櫻井氏への質問の詳細13

Lルポのどこに信教の自由を主張している部分があるのでしょうか。
 =第3章全体、p113の「6 信仰をやめない自由/脱会させる自由をどのように考えるか」)

櫻井:「本章では、脱会カウンセリングを事例として、特定教団の信者をやめる自由(やめさせる自由)とやめない自由(やめさせない自由)の相克を見てきた。その対応関係はねじれており、じっさいのところ、家族や関係者が現信者をやめさせる自由と現信者のやめない自由、教団が現信者をやめさせない自由と現信者のやめる自由とが対応している。前者は脱会カウンセリングの状況そのものであり、後者は教団の信者に対するマインドコントロールとして問題化されている。一方の自由度を高めると他方の自由度が低くなるというジレンマがある」
「研究者、ジャーナリストといっても、この問題に対して何ら特権的地位から客観的評価を下せるものではない。つまり、どちら側の自由度を高めるべきかという問題に、個人の人権・自由を最大限認めるべきだといったところで、みずからの立論を正当化する根拠にはならないのだ。
 ここで室生や米本が主張した抽象的的な人権論や『信教の自由』といった概念の限界が明らかになる」

 まず最初に、後の引用文についてです。私のルポのどこに抽象的な人権論や「信教の自由」を振りかざした部分があったのでしょうか。文字そのものとしても「基本的人権」とか「信教の自由」はまったく書いていません。@やDなどでも批判しましたが、ルポを曲解して、論じるのはやめてください。私のルポは、
(イ)反統一教会陣営が信者の家族に対して統一教会を犯罪者集団として必要以上に邪悪な団体だと煽りたて、信者のままでいると犯罪の加害者になると不安がらせ、そして信者はマインドコントロールにかかっているから脱会には保護説得(監禁下での説得)しかないと教え込む過程
(ロ)拉致監禁の実態
(ハ)監禁下での説得の実態
(ニ)説得によって信者は脱会したものの、PTSDにかかり、数年を経過した今でも社会復帰ができていないこと
――を書いています。
 抽象的な人権論や「信教の自由」といった“高尚なレベル”のことはまるで主張していません。
 書いていないことを書いたかのようにして、櫻井:「ここで室生や米本が主張した抽象的的な人権論や『信教の自由』といった概念の限界が明らかになると、運動家のそれらしく高揚された気分で宣言されても困ってしまいます。
 ルポを誤読されたわけでなく(信教の自由の5文字すら書いていませんからね)、意図的にねじ曲げ、カルトに批判的な記事を書いてきた私を意識的に、統一教会側に立って批判しているように見える室生氏と同列に置き、まとめて批判する。これは俗流学者のレトリック、もしくはセクトの手法です。