重な一日となりました。
五十七回目の終戦記念日です。父はこの日、天皇、皇后御列席のもとに、全国に放送されている
戦没者慰霊祭のテレビの前に正座し黙祷を捧げました。私も父の背後に座って亡き伯父に哀悼の
意を捧げました。父の背中は、半世紀を過ぎた今も実兄を失った悲しみと苦しみに震えていました。
南海派遣軍として従軍したニューギニアで、友軍からの補給を絶たれ、飢餓の末に自害という無残
な最期を遂げたことに無念に耐えているように感じました。父の後姿に、戦争をまったく知らない私も、
胸に熱いものがこみ上げて切ない思いに駆られました。この時、どうしても、父の胸のうちを聞きたい、
聞かせて欲しい、聞かなければならないと思ったのです。その夜、素直に思いを伝えまた。
唐突な娘の申し出に、父は複雑な面持ちで私を見詰めておりました。やがて、見たこともない手紙や
写真などを持ち出し、無口な筈の父が何故かこの時は饒舌でした。たった一枚の召集令状が、愛す
る実兄の運命を決めてしまったのです。父の話は、辛くて、悲しくして、どうしようもなく涙が溢れて止
まりませんでした。 でも、話し終えた父は何時もの優しい顔に戻っていました。このホームページは、
戦争を知らない娘に父が初めて語ってくれたお話です。訪問してくださった方のお身内に同様の思い
をしておられる方がいらっしゃるかも知れません。そうした方々のお話に、少しでも耳を傾けて頂ける
切っ掛けにして下さることを願って止みません。

 
      −松本慰霊祭−
 

ニューギニアに渡った日本軍は14万人もいたが、終戦の時に生き残っていた人はたった1万人しか
いなかったという。ニューギニアで命を落とした長野県出身の兵士は3700人もいた。ニューギニアは
一年中暑いので、その暑い場所で亡くなった兵士たちを偲ぶために、毎年真夏の7月の最終日曜の
正午に松本にある県の護国神社で慰霊祭を開催すると定めた。

父に毎年どんな想いで慰霊祭に参列するのかと尋ねたら、伯父が惨めな戦死をしたから霊を慰めよ
うと思って弔いに行くのだ。鉄砲の弾で殺されたならまだ諦めがつくけれど、飢えとマラリアにかかり、
最後は栄養失調になり、敵から逃れることができずに自決したのだから(喉に銃口当て足で引き金を
引いた)しかも終戦の年、4月5日のことで、自決した4ヵ月後に終戦を迎えただけに悔しい想いでいっ
ぱいだ。慰霊祭が開催された当初は戦死者の両親や妻、兄弟たちおよそ1000人以上の遺族たちが
参列したが、年々出席する遺族たちも、高齢になり二世、三世たちが目立ってきて、今年は参列者も
300人ほどに減り、その戦争もだんだん忘れられてきているのかと、寂しい思いがした。時代があまり
にも過ぎていっていることをしみじみ感じたと悲しそうに語ってくれました。

私は、父のためにも、また、遺族の方々のためにもこの悲しみを忘れてはいけない・・・。子供たちに伝
えなければという思いに駆られ、ホームページに公開することを考えました。父に了解を得て伯父の写
真、手紙などの資料を集めたり、友人に薦められた本、戦争の悲惨さが綴られている、豊田三郎氏著
「行軍」、野戦病院で兵士の看護にあたった方々が綴った「看護体験記」、また、供養観音像を彫られ
た池田定雄さん自ら綴ったニューギニアで戦った記録、志半ばで空に散った特攻隊員たちが残された、
書簡も読みました。本に書かれている場面を想像すると、伯父の姿が頭に過ぎり、胸がつまりました。
私は歴史を紐解き、当時の様子を少しでも理解できた上で精一杯想いを込めて編集しました。
一人でも多くの方に見ていただいて、亡き伯父、そして、祖国に帰ることなく、今も尚ニューギニアに眠っ
ている人たちへのご供養になることを心からお祈りします。





   
 −戦死した伯父から実父へ宛てた最後の手紙−
 

  
宛先  小県郡塩尻村
        瀧澤 弥右エ門様
 
            北支平野隊
              瀧澤誠一
 
       昭和15年7月14日(受取日)


   拝復
 
  六月十四日付封書拝見致シマシタ
               長イ間待チ續ケタ写眞見テ出発乃時ヲ思ヒ出シマシタ。
 
               家中一同無事ノ由安心シテ居リマス
               自分モ元気デスカラ御安心下サイ
 
               毎日父様ニハお勤御苦労様デス又、休ミニハ上田へ買い物ニ
               行カレ私ニ何カオ送リ下サルサウデスガ戦地モ質素ヲ旨トスル
               軍人ニハ不自由ナコトモ有リマスガ ガマンシナクテハナリマセン
               アマリ御心配シナイデ下サイ
                  デハ後便デ
 


    兄(伯父)から弟(父)へ宛てた最後の手紙
 
       昭和18年の5月ニューギニアより
                 (上陸してすぐ)それ以来便りは無かった〜
 
 
   宛先 東京市本所区外厩橋4-22
      瀧澤 光樹 殿
 
                   南海派遣河第3566部隊森永部隊
                        瀧澤 誠一 
      
どうかね 相変わらず元気かね 袈裟雄兄はどうしてるかね
こちら相変わらずさ 緑濃き木々の香りにはもうあいてしまった。
螢のみ故郷をしのぶ只一つの情緒だ。夜毎夢結ぶ幕舎の付近を飛んでいる 
日中の直射は相当きびしいが夕刻より朝にかけては内地の秋の初めの夜の様だ。
東京にもそろそろアイスクリーム、氷も涼しそうな幕布が軒を飾ることであろう。
今年初めてのアイスクリームの一日の記録は十六杯だ二月の幾日だったか知ら。
エンコにも名物のバナナのたたき売りも見られんことであろう。
もうだいぶ馳走にはなった。しかし内地で食べた頃の方が美味な感じだ。
其の後西村、土田、那須、栗原の諸氏の活動は如何ですか此の頃はさっぱり内地の
様子が入らんのでね。どんな至らぬことでも知りたいのだ。銀座の牡丹はどうなったかね 
相変わらず美味しいみつ豆やお汁粉を食べさせてくれるかね 
そして新橋の彼女は相変わらずか 逢うこともあるだろう
久方振り一年振り以上になるだろ 一筆出してみやう
メンコをとっておかんとまた厄介かけるとき具合悪いからな   ハハ…
 
   ※エンコは浅草  牡丹は喫茶店  めんこをとるはおちょべをとるの意味




     −松本慰霊祭に参列して−



   




       松本慰霊祭にて戦友の伊藤さんと
        お会いすることでき(中央)感無量の父
        当時の中隊長さんを紹介していただき
        深々と頭をさげて、お礼を述べました
        しかし、このとき初めて伯父が自決した
        と聞き涙を堪えきれず、しばらくは呆然と
        立ったままでした


    

 



お子さまを亡くされた悲しみが
痛いほど伝わってきて
胸が痛みます




    −念願叶って伯父が眠るニューギニアヘ−


      
    
戦友が彫ってくださった供養像           眠っているであろう場所に供養像を立て黙祷を捧げる父
    
戦地に持って行き、魂を入れて         現地の方々も一緒に供養をしてくださいました。 
  
   もらって帰ってきました             「兄貴、やっと来たよ!」
                       父の心境を察すると胸が詰まります。








   今でも生々しい姿で戦闘機が 戦争の惨さを物語るか
   のように
残されたままになっています。
   


  若くして夫を亡くした女性がこの鉄砲に
  抱きついて、泣いていたそうです。







       



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