北大櫻井教授とのやりとりを終えて

2006年5月30日
ルポライター米本和広

米本INDEX


 櫻井氏は私の質問に対して、
「客観的事実と異なる点や誤植に関わるご指摘については、重版・改訂の折に訂正させて頂きます」
 と、記述の一部に間違いがあったことを認めた。しかしながら、20項目に及ぶ私のどの指摘が、客観的事実と異なっていたと認識されたのかよく分からない。そこで、再度、20項目の質問を分類して具体的に質問した。
 その回答が5月12日付の手紙である。
「ご質問全般に関しては前回回答したとおりです」
 前回回答には、こう書かれてあった。
「ご質問に対しては、拙著の中で書いてあることが私の見解ですので、拙著全体の主張とも重ね合わせてご参照願いたく存じます」


  なぜ回答できないのか

 まるで回答になっていないこの簡単な文を前に、憤然とする気持ちを通り越して、しばし考え込んでしまった。
 櫻井氏は大学の教員である。
 学生が櫻井教授の本を読み、理解を深めるために私のルポ、さらにはこのホームページにアップされている宿谷麻子さん、高須美佐さんの体験記を読む。熱心な学生ならPTSDの文献にもあたるだろう。その結果、疑問が浮かび、先生に質問する。
 そうしたときにも、私への回答と同じように、「あなたの質問に対する回答は本の中で述べている。もう一度、本を読みなさい」とでも言うのだろうか。そう答えた瞬間、学生はあ然とし、おそらく教室は静まり反るだろう。そうしたことが何度か繰り返されれば、学生たちは質問しても回答がないことを学習し、その結果、宗教社会学を志す学生の間に「知の頽廃」が蔓延するだろう。

 なぜ、櫻井氏は具体的な回答を避けるのか。訂正するという箇所を明らかにしないのはなぜなのか。
 2つの理由が考えられる。
 1つは大学教授特有の権威と自尊心を保つためである。
 もし彼が具体的に答えるとすれば、誰が考えても、
「当事者に取材することなく書いたのは間違いだった」
「PTSDについては知識不足だった」
「ルポに書かれてないことをあたかも書いてあるかのように記述したのは、書き手の姿勢として問題だった」
 と言わざるを得ないだろう。そう答えた瞬間、教授としての権威はたちどころに失墜してしまい、面目を失うことになる。


 「批判的視点」と「反」との違い

 もう1つは、反カルトという立場性に固執するためである。
 反カルトの立場に固執する人は、往々にして反カルト=正義=無謬性という図式に呪縛されている。ましてや、統一教会と反統一教会はルポで書いたように一種の戦争状態にある。
 個人的な体験になるが、私はカルトに批判的な記事をこれまで書いてきた。その過程で統一教会の世界日報日曜版で1面2面ぶっちぎり、顔写真つきで批判されたこともある。反統一教会陣営のメンバーとは親しく付き合っていた。
 ところが、拉致監禁批判のルポが出たあと、一部の人たちの態度はがらりと変わった。私の『洗脳の楽園』を評価していたある牧師は「米本は統一教会から金をもらってあのルポを書いたらしい」と水面下で吹聴するようになったのである。
 反統一教会陣営の行為を批判すれば、統一教会側の人間として見なしてしまう。まさに戦争時の心理であろう。
 こうした緊張状態にあるとき、櫻井氏が間違いを具体的に認めた場合、どういうことになるのか・・・。

 彼の立場性とはそうした消極的な意味ばかりではない。
 彼は講演などで「カルトを研究する場合、反カルトの立場から行わなければならない」と述べているという。
 研究論文あるいは報道記事を書く場合、批判的視点をもって、調査取材する必要がある。しかし、それはあくまで視点として必要であって、反カルトの立場に立つことと同義ではない。
 マルクスの「すべてを疑え」ではないが、反カルトの視点を持ちながらも、反カルトの立場に立つグループそのものも疑ってかからなければ<真実>は見えてこない。
 櫻井氏も「批判的視点」の重要性は述べている。だが、「カルトに批判的視点」と「反カルトの立場」とを区別して、認識しているのは定かではない。
 彼は『「カルト」を問い直す』の中で自分の研究方法について述べている。

「具体的には脱会者や教団に批判的な信者から資料を提供してもらう、裁判資料に当たる、法廷で傍聴する、当該教団を批判する団体に加わりながら、なぜ、その教団を批判しなければいけないのかという活動の意味を理解していく」(P22)

 これを「外堀からの調査」だとわざわざネーミングを付けている。一見もっともらしく聞こえるが、なんのことはない。マスコミが反カルトキャンペーンを行うときに用いる一般的な方法であり、「研究方法」と呼べるようなシロモノではない。
 櫻井氏の方法は、批判的視点ではなく、「反」の立場に立ったものであり、それはもはや学問レベルではなく教団に反対する運動の一翼を担うものというしかない。この意味で、質問書で「反統一教会の御用学者ではないか」と疑問を投げかけたのは、あながち突飛なことではないのである。


 「内在的理解」と「外堀からの調査」

「創価学会を研究する」という例を考えればわかりすいだろう。
 櫻井氏の方法によって“研究”すれば、反対派に情報を依拠するのだから、これまでの創価学会批判を目的とした雑誌記事しか生まれてこない。それらを読めば創価学会の問題点は理解できる。その意味で記事は有効だ。
 しかし、なぜ、社会から批判される団体に属し続け、熱心に活動するのか。なぜ、選挙となると800万票もの票を取るのか。創価学会の全体像は決して見えてこないのだ。(成功したかどうかはともかく、私は「下町の創価学会」<別冊宝島『隣の創価学会』>、「創価学会・公明党/最強選挙マシーンの秘密と陥穽」<月刊『現代』05年8月号>では、元信者ではなく現役信者のインタビューを中心に据えた。ヤマギシ会を批判した『洗脳の楽園』では反対派に取材するだけでなく、洗脳セミナーを受け、現役メンバーへの長時間インタビューも行った)
 教団の構造、全体像を明かすべく研究するのであれば、「外堀からの調査」ととともに、教団と現役信者へのインタビューは欠かすことのできない作業となる。常に批判的視点をもって。

 話は横道にそれるが、櫻井氏があえて「外堀からの調査」を強調したのはそれなりに理由がある。オウム事件以前、宗教学者は教団の内側に入り、教団にある種の共感を抱いて、研究論文を書いてきた。これを「内在的理解」というのだそうだ。しかし、この方法だと教団の問題点は見えてこない。そのことを櫻井氏は強調する意味で、「内在的理解」を意識して、あえて「外堀からの調査」を対峙させたのである。
 しかしながら、宗教学会のレベル・事情は知らないが、教団の内在的「理解」にウエイトを置こうが、教団の内在的「問題」にウエイトを置こうが、研究するには当然のことながら現役信者側、元信者側の両方を対象にする必要がある。脱会者はかつて教団に共鳴していた元現役信者であり、現役信者はいつかは教団を批判する元信者になる可能性があるのだから・・・。
 教団研究と企業研究とでは調査方法に違いがあるかもしれないが、教団内部、企業内部を取材するとともに、教団をやめた人、企業をやめた人にも取材する。もしオウム事件以前に、宗教研究家が教団内部のみを調査対象にしてきたのだとすれば、それはそもそも間違いだったのではないか。


 櫻井氏の転機

 宗教学の歴史的事情を勘案しても、櫻井氏は必要以上に立場にこだわっているように思える。それはなぜなのか。

 私が櫻井氏に注目したのは、彼が96年に書いた論文、「オウム真理教現象の記述をめぐる一考察/マインドコントロール言説の批判的検討」(北海道社会学会の『現代社会学研究』)だった。
 カルトに若者が入信するのはマインドコントロールによるものだという言説を全面的に批判した、10年経った今でも通用する鋭い論文である。
 96年といえば、オウムサリン事件の余韻さめやらぬ時であり、「カルト」と「マインドコントロール」が雑誌やワイドショーで飛び交っていたときである。その意味で、「マインドコントロール言説」を批判するのは勇気のいることであり、彼の論文はとても新鮮だった。私もマインドコントロール言説には疑問を抱いていたので、『教祖逮捕』(宝島社)ではかなり引用した。

 櫻井氏がマインドコントロールを本格的に研究したのは、江川紹子氏だったかに批判されたことがきっかけになったという。ややうろ覚えなのだが、社会がオウム批判一色になっていたとき、彼はマインドコントロール論を批判したところ、江川氏からコテンパンにやられた。それがきっかけとなって、マインドコントロール言説を本格的に研究し、論文を書いたという。
 この話を聞いたとき、硬骨な学者だなあという印象を受けた。

 ところがである。この秀逸な論文が反統一教会陣営から徹底的に批判されることになる。
この間の事情について、愛知学院大学の伊藤雅之氏(宗教社会学)が『岩波講座・宗教2/宗教への視座』で書いているので、少々長いが、それを紹介しておく。

<櫻井は、オウム事件のマスコミ報道が「マインド・コントロール」論の有効性を検討することもなくこの語を用いて信者のオウムへの入信やサリン攻撃に加わったことを説明する傾向に着目した。そして、論文を執筆し、特定の集団への入信や集団の暴力性は複雑な現象であり、マインド・コントロール論という宗教学や宗教社会学では一般に認められていない理論によって説明することを批判した。
 ところが、この論文が統一教会に対する「青春を返せ訴訟」の際に統一教会側の弁護団によって引用される。
 この裁判は、統一教会の元信者がマインド・コントロールという特殊な勧誘方法によって入信させられ、教化されて霊感商法に従事させられたとして、統一教会の違法行為により受けた金銭的被害と精神的苦痛の損害賠償請求を求めたものである。
 これに対して被告側は、櫻井論文を用いて、新宗教への入信をマインド・コントロール論で説明することはできないと、日本の宗教社会学者も言っており、「騙されて入った」という言い方は統一教会への偏見にすぎないとした。
 統一教会を批判する原告側弁護士からは「あなたの論文が統一教会擁護に使われているが、それを承知でマインド・コントロール論批判をされたのか」との批判を受けた。
 また、フォトジャーナリストの藤田庄市からは「統一教会の犠牲者たちを、うしろから斬りつける役割をあんたはやったんだよ」との忠告を受けたという。
 ここでは、特定の理論の学問的正当性をめぐる議論を超えたところで社会的現実は展開している。こうした体験から、自分が書いた論文の社会的影響力について深く考えるようになったという>


 問題の所在を整理する

 本題から外れるが、この経過をどのように理解すべきか。学問のあり方に関わる問題を内包していることなのか。公の場できちんと議論されるべきだと思う。そうでないと、研究者は萎縮するし、研究成果を発表することを躊躇するようになってしまう。

 @統一教会を批判する元信者たちは、マインドコントロールによって入信・教化させられ、その結果損害を受けたと訴え、Aそれに対して統一教会側はそれを否定し、証拠としてマインドコントロール説を批判した論文を提出した。これが経過の要点だろう。そして、付け加えれば、B判決はマインドコントロール説を退けたものの、違法性を認め、統一教会側への損害賠償請求を認めた(地裁、高裁によって判断は異なるが)。
 この経過のどこに問題があるのか私には理解できない。

 原告側の弁護士や藤田氏が知人である櫻井氏を批判したのは心情的には理解できる。
 しかし、「サリンでもっと大勢の人が死ねば良かったのに」と話した宗教学者の中沢新一氏、発泡スチロールに金メッキしたシバ像を本物だと錯覚した島田裕巳氏、また『岩波新書』で親鸞会の勧誘の問題点を見過ごし教団の説明通りに書いた小沢浩氏(富山大学教授)、ヤマギシ会を称賛し勧誘に多大な役割を果たした評論家の鶴見俊輔氏や反公害の旗手・宇井純など多数の学者・知識人と違い、櫻井氏は社会に流布していたマインド・コントロール論を批判する論文を書いただけのことである。それまでには統一教会を批判する論文も発表している。彼や彼の論文が勧誘拡大に利用されたわけでもない。

 櫻井氏に問題があるかどうかは、マインドコントロール論を批判した論文が間違っているかどうか、非科学的だったかどうかにある。しかし、論文発表から10年経つが、彼の論文を批判した出版物や学術論文はないし、日本とアメリカの宗教学、宗教社会学でマインドコントロール論を有効とする学者もいまだいないはずだ。つまり論文に問題はなく、今でも彼の批判は社会的に有効なのである。

 繰り返しになるが、提訴された統一教会がマインドコントロール説を否定するために、櫻井氏の論文を証拠として法廷に提出した。それが問題にされただけのことのである。統一教会が証拠として利用しなければ、彼は知人や仲間内から批判されることはなかったはずだ。
 櫻井氏に問題があったのではなく、「統一教会を利する人間は敵になる」という前述した戦争の心情・論理が働いただけのことである。
「あなたの論文が統一教会擁護に使われているが、それを承知でマインド・コントロール論批判をされたのか」
 まさに戦争の論理である。
 何気なく読めば、学問の方法論を問いただしているように思える。しかし、学生運動が華やかりし頃の70年代、多くの学生は産学共同路線を批判し、大学の教員たちに学問の方法論(<誰のための学問か>)を問うたことがあるが、それとは次元を異にする話である。


 法廷闘争にマインドコントロール論は有効か

 問題があるとすれば、それは学問レベルではなく法廷闘争レベルにある。
 統一教会の違法性を立証するために、あえてマインドコントロール論を用いたことが適切だったかどうか、だ。この論を用いずとも事実認定レベルでの違法性の立証は事案にもよるだろうが可能だったのではないか。
 そもそも、アメリカをルーツとするマインドコントロール論は、日本では静岡県立大学の西田公昭氏などごく一部の社会心理学者(心理学には発達心理学、宗教心理学、精神分析学など様々な分野がある)が主張していただけで、宗教学や宗教社会学では認められていなかった。というより相手にされていなかった。マスコミの影響によって流行語になるほど社会には浸透していたが、学問的、科学的には危うい理論だった。
 その理論を用いて、違法性を立証しようとしたことに、無理があったのではないか。そのことを抜きに、原告側代理人たちが「統一教会擁護に使用されている」と櫻井氏を詰問するのは、お門違いというもんだ。

 学問のあり方として問題があるとすれば、その後の櫻井氏の学者としての姿勢の変化にあると思う。
 前述の伊藤氏の論文によれば、「(櫻井氏は)こうした体験から、自分が書いた論文の社会的影響力について深く考えるようになったという」。しかしながら、縷々書いてきたように、仲間内から批判されただけのことで、社会的影響力というほどのことではまるでない。
 それにしても、フォトジャーナリストの藤田庄市氏の批判はさぞかし激しいものだったと想う。藤田氏は宗教的知識が豊富(並の宗教学者より詳しく、私も顕正会、親鸞会の記事を書くときにはアドバイスをもらった)で、宗教被害者の立場に立つという旗幟を鮮明にしている人である。曖昧な物言いが嫌いで、江戸っ子らしいべらんめえ口調で話すのが特徴だ。 「統一教会の犠牲者たちを、うしろから斬りつける役割をあんたはやったんだよ」
 いかにも藤田氏らしい物言いである。おそらく、彼の口調や勢いに櫻井氏は震え上がったと思う。

 櫻井氏の本では、藤田氏のことには触れられていないが、このときのことが「統一教会を告発する弁護団や統一教会批判の団体に批判された経緯がある」(p21)と簡単に記されている。


 「外堀からの調査」の限界

 本題から外れること長しである。本題に戻す。
 櫻井氏の方法論(外堀からの調査)を思い起こしてもらいたい。
「具体的には脱会者や教団に批判的な信者から資料を提供してもらう(略)当該教団を批判する団体に加わりながら」
 つまり、この方法によれば、宗教・教団を研究しようとすれば、教団に批判的な脱会者や団体に情報を依拠するしかない。その団体から批判される存在になれば、情報源を失い、研究ができなくなってしまうのである。
 櫻井氏が深く考えるようになったのは「社会的影響力」ではなく、人間関係を背景にした「自分の研究への影響力」だったと推測する。
 人間関係がこじれたままであれば、研究はできなくなる。それゆえ、「カルトに批判的な視点」から「反カルトの立場」に移行せざるを得なくなったのだと思う。比喩的にいえば、企業を研究する場合、企業からの情報提供に依拠すれば、企業のご機嫌をうかがうしかない。それと同じである。
 ちなみに、私も拉致監禁説得の実態を描いてから、一部の反統一教会のメンバーから取材を拒否されるようになった。だからといって、拉致監禁の悲惨さに目をつぶるわけにはいかない。取材拒否は自分たちに都合の悪いことがあるか、あるいは狭量ゆえのことだと思っている。


 変節

 櫻井氏と私は統一教会に批判的という点では同じだと思う。
 批判的なのだが、私は拉致監禁による脱会説得は問題だとルポで述べ、櫻井氏はオウム報道をきっかけにマインドコントロール言説を批判する論文を発表した。

 リアクションは同じようなパターンをたどる。
 私のルポを統一教会がコピーし信者に配った。信者はそれを統一教会に反対する信者家族に送った。それを知った弁護団は「大量にコピーした」と、いかにも私が統一教会に利用されているようなことを内部文章で書いた。また前述したように、金をもらってルポを書いたと水面下で誹謗中傷している。
 あまり気持ちがいいものではないが、ルポには事実に反したことは書いていないし、子どもを脱会させようと考えている家族には「拉致監禁説得は子どもを傷つけ、ときにはPTSDを発症させる危険な脱会方法である」ことを知ってもらたいと願って記事を書いた。大量コピーは著作権法上問題ではないかと顔をしかめざるを得ないが、それでも読まれないよりは、コピーしてでも信者家族を含め多くの人に読まれて欲しいと願っている。

 一方、櫻井氏の論文は統一教会が法廷に提出し、原告弁護団らから批判を浴びた。
 櫻井氏は反論することなく、批判を甘受し、“社会的影響力”を考えるようになった。その結果、マインドコントロール言説を批判しなくなった。
 今回の本では、マインドコントロール論について小さなコラムで紹介するにとどまり、「他者に対する影響力(マインドコントロールのこと)の行使は、その目的・手段・結果から、社会的に許容されるものか否かを判断するべきだろう」といった見解しか記述していない(P118)。
 このコラムのタイトルは<「マインド・コントロール」は悪か?>。この見出しに彼の矜持が少しばかり見えるが、マインドコントロール言説が議論の俎上にあがったのは、「社会的に許容されるものか否か」ではなく、「オウムや統一教会などに入信するのはマインドコントロールによるものかどうか」にあったはず。その核心部分がすっぽり抜け落ちているのだ。


 無残で哀れ

 櫻井氏も、私が批判している拉致監禁説得(ディプログラミング)には否定的なはずだ。もっとも、刑法に触れるディプログラミングを公然と肯定する人はいないが。
 否定的であっても、牧師たちがやっている脱会活動を批判し、私のルポを肯定的に紹介すれば、反統一教会陣営からまたまた批判を受ける。そのため、本では「ディプログラミング」と記述すべきところを「脱会カウンセリング」に言い換えるなど、「ディプログラミング」と「脱会カウンセリング」の2つの用語を巧みに意識的に使い分けて記述している。
 そして、ルポで書かれた「現実」(拉致監禁説得の事実、それによるPTSDの発症)を“薄める”ために、ルポに書いてないことを書いたことにしたり、3人の女性のPTSDの原因を他の要因に求めたり、ルポに引用した女性の言葉を恣意的に解釈したりしたのである。
 質問で執拗に「私や当事者になぜ取材しなかったのか」と書いたが、執筆段階からルポを曲解することを予定にしていたため、取材などはじめから思いもよらないことだったのだろう。だから、私の具体的な質問に回答することができなかったのだと思う。

 まあ、陰でカルトよろしくあることないこと言っている人々よりは正面切って批判するだけましだが、書物の「他者に対する影響力」は絶大である。櫻井氏の言葉をもじれば、こういうことになろうか。
 『「カルト」を問い直す』(第3章)は目的(拉致監禁脱会の悲惨な現実を過少評価する)、手段(ルポを曲解して記述する)、結果(読者が間違った認識を持つ)から、社会的に許容できないものである。
 もう一つの“結果”として、拉致監禁説得を否定しないメンバーからは拍手喝采されたと聞いている。
 研究者としては哀れ、無残というしかない。


 宗教をやめさせる自由とは

 長くなったが、最後に2通目の回答に触れておきたい。
 回答を引用する。
 <拙著には、米本様が所論として要約された「宗教をやめさせる自由がある」という表現も一般論も書かれていないことにご注意頂きたいと思います。拙著113・114ページが直接的な該当部分です>

 私はどう質問していたか。
<一般図書で宗教社会学者が「宗教をやめさせる自由がある」という見解を述べられたのは、社会的影響力の点で看過できない重要な問題を含んでいます。本を読んだ信者家族がそういう自由があると思い込み当然の権利として脱会行為(脱会説得ではなく)に走る可能性があるからです。したがって、この自由についてだけは見解を求めたいのです。学者としての社会的責任があります。しかし、忙しくて回答を書く時間がないというのであれば、この自由論について他の宗教学者なり法律家などが書いた書籍あるいは論文を教えてください>

 では、櫻井氏が示した該当部分はどうか。
 注意しておきたいのは、この該当部分の章は「宗教をやめない自由VSやめさせる自由」となっており、中見出しは「信仰をやめない自由/脱会させる自由をどのように考えるか」である。

<本章では、脱会カウンセリングを事例として、特定教団の信者をやめる自由(やめさせる自由)とやめない自由(やめさせない自由)の相克を見てきた。その対応関係はねじれており、じっさいのところ、家族や関係者が現信者をやめさせる自由と現信者のやめない自由、教団が現信者をやめさせない自由と現信者のやめる自由とが対応している。前者は脱会カウンセリングの状況そのものであり、後者は教団の信者に対するマインド・コントロールとして問題化されている。一方の自由度を高めると他方の自由度が低くなるというジレンマがある。
 元信者側、現信者側とも、主張はきわめて似通っている。ある人にとっては「信教の自由」が侵害されて、特殊な信仰の下で人生を費消されてしまった。別の人にとっては、「信教の自由」が危機に瀕する事態にさらされてしまった。彼らに働きかけた教団は「布教の自由」を主張し、脱会カウンセリングを施す信者の家族とカウンセラーは、「精神の自由」を主張する。一方は、「マインド・コントロール」という精神操作の勧誘・強化方法の特殊性を論じ、他方は「拉致監禁」「強制説得」「強制改宗」という精神操作の特殊性を批判する。
 一般読者にとって、どちらの議論に正当性を認めるかは、畢竟、統一教会という教団への評価如何によるものではないか。研究者、ジャーナリストといっても、この問題に対して何ら特権的地位から客観的評価を下せるものではない。つまり、どちら側の自由度を高めるべきかという問題に、何人の人権・自由を最大限認めるべきだといったところで、みずからの立論を正当化する根拠にはならないのだ。
 ここで室生や米本が主張した抽象的な人権論や「信教の自由」といった概念の限界が明らかになる。(あと4行は省略)>


 櫻井氏の巧妙さ

 この一文については最初の質問書のLとMで言及しているので繰り返さない。
 質問、回答、該当部分の3つを照らし合わせて読んでみればわかる通り、櫻井氏の回答は意味不明である。
 確かに、本の中で「宗教をやめさせる自由がある」という見解は述べていない。
 だが、信者家族はこの自由を主張していると述べている。
 ところで、私はかなりの数の信者家族と接触してきたが、そんな主張をしている人にはいまだかってお目にかかったことがない。そこで、最初の質問のM「宗教をやめさせる自由なんてあるのでしょうか」で、そのことを質問した。
 回答はなかった。
 信者家族はその自由があるとしたあとで、一般読者がこの自由の正当性を認めるかどうかは「統一教会という教団への評価如何によるものではないか」と述べている。
 社会が統一教会をどう評価するかによって、「宗教をやめさせる自由」の正当性が決まると、自分の見解は避けている。しかし、櫻井氏が示した当該部分以外では、統一教会信者は「騙された人」と記述している。
 であれば、櫻井氏が信者家族には統一教会をやめさせる自由があると述べているのに等しいではないか。そして、一般読者にもこの自由の正当性を印象づけるように仕向けている。
 実に巧妙なのである。
 櫻井氏は見るからに素朴で実直そうな学者である。それだけにある種恐ろしさを感じる。

   なお、今利裁判の和解について、質問もしてないのに、回答をもらっているが、これについてはこのホームページで管理者がアップしているので、それを読んでもらえばいいと思う。今利理絵氏の両親などは「(親子の話し合いだと主張してきた行為が)問題行為」であったことを和解で認めたのであり、今利氏と、両牧師を除く被告側の両親・妹・親戚・父の知人との間には和解の解釈に違いはない。櫻井氏の回答は間違っている。


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