櫻井氏への質問の詳細9

Hインタビューもせずに当事者の心理を表現することは許されることなのでしょうか。
 =(p107)

櫻井:「2000年1月28日、新潟で小学校4年生時から9年2ヶ月もの間、男に監禁されていた少女が保護された。(略)少女は親元に帰ることだけを希望に生き抜いた。心身の傷痕は想像を絶する。(略)この事件報道で「監禁」の文字を見た際に、米本が紹介した元信者は自身の拘束されたカウンセリングを想起し、次のように語った。『監禁された少女の事件を知って、羨ましくて涙が出た。あの子はいつか両親が助けてくれるという希望があったわけでしょ。そして現実に救い出された。私は実の親にレイプされたような気がするんです』。
 この脱会カウンセリングを批判する元信者の言葉を米本はその通りに受け取っている。しかし、彼女の気持ちを受けとめたうえで、やはり、そのような表現の裏にある親との葛藤や心身症的状態を考慮すべきではないか。すなわち、彼女は自己承認を親や周囲の人々に求めたが、十分に受け入れられたという感覚を持つことができなかった。少女の境遇と自分の境遇に比べて、客観的に自分のほうがむごい扱いを受けたと言っているわけではない」

 一度しか会ったことのないという高須美佐さんの心理分析について、どうしてここまで詳細に書くことができるのか不思議でなりません。
 先の質問の繰り返しですが、高須美佐さんに取材されたのでしょうか。
 インタビューをされていないとすれば、どうしてここまで高須さんの心理について断定的に書くことができるのでしょうか。
 取材記者と違って、大学教授、宗教社会学者ならばインタビューせずに生きている人の心理分析をすることは可能である、あるいは許されるということなのでしょうか。
櫻井:「彼女は自己承認を親や周囲の人々に求めたが、十分に受け入れられたという感覚を持つことができなかった」
 この断定記述は、櫻井さんの知ったかぶりの創作以外のなにものでもありません。
 学者としての姿勢を疑わせるのはこれだけではありません。

 前述したように、櫻井さんは高須さんのホームページを読んで、その感想文を高須さんに送っています。自分の心の内を赤裸々に語っているこのホームページで、高須さんは新潟監禁事件についてこういう思いだったと綴っています。

<しかし、その活動(拉致監禁をやめさせるための活動)一つ一つに限界を感じ、監禁の問題もこれ以上自分に何ができるのかわからなくなってしまったところから、精神的に混沌とした状態になってきたように思う。
 更に追い討ちをかけたのが2000年の初めに発覚した新潟の監禁事件である。
 連日の監禁事件の報道、電車に乗ればつり革広告に”監禁”の文字が載っている。
 そのような環境の中で次第に監禁のトラウマがフラッシュバックとして現われてきたように思う。
 “監禁”の文字を見るたびに監禁された時のことがフラッシュバックとなって思い出される。
 親や家族、家庭の話しを聞くたびにパニック状態に陥るようになっていった。そしてまた、新潟の監禁事件は「いつか親が助けに来てくれる」そういった希望があっただけよかったと、羨ましくなり涙が溢れてくる。
 自分の監禁時のことを思い出すと、監禁したのが親であり兄弟も親戚もそれを容認していた。
 当然警察も助けてなどくれない。
 一生ここから出られないという絶望感だけがあった。
 そして、鬱状態に陥り何をしても楽しく感じられなくなった>

 この記述を読んだ櫻井さんは、「ホームページの内容は重く受けとめた」と高須さんに感想メールを送っています。それにもかかわらず、本ではこのことを無視し櫻井:「少女の境遇と自分の境遇に比べて、客観的に自分のほうがむごい扱いを受けたと言っているわけではない」と、いとも簡単に高須さんの重さを否定する。
 数年前に読まれたがゆえに忘れてしまったからかとも思いましたが、本を書くにあたってはホームページを参照したと明記されている(p105)。ということは、自分にとって都合が悪いことは意図的に無視した、ということです。
 ここまでいけば、学者としての姿勢を疑わせるというレベルを通り越し、拉致監禁の悲惨さを打ち消す反統一教会の「御用学者」に成り下がったというしかありません。
 質問します。高須さんのホームページの記述をどうして無視したのですか。