櫻井氏への質問の詳細2

A実名報道の経緯をなぜ当事者に確認しないのですか。
 =(p103〜103)

櫻井:「米本の事例は、脱会カウンセリングの後遺症に悩み、牧師を告発するという元信者の証言によっている。しかも元信者たちは実名で登場し、路上で拘束され、マンション等で説得を受けたことを生々しく回想し、1名はアトピーに悩む顔写真まで公表している。それは証言の真実性を裏打ちするものだが、(元)統一教会信者である彼女たちの実生活に今後どのような影響を及ぼすかが懸念される。つまり、『鬱状態』『離婚』『生活保護』、そして、数年間統一教会で活動していた過去を周辺の人たちが知った時に、それが彼女たちへの新たな負のスティグマ(負の烙印)となって、社会的孤立を深める可能性もある」

 私が3人の女性を実名で記事に取り上げたことを問題にされています。
 一般に取材者は記事にする際、証言の真実性を裏付けるために実名を望みますが、最終的には取材対象者の希望を尊重します。これがジャーナリズムの原則です。
 ルポに3人の女性が実名で登場したことは彼女たちの希望でした。かなり時間をかけて考えられたようですが、櫻井さんが指摘しているように「鬱状態、離婚、生活保護、元統一教会信者であることが負の烙印となって、社会的孤立を深める可能性がある」ことも熟慮した上での結論でした。
 実際、高須美佐さんは自分のホームページ<みさちのひとり言>で、黒鳥牧師が霊感商法被害弁連の集会で実名報道を櫻井さんと同じように批判的に述べていることに対して、「私達から実名で書いてもらうよう頼みました」と反論しています。
 しかし、櫻井さんは、実名がどんなに彼女たちの希望であっても、今後のことも考慮に入れて匿名にすべきだったと、言いたかったのかもしれません。
 もしそうであれば、記事にされる前に、なぜ実名にしたのか、問い合わせるべきだったと思います(私がこの手紙で疑問点を質問しているように!)。
 私は櫻井さんと何度か顔を合わしていますし、メールで一度だけやりとりをしたこともあります。私ばかりか、本の中で「(筆者は)数年前、3人のうちの2人に会ったことがある」(p108)と、宿谷麻子さん、高須美佐さんとは面識があったことを明かしています。高須さんによれば「私のホームページを読んだ感想文がメールで送られてきたことがある」そうです。そうであれば、「どうして実名にしたのか」質問することは簡単にできたはずです。
 なぜ、実名報道の経緯を当事者に確認されなかったのか、教えてください。

 ところで、櫻井さんのホームページには宿谷麻子さんのホームページがリンクされています(「夜桜餡さんの救出・保護への意見」、ホームページ名は<夜桜餡>)。冒頭の「夜桜たるもの」を読まれたことはありますか。
 最初の一行に「はじめまして、夜桜こと宿谷麻子(シュクヤアサコ)と申します。皆様、訪問有難う御座います」と書かれていますよ。
 櫻井さんは、私が宿谷さんを実名で取り上げたことを批判していますが、ご自身のホームページをクリックすれば何のことはない。宿谷さんは実名で登場している。なんとも滑稽な構図というしかありません。(彼女のサイトをリンクから外すべきだと決して思っているわけではありませんよ)
 実名報道の経緯について説明しておきます。
 宿谷さんたちはルポに実名で登場するまでは匿名の存在でした。
 それこそ、「鬱状態」「離婚」「生活保護」「元統一教会信者」であることが「負の烙印」となり、社会的孤立を深める可能性があるのではないかという恐れから、匿名の存在になっていました。しかし、記事で匿名か実名かの選択を迫られたとき、彼女たちの認識は変わりました。
 「元統一教会信者」は別にして、自分たちが負の状態になったのは、自分たちの責任ではなく、牧師の指導によって家族に拉致監禁され、監禁という異常な環境下で脱会説得されたからだ。このことをしっかり認識されるようになったのです。拉致監禁によってPTSDになったのに(被害者なのに)、どうしてこそこそと匿名の存在であり続けなればならないのか。そのことに気づき、彼女たちは実名を希望した。決して、考えなしの安易な希望からではなかったのです。ちなみに、離婚も生活保護も根っこにあるのは「拉致監禁によるPTSD」です。
 櫻井さんが本を書かれる前に、宿谷さん、高須さんに質問されていれば、彼女たちの認識の変化を知ることができたはずです。私に質問されても答えることができました。それゆえ、なぜ質問しなかったのか、疑問でならないのです。  櫻井さんの本を彼女たちは読みました。
 「この人は、私たちのことを考えるポーズを取りながら、その実、一段下に置いて見ているのではないか。見下しているのではないか。侮辱的な感じがする」
 これが彼女たちの感想です。

 この感想と関連するのことなのですが、元統一教会信者だったことを実名で明かしている人は少なくありません。統一教会を訴えた元信者たちです。大著『青春を奪った統一協会』(緑風出版、2000年)では元信者は実名で登場しています。
 櫻井さんの本では、この本での実名記載への言及はありませんでした。紙数の都合、構成上の問題もあったからなのでしょうが、私に指摘されたのと同じように「社会的に孤立する可能性がある」と、編者である「青春を返せ裁判東京弁護団」に対しても批判的態度を取られるのでしょうか。教えてください。
 これは推測なのですが、櫻井さんの姿勢は、統一教会を告発する元信者が実名で登場するのはかまわないが、統一教会に反対している牧師を告発する元信者の実名は“憂慮する”−ということではないでしょうか。もしそういう区別をしていたとしたら、櫻井さんの姿勢は学者としてはあまりにも党派的すぎます。
 彼女たちは櫻井さんのこの区別を敏感に察知し「私たちのことを見下している」と感じたのだと思います。
 ちなみに、高須美佐さんは元統一教会信者であったことを友人に隠してはいません。だから、負の烙印になるとは思っていません。実際、私もカルトとは関係のない取材の過程で、「実は前に統一教会の信者だったことがあるんですよ」と聞くことがありますが、負の烙印なんかおしません。