『「カルト」を今問い直す』への感想

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1 櫻井教授は拉致監禁の被害を軽視しているように感じます。

@ 池本・中村の症例はわずか一例であり、脱会カウンセリングを受けた元信者の典型とは言えない。(P104)と櫻井教授は述べています。しかし私にはPTSDに典型的に見られるこれらの症状を数多く持っています。私のほかにも高須美佐さん、中島裕美さんにもほとんど同じような症状があります。櫻井教授は、ただ一例だけの症例を揚げただけで、私達の症状を軽んじている気がします。更に、症状を軽んじる事で、この拉致監禁の被害をも軽視しようという雰囲気を感じます。

A そうした時間・空間(統一教会時代の充実した生や喜怒哀楽の瞬間)が一方的に断たれてしまうことに対する痛みや恐怖心が(脱会者には)当然ある。それをカバーできるだけの家族のサポートやカウンセラー側のケアがあるかどうかが、やはり問題なのだと思われる。『統一教会は問題だが、監禁は本当に苦しかった。少なくとも強引な路上保護だけは絶対に止めてほしい』という本人の訴えは、結局のところ、この問題を示唆しているように見える」(P105)と櫻井教授は述べています。私の苦しみは、脱会後のケアにあったものではありません。 私がこのHPで述べているように、拉致監禁自体が「絶対的な苦しみ」であったのです。その事を私に確認を採りもせず、何故、私のこの心の叫びを歪曲されるように記述するのでしょうか。櫻井教授は故意に、拉致監禁が苦しみの少ないものに捉えるように書いているとしか思えません。

B たしかに、第一段階への導入と第二段階への移行がうまくいかなかったということがPTSDの原因であったかもしれない。(P106)と櫻井教授は述べていますが、私が実際にPTSDになった原因は拉致監禁によるものです。心療内科の医師によってそのように診断も受けています。第一段階への導入と第二段階への移行がうまくいかなかった。というのは、明らかに誤りです。櫻井教授が、私のHPを良く読んでいれば、或いは私に直接確認を取れば、この様な憶測による誤った記述にはならなかったでしょう。大学教授だからといって、勝手に他人の病気の原因を特定する事は、許される事ではありません。これは、櫻井教授の教授としての資質が問われる問題だと思います。また、櫻井教授はPTSDの原因を勝手に解釈変更することによって、消し去り薄めたいのだとしか思えません。

C また、米本氏の質問のとおり、この文章は曖昧であり、二通りの解釈ができます。「第一段階」の「物理的脱会」が、信者の納得をぬきに、いきなり拉致監禁し監禁下で「話し合い」をすることを意味するのであれば、それは私の精神科医の診断と同じです。しかし、櫻井氏が述べている「物理的脱会」が、「信者が納得して説得に応じた」という意味だとすると、どうして、PTSDになるような心的外傷を受けることになるのか、意味が通じません。櫻井教授は、この様に曖昧にPTSDを論じる事によって、拉致監禁のPTSDの問題の原因を、曖昧にさせようとしている気がします。

D すなわち、彼女は自己承認を親や周囲の人々に求めたが、十分に受け入れられたという感覚を持つことができなかった。少女の境遇と自分の境遇に比べて、客観的に自分のほうがむごい扱いを受けたと言っているわけではない。(P107)と櫻井教授は述べています。しかし、高須さんは、「"監禁"の文字を見るたびに監禁された時のことがフラッシュバックとなって思い出される。親や家族、家庭の話しを聞くたびにパニック状態に陥るようになっていった。そしてまた、新潟の監禁事件は「いつか親が助けに来てくれる」そういった希望があっただけよかったと、羨ましくなり涙が溢れてくる。自分の監禁時のことを思い出すと、監禁したのが親であり兄弟も親戚もそれを容認していた。当然警察も助けてなどくれない。一生ここから出られないという絶望感だけがあった。そして、鬱状態に陥り何をしても楽しく感じられなくなった。」とHPで書いています。櫻井教授の述べている事は、高須さんの気持ちを全く察していません。それどころか、高須さんの苦しい気持ちを否定して述べています。拉致監禁の被害を、故意に薄めていようとしているように思います。

E 第一に日本脱カルト協会をはじめ、脱会カウンセラーが研修を行うグループやネットワークでは、カウンセリングの倫理条項を定めており、クライアントに対するインフォームド・コンセントを取らずにカウンセリングを行うことはあり得ない。(P115)と櫻井教授は述べています。しかし、私の拉致監禁を指導した黒鳥牧師や清水牧師はインフォームド・コンセントを取らずに、無理矢理、監禁現場に入り込んで、カウンセリングと呼べない説得を行いました。私はこの事が原因で拉致監禁のPTSDを患いました。櫻井教授は、日本脱カルト協会について、故意に誤った事実を記述していると思います。また、私の拉致監禁も、無かった事にしてしまうつもりなのでしょうか。拉致監禁の事実を無いものとして論述する事により、日本脱カルト協会は拉致監禁の被害の責任から逃れようとしていると思います。


2 櫻井教授は拉致監禁を隠蔽しているように感じます。

@ 物理的脱会(脱会カウンセリングへ移る)、精神的脱会(脱会カウンセリングを受けたことの意味と意義に納得する)。(P106)と櫻井教授は述べています。物理的脱会とは、私にとっては拉致監禁でした。脱会カウンセリングと呼べるようなカウンセリングも受けていません。また、カウンセリングを受けることにも同意していません。脱会カウンセリングとは、私がこのHPで書いたように実際には拉致監禁以外の何物でもありません。何故言葉を柔らかくして、そのような事実が無かったかのように書くのでしょうか。故意に、拉致監禁の事実を隠蔽しようとしているようにしか思えません。

A 米本のレポートや当人のホームページを参照する限り、この三名が十分な合意を得てカウンセリングに移行できたとは言えない。しかし、それ以上に問題であるのは、なぜこのようなカウンセリングを受けなければいけない状況にいたったのか、当人たちがカウンセリングを通して納得できなかったところにある。(P104〜P105)と櫻井教授は述べています。しかし、カウンセリングではなく、明らかに拉致監禁です。ある日突然、何の前触れもなく拉致され、監禁されたのです。何故その事を、カウンセリングと名づけるのでしょうか。そして、なぜ、カウンセリングだと納得しなければならないのでしょうか。これは明らかに、加害者が加害を隠す為の隠蔽工作です。この隠蔽工作に被害者である私たちが、これは間違いだ、拉致監禁である、と訴える事は、問題なのでしょうか。櫻井教授の発想は、加害者の発想そのものであるということを、はっきりと感じます。

B 精神的脱会(脱会カウンセリングを受けとことの意味と意義に納得する)(P106)と櫻井教授は拉致監禁を納得させる事を説明しています。これは、拉致監禁をした加害者が、被害者に対して、拉致監禁は必要な事であり正しい事だったと思わせる行為です。櫻井教授はこれを肯定していますが、この行為は、この被害を加害者が被害を隠蔽する工作にほかありません。


3 櫻井教授は拉致監禁に賛同しているように感じます。

@ このような学術的研究から米本の取り上げた三人の元信者の事例を考察すると、脱会時の脱会カウンセリング以上に、その後のケアを十分受けられなかった可能性が推測できる。(P104)と櫻井教授は述べています。私が思うに、脱会説得させる場合、まず、拉致監禁自体を無くし統一協会員(説得対象者)が自由に出入りできる場所で、説得させようとする者が統一協会員に対して、カウンセリングが必要である事を納得させてから初めて、カウンセリングを始めるべきです。櫻井教授は拉致監禁をここにおいて肯定しつつ、更に脱会者に心の中から監禁を封印させる手段を取ることが脱会の手順と考えているように思えます。これは重大な犯罪だと考えます。この脱会説得の手順を、最良の手順と考えているとしたら、櫻井教授は拉致監禁に賛同し加担している事になると思います。

A 本章では、脱会カウンセリングを事例として、特定教団の信者をやめる自由(やめさせる自由)とやめない自由(やめさせない自由)の相克を見てきた。(P113)と櫻井教授は述べています。しかし、宗教をやめる自由はあるとしても、宗教をやめさせる自由は、この日本の法律上どこにも存在しません。どこから、この様な論述を作り出したのでしょうか。櫻井教授は、自ら法律を作り、宗教をやめさせる自由(すなわち拉致監禁)が合法的であるように、印象付けようとしています。櫻井教授は拉致監禁について合法的だと思わせることによって、この拉致監禁に賛同していると思います。

B 第一に日本脱カルト協会をはじめ、脱会カウンセラーが研修を行うグループやネットワークでは、カウンセリングの倫理条項を定めており、クライアントに対するインフォームド・コンセントを取らずにカウンセリングを行うことはあり得ない。(P115)と櫻井教授は述べています。いかにも客観的に第三者的立場で、日本脱カルト協会のことを、社会的により良い団体であるかのように肯定的に記述しています。ここで注目したいのは、櫻井教授自身が日本脱カルト協会の理事である事です。自らの団体を、第三者のような振りをして、実際は拉致監禁をしている日本脱カルト協会を肯定し、宣伝しているように思います。

C 第二に、現在の脱会カウンセリングとは、『カルト』視される教団に入信した信者を抱える家族の精神的サポートを第一段階として、第二段階には家族の話し合いの支援、第三段階で脱会した信者のサポートを行う一連の、長期間にわたるカウンセリングを指す。(P115)と櫻井教授は述べています。第一段階の家族の精神的サポート、第二段階の家族の話し合いの支援があるのに、何故、第三段階脱会した信者のサポートの必要があるのでしょうか。第一段階、第二段階共に、カウンセラーによる精神的サポートが、十分になされていなければ、第三段階は必要ないはずです。拉致監禁による強制改宗を脱会カウンセリングと呼ぶこと自体、おかしな事です。ここではカウンセリングは行われてはおりません。脱会カウンセリングという言葉を用い、敢えて、第三段階を作らなくてはならないという事は、第一段階、第二段階に於いて、カウンセリングを行っていないということを、明らかにしているようなものです。櫻井教授は、あたかも、この脱会カウンセリングが正しい方法で行われているような記述をしていますが、これは明らかに拉致監禁による強制改宗です。それを、カウンセリングと名づける事により、拉致監禁が正しい事のように記述しています。


4 櫻井教授は拉致監禁の被害者を侮辱しているように感じます。

@ 『鬱状態』『離婚』『生活保護』、そして、数年間統一教会で活動していた過去を周辺の人たちが知った時に、それが彼女たちへの新たな負のスティグマ(負の烙印)となって、社会的孤立を深める可能性もある。(P102〜P103)と櫻井教授は述べています。しかし拉致監禁の被害者である私達が、何故、負のスティグマを負わなければならないのでしょうか。この考え方自体に問題があると思います。加害者が負のスティグマを負うのは当然ですが、被害者に負のスティグマを押す考え方は、被害者を侮辱した考え方です。櫻井教授の考え方自体が、被害者を侮辱し、社会から孤立させるものだと感じます。また、米本氏の質問にあるように、統一教会を告発する元信者が実名で登場しているにも拘らず、これらの方には実名記載への言及はありませんでした。しかし、統一教会に反対している牧師を告発する、私達のような元信者が実名で登場する事には言及する。この差別は何でしょうか。私はこの差別に憤りを感じます。櫻井教授は、さも、私達を心配しているかのような素振りをしながら、統一協会を告発する元信者から、私達を差別し侮辱しています。

A 彼女の気持ちを受けとめたうえで、やはり、そのような表現の裏にある親との葛藤や心身症的状態を考慮すべきではないか。(P107)と櫻井教授字は述べています。ここで、櫻井教授は、高須さんが心身的状態であると断定しています。高須さんの主治医の下した診断名は、拉致監禁によるPTSDです。主治医でも医師でもないにも拘らず、何故、勝手な診断名を付けるのでしょうか。これは、高須さんのプライバシーを侵す事であり、高須さんを侮辱する記述であるとしか思えません。


5 櫻井教授は犯罪被害者の人権を軽視しているように感じます。

@ それを考えると、彼女たちが家族に向けた鋭い言葉をそのまま残してよかったのだろうか。家族はもとより、本人にも痛みが残るのではないか。(P108)と櫻井教授は述べています。しかし例え親子であっても、その関係が被害・加害の関係にあるのならば、被害者が加害者にその痛みを訴える事は当然のことではないでしょうか。被害者には加害者に対し痛みを訴える権利があります。櫻井教授は加害者に傷が残るとして、加害者の心を重視し、被害者の心の傷を訴える権利を否定しているように思います。

A 私の両親や親族たちは、私の被害者としての心の叫びに真剣に耳を傾け、加害者として、謝罪してくれました。この事により、私の両親との絆、私と親族との絆は、さらに強いものになりました。心の傷を理解するという事は、その人を大事に思う心から発露してくるものです。その人を大切にする思いが強まったという事です。私が痛みを訴えた事で、私にも家族にも痛みが残るという考え方は間違っています。櫻井教授は、私が拉致監禁による痛みを訴える事を、否定しているように感じます。また、私が痛みを訴える事により、家族間の間に溝が深まるかのような印象を、読者に与えようとしているように感じます。


6 櫻井教授はPTSDについて無知であると感じます。

@ たしかに、第一段階への導入と第二段階への移行がうまくいかなかったといたことがPTSDの原因であったかもしれない。原因を特定することで、問題の根に気づき、それを解消できればそれにこしたことはない。しかし、症状が長引けば、初期の要因よりも現在の症状がさらに次の症状を生み出し、現状を改善する手だてが企てられなければ、さらに悪化するという悪循環に陥るだろう。このような段階では、初期要因を批判するだけで問題は解決しない。(P106)と櫻井教授は述べています。私が読んだ数々の文献によれば、「とても対処しきれないような心の傷となる体験(トラウマ体験)をした後に起こる病態を、心的外傷後ストレス障害、PTSDと呼ぶ。そのトラウマ体験とは、人間が通常に経験する出来事の範囲を超えている。強烈な恐れや恐怖感、狼狽、無力感を伴い、きびしい苦しみのうちに体験する出来事をいうのである。」とあります。私が読んだどの文献にも、初期の要因よりも現在の症状がさらに次の症状を生み出し、現状を改善する手だてが企てられなければ、さらに悪化するという悪循環に陥るだろう。というような症状、つまり、米本氏が要約したように、PTSD症状が長引けば、初期の要因(トラウマ)よりも現在のPTSD(ポストトラウマ)がさらに次の症状を生み出す、などと言う事は一切書かれていません。どこから、この様な聞いた事も無いPTSDの知識を得たのでしょうか。全く意味不明な論説だと思います。

A また、米本氏の質問にあるように、第二段階への移行過程で、どんなにうまくいかないことが生じたとしても、脱会を表明した信者(物理的に脱会した信者)が「衝撃的な体験」を受けるような要素は何一つないはずです。鬱病とPTSDは、ほぼ同じような症状を呈します。しかしPTSDが鬱病と明らかに違う点は、PTSDにはその症状を引き起こす「衝撃的な体験」が、患者の過去に存在するという事です。私にとって拉致監禁とは「精神の死」を意味する、「衝撃的な体験」でした。これが、私のPTSDの原因です。これ以外にはありません。このPTSDの原因となった拉致監禁の事実を、櫻井教授は薄めようとしているようにしか思えません。そういう意図で論じたのでは無いならば、櫻井教授はPTSDについて、如何にも良く知っているような素振りをして、実は無知なのではないかと、私は思います。

B 米本は第三段階のケアがじっさいに行われている事実を軽視している。(P115)と櫻井教授は述べています。しかしケアとは名ばかりで、その実際は日曜や木曜日の父母の会で、自分の体験を父母の前で話す事です。また、拉致監禁によって脱会した元信者に拉致監禁の手伝いをさせたり、強制説得中の牧師の補助をする事です。これは、心のケアになるどころか、拉致監禁を受けた元信者にとっては、ケアというより苦痛をさらに与え、その体験の反復になるのです。被害者に、この経験を積ませる事により、拉致監禁が正しい事と思わせるための行為です。これをケアと呼ぶのはあまりにも言葉を乱用しすぎだと思います。これをカウンセリングの一環というなら、余りにもPTSDについて無知だといわざるを得ません。

C 米本は脱会カウンセリングのトラウマにすべての要因を求めているが、後遺症は教団生活に由来するのか、脱会カウンセリングか、あるいは、その後の社会的不適応により発症したものか、弁別は難しい。一つの精神的疾患を生む要因は複合的であるし、一つの原因を取り除いただけで症状が緩解されるほど、脱会後の信者の生活は簡単なものではない。(P116)と櫻井教授は述べています。この論述を読む限り、櫻井教授はPTSDについて何も知らないと感じます。PTSDの原因は「その人の想像を遥かに超えた衝撃的な体験」である事です。統一協会生活で、そのような衝撃的体験を受けたことは一度もありません。また、統一協会時代にもそのような出来事を見聞きした事もありません。神と共に歩む穏やかな信仰的生活の中で、どのようにして衝撃的な体験を受けるのでしょうか。私や、中島裕美さん、高須美佐さんも、私と同様に拉致監禁によるPTSDと、はっきりと診断されています。何故、医師の診断を疑うような論述をされるのでしょうか。櫻井教授は、拉致監禁のPTSDの実態を知らずにいるとしか思えません。また、このPTSDの被害を、あたかも統一協会のせいだと摩り替えすり替えようとしているように思えます。


7 櫻井教授は米本氏のルポを歪曲しているように感じます。

@ このような批判に対して、家族関係者や牧師たちは、法廷で反論した。(P79)と櫻井教授は述べています。米本氏のルポや記事は、私のケースを含めいずれも裁判自体になったものではありません。櫻井教授は、裁判で敗訴となった室生氏の記事と、米本氏の記事を一緒に取り上げる事により、米本氏の記事を室生氏のそれと同じように捉え、米本氏の記事の本質を歪曲しているように感じます。

A 数年前、三人のうちの二人に会ったことがある筆者にも、彼女たちの主張の方向性は当時と変わらないが、その強さが増しているように思われる。(P108)と櫻井教授は述べています。私は高須さんと共に、パスカル氏のグループミーティングに参加し、そこに櫻井教授も同席していました。しかしここでは、10数人ほどの中で、お互いの悩みや苦しみの状況を確認しあっただけで、特に私たちの拉致監禁についてテーマを持って話しあわれたわけではありません。従って、私と高須さんも、拉致監禁の酷さを、かいつまんで話しただけに留まりました。その時、櫻井教授に個人的に詳しく話した事もありません。また、それ以降、櫻井教授とは会った事も話した事も有りません。何故、私と高須さんの主張の方向性の強さが増していると断言できるのでしょうか。私と高須さんは、HPで書いているように、初めから拉致監禁の酷さを訴えています。米本氏には幾度と無くインタビューを受けましたが、私と高須さんは主張の強さは変わらずにその旨を伝えただけです。私と高須さんの主張の強弱が変わったというのは、どのような経緯でそのように思われたのか、不思議でなりません。それとも、故意に米本氏によって私と高須さんの怒りが増すように仕向けられたと、読者に思わせたいのでしょうか。私にはそのように感じられます。

B ここで室生や米本が主張した抽象的な人権論や『信教の自由』といった概念の限界が明らかになる。(P114)と櫻井教授は述べています。米本氏のルポには、抽象的な人権論や信教の自由に対する事は取り上げられていません。どこからそのような論述を、作り上げたのか不思議でなりません。米本氏が書いていない信教の自由について、さも書いたように、読者に印象を与えようとしているように思います。



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