12月のつれづれ

徒然集INDEX


○12月29(金)
会社で大掃除と、締めのパーティー。私はビールを飲んで、ただ聞き役に徹する。酔っても話すことは何も無い。常務が来て、いじめの話を話題にして、大人の社会には、いじめなど無いような、話しぶりだった。しかし、大人の社会である、この会社にも、いじめは存在するのだ。
先週の金曜日の忘年会のときのことだ。私は、女性ばかりの席についていた。そこに工場長と専務が加わり、宴もたけなわになった。そこに、前に書いたミスばかりしている私の同僚が、この席に加わろうとした時の事だっだ。専務と工場長は口を揃えて、「お前は来るな。お前の顔なんか見たくない。何でここに来るんだ。あっちに行け。お前は働いていれば良いんだ。」と怒りながら言った。それを見て、女性陣は皆、声を立てて、膝をたたいて笑う。でも私は、笑えなかった。なぜこうした状況で笑うのか分からなかった。こういう女性の感性には辟易する。彼は、あからさまにいじめを受けているのだ。しかし、彼はいじめを受けている事を、理解していない。彼もまた笑いながら、工場長の傍に座る。工場長はおもむろに嫌な顔をする。
確かに彼は仕事が出来ない。皆の前で、たくさんミスをし、会社にも迷惑をかけている。その事を、会社の誰もが知っている。でも、だからと言って、こうも馬鹿にして良いのだろうか。私は彼と接するときには、普通の人と同じように接してきた。彼にミスが有っても、ただそれを指摘するだけだ。だが、彼に対して馬鹿にした行動はとってこなかったし、ミスを笑う事もなかった。
しかし、彼は明らかに彼の存在だけで、嘲笑されている。いじめと簡単に言うけど、いじめは人権侵害そのものだと思う。人を、人間以下に見下し、馬鹿にする事なのだ。いじめや差別は、子供だけの問題ではない。大人の中でも起こっている。
工場長までが、いじめをしているというのに、常務や社長のお偉方は、それを知らない。私は一人、陰鬱な気分になる。そして、会社のパーティが馬鹿馬鹿しくなった。
○12月25日(月)
ニュースで、テレビゲームの暴力性の悪影響を報じていた。確かに、コンピュータによって再現される映像は、バーチャルでありながら、更にリアリティに近くなっている。ゲームで、モンスターではなく、人間を殺すようになったのはいつからだろうか。私は、人間を殺すゲームは今までしたことがなかった。いくら、相手が敵だと言っても、相手が人間ならば、そのゲームはやりたくない。だから、人間が殺しあうゲームは避けてきた。私は確かにモンスターを殺す事に快感を得ている。モンスターは悪の化身なのだから殺してもいい。殺さなければ、私が、他の誰かが殺される。そして、人間は殺戮され魔物の世界に変わってしまう、そう言った理由で、モンスターの殺戮を繰り返し、自分がレベルアップすることに喜びを感じる。自分が正義となる為に戦い、悪を殺す事に、喜びを感じる。これは、人間の性なのか。しかし、ゲームでも私は、相手が人ならば殺したくはない。
アニメで、人間が人間を殺す事を描いたのは、確か「宇宙戦艦ヤマト」だったと思う。それでも、殺戮のあからさまな描写は無かった。実際に腕や頭が飛び散るようなシーンが出てきたのは、「機動戦士ガンダム」からだ。しかし、その最初のアニメで、殺した者は、殺した事に悩み苦しんでいた。その後、アニメで血肉が飛び散るシーンは、過激さを増していき、殺した者が苦悩する事もなくなっていった。漫画でも、そのように血肉が飛び散っている描写はリアルさを増し、善も悪もなくなり、殺しあう事に悩み苦しむ事もない。私が唯一読む漫画「ベルセルク」でも、人の内臓や脳や目が飛び散るシーンは当たり前で、私は既にこの様なシーンには無感覚になっている。バーチャルで無感覚の殺戮シーンは、余りにも当たり前になっているのだ。
でも、だからと言って、人を殺したいとは思わない。実際に人に対し、刃を振りかざし、銃で撃つことには、恐怖に感じる。バーチャルな世界で、殺戮シーンに無感覚になっても、現実の世界で、無感覚になってしまってはいけないのだ。これは人間の理性の問題だと感じている。現実に人が殺され、殺すことに、人は脅威を感じなくてはならない。
アメリカで軍の募集のために、人を殺すゲームをインターネット上に開設し、このゲームを体験して楽しんだ人が多かった事で、軍に募集が増えたということがあった。だが、こうした人の感性を、私は恐怖に感じる。人を相手に、銃を向け殺すゲームによって、人を殺す感性を麻痺させて、軍人とする。この感性が、私は怖い。
○12月24日(日)
深夜1時半ごろ目が覚め、その後2時間毎の浅い眠りの繰り返し。この頃はこのパターンだ。睡眠導入剤は効いてくれるのだが、睡眠剤は効いていないらしい。しかし、日頃の疲れからか、朝食後に眠り、昼食後にも眠る。やっと頭が冴えだしたのが、夕方5時ごろ。その後は、何も手につかないまま過ごす。
○12月23日(土)
ついに叔父が来る日がやってきた。叔父は感性的というより理論派なので、理論で話を進めて行こうとは思っているのだが、何を話すべきか、考えが及ばない。叔父が私のことをどれだけ理解しているかによって、その内容は変わってくる、と推測される。話を聞く前に考えても無駄なのだ。着替えて、顔だけメイクして、待つことにする。私の顔は今日も無表情だ。目だけがきつい。私は、自分の顔が昔の写真とずいぶん変わってしまったと、感じている。
叔父夫妻が来て、まず、叔父たちから、謝罪の言葉を聞いた。私を救うつもりが結果として、私を苦しめる羽目になってしまったこと。この事について、謝罪してくれた。 私は、なんと答えて良いのか返答に困る。謝罪してもらったところで、私の過去の記憶は消せない。PTSDが治るわけでもないのだ。私は、今私の抱えている、病状について、言葉と文書で淡々と説明する。今飲んでいる薬の一覧と、その薬の内容、そして、PTSDの症状について、そして過去の記憶が消せない事も話した。叔父たちはそれにも目を通し、改めて、私の病気の深いことを理解したようだった。
叔父たちは、監禁ではなく、強制改宗が私を深く傷つけ、PTSDの原因となっている、と思っていたようだが、それは誤りであり、強制改宗ではなく、拉致監禁そのものが、原因であることを私は話した。何とか、理解してもらえたようで、とりあえずほっとする。しかし、私の顔に笑みは浮かばない。
これにより、私の拉致監禁に加わった、ほぼ全ての親族に、拉致監禁の被害について理解を得られた事になり、謝罪も得られた。特に今日のように、私の一回目の拉致監禁を提案した叔父が謝罪した事は、とても意義のあることであった。そのことについては、高く評価をする。しかし、これで終わりと言うわけではない。これは、拉致監禁の被害と、そのPTSDの理解への始まりに過ぎない。

夜にテレビで、劇場版バイオハザードを放映していた。拳銃の弾が尽きても、死んだはずの人間が立ち上がってくる。最後は凄まじい破壊力を持った、おぞましいモンスターが襲い来る。しかし、怖いともなんとも思わない。このくらいのモンスターなら、毎回夢に出てきた。昔は夢の中でぐさぐさと殺され、刺されたところから身体が侵食されて、とても恐怖だったが、今では恐怖感も麻痺している。夢の中でモンスターが出てきても驚かなくなった。私を倒せるようなモンスターも出てこなくなった。
しかし、この映画はSFだからと言って侮れない。こうした内容は、未来に起こりうる可能性を十分に秘めていると思う。軍事目的による、生命体の不死と凶暴化は可能だ。遺伝子の組み換え技術は人間は既に持っている。遺伝子を、その生命体を限りなく凶暴化するように、組みかえればいいだけのことだ。人を殺すと言う罪悪感も、脳神経に電気信号を与える事で、無くす事も可能だ。また、細胞の分裂数を決めるテロメアの存在も発見されている。簡単に言うとテロメアを際限なく作り出せば、細胞は不死化する。また、どんな消毒薬でも死なないウイルスも発見されている。
抹殺するのが不可能な、凶悪で獰猛なウイルスは、既に軍事に使われている。軍事は、如何に味方の損害を減らして、より小型化したもので、より安価で、より多くの人を殺せるか、と言う目的の下、その限界の無い目的へと突き進んでいる。核爆弾よりも怖い生物化学兵器が、世界のどこかで作らている。今、どこまでそのような技術が開発されているか明らかにされていないだけだ。人間は自ら破滅への道をたどっている。もうそろそろ、科学文明とは手を切ったほうがいいと思うのだけれど、そうも行かないか。

○12月22日(金)
会社の忘年会があった。毎年の事なのだが、私にとって、こういった社員の触れ合う場と言うのは、とても面倒なのだ。職場では、もくもくと仕事をし、それ以外の私語は、殆どしない。ただ、与えられた任務をこなすだけなのだ。他の社員との付き合いも、仕事上で円滑に進められるような言葉しか交わさない。その人の内面に触れる事はお互いにしない。
私は無口な人と思われている。それでいいのだ。会合でも、やたらと話しかけて笑うようなことはしない。会合の席も一番端に座り、人の話に耳を傾ける振りをして、うなずちをうっている。一人タバコをくゆらせながら、美味しくもないレモンハイを飲む。なるべく、目立たないように、人が寄って来れない様な雰囲気を作り出す。そして、楽しんでいる振りをする。職場での私は、全て演技なのだ。全然酔えないが、酔っているふりをする。でも、これで、社会に溶け込んでいる振りをしていればいいのだ。
忘年会の帰りに、すぐに気持ちを切り替える。明日は、叔父が家に来る日だ。何を話そうか、と頭がいっぱいになる。話すことは山ほどあるが、整理がつかない。
明日の事は、明日考える事にしている。今日のことは今日だけで十分だ。今日も私は、(忘年会も含め)目一杯自分のできる事をした。さすがに疲れる。後は眠って、今日の嫌な事をすべて忘れ、明日に備えるだけだ。
しかし、この調子ではタバコはまだ止められそうにない。
○12月21日(木)
電車の車窓に映る自分の顔を見た。誰かに似ていた。そう、最強のホラーゲーム、バイオハザード(ゾンビに多い尽くされた町に一人残された主人公が、恐怖と孤独に耐えながら、襲い来るゾンビを撃ち殺し、町を脱出するというもの。タイムリミットはその町に、核爆弾が落とされるまで。)の主人公に似ていた。私の顔も、何時でも何があっても立ち向かえるように、周囲を睨みつけ、瞬時に視点を変え、周囲の人々の顔つきを窺っている。その顔に、表情は無く、冷淡で、きつい目つきをしている。孤独と恐怖と苦悩が入り混ざっている。顔つきは、人の心を反映するものなのか。私は映ったその顔に対して、にやりと笑う。
○12月20日(水)
会社で飲む飲み物が、全て美味しくない。インスタントコーヒーは苦いだけ、紅茶は渋いだけ、緑茶は味も香りも無い。ノンシュガーの飴だけが甘いと感じる。でも美味しいとは思っていない。ただ、何か口に含んでいないといられない。強い刺激が欲しいのだ。昨日昆布を試しに食べてみたら、やたらとお腹が張って苦しかった。まるで妊婦さんのようだった。しかも、お腹に溜まったままで、出てこない。植物繊維は胃と腸が張るだけで、活発化させない。腸内細菌がなくなってしまったのか。そこで、通販でビフィズス菌の注文をする。毎日ヨーグルトを買って食べるよりも効率的で安上がりだし、お腹も張らない。
○12月19日(火)
会社から帰ると、妹が子供を連れて来ていた。私が小さい頃、両親が仕事の為に子供の面倒を見ないので、私が親代わりになって、妹や弟に接してきた。妹や弟には、姉と言うより親というような、愛情を抱いていた。しかし、拉致監禁にその妹や弟が加わったことで、その感情は全く無くなった。反対に裏切られたと言う感じがする。妹には、私の病状は理解してもらっている。だが、妹や弟に感情移入することはなくなった。彼らの生活にも興味を持てない。だから、妹がいろいろと話しかけてきても、私は何も答えられない。妹は薬剤師なので、病名と薬を見ただけで、私の症状を理解している。妹は、自分がいると私の心が痛むことを知っている。その為、夕飯を食べるとすぐに帰って行った。私は、見送りにも行かなかった。妹と私の心は未だ離れているのだ。
夕食中、弟から母に電話があった。正月に子供を連れて、ここに来て泊まっても良いか、と言う内容だった。母が私にそのことを伝える。私は返答に迷う。弟やその家族に会っても、私は笑えないからだ。嬉しいともなんとも思わない。作り笑いをするのに疲れるだけだ。一緒にいても自分の居場所がない。そう思うと、弟の問いに私は嫌だと言いたかった。でも、暫く考えた後、来ても良いと答えてしまった。弟とその家族は、私の病状をよく理解していない。ただ、私だけが息苦しく感じているのだ。私だけ我慢すればいいと思った。でも、弟とその家族には、きちんと私のPTSDについて知ってもらう必要がある、と感じている。その日をいつにするのか、また迷う。

○12月18日(月)
身体が甘いものを欲しがっている。痩せすぎたせいかもしれない。一ヶ月前ごろから、和菓子をよく食べていた。おかげで、3キロほど体重が戻った。一気に太ったので、お腹周りにだけ、脂肪がついたのがよく判る。体脂肪率も増え、せっかく出来たくびれもなくなってしまった。くびれを取り戻す為に、甘いもの断ちをしようと思う。巷ではアンアパンダイエットなるものがはやっているらしいが、甘いものを食べて痩せようなんて、間違っている。ちなみにアンパンダイエットの前は、チョコレートダイエットがブレイクしていた。こんなもの、ただのはやりに過ぎない。根本からやる気がないと思わせる。本当に痩せたいと思うなら、必要な栄養素だけを摂って、後は何も食べなければいいのだ。食べるとしたら、蒟蒻か、きのこか、大根や白菜などのカロリーの少ない食材の煮物。後は普通に働く程度に運動すればいい。統一協会時代の断食の経験からすると、7日間何も食べなければ、5キロは痩せるし、水分をしっかり摂っていれば特に身体に異常は無い。今までの食生活の経験からも、痩せるには食べ物をどの位の量を摂取したら良いかは、身体で覚えている。もちろん、筋肉は落とさずに、脂肪だけ落とすことが可能だ。本格的にダイエット開始することにした。
それと、タバコを吸って、美味しくない事を再体験する。タバコも会社で残っていた数本を吸って、昼からやめることにした。どうせ生き延びる事を選択したのだから、自分がなりたい自分になることに決めた。

○12月17日(日)
昨日早速、叔父から、私に会いに着たいと言うことで、連絡があったらしい。私はそのことを母親から告げられたとき、不安の為即答できなかったが、結局今週の土曜の昼過ぎに会う事にする。私の心は緊張している。両親に、私が叔父に会うことを怖がっている事は、伝えられなかった。ただ、淡々とその日が来るのを静かに待っている。
拉致監禁の加害者でそれを理解していないのは、残すところ、あとは弟だけだ。実は弟の立場は微妙なのだ。私の拉致監禁には、弟は反対だったという。戸塚教会での黒鳥牧師の拉致監禁の説明にも、耳を傾けなかったそうだ。その為、加害者としての意識は低いと思われる。一度、拉致監禁について弟に話したら、「自分ばかり、可哀想みたいじゃないか」と言われた事がある。弟は、拉致監禁時、一人で家で自炊し、実家を守ったと言う苦労があるというのが言い分のようだ。しかし、私の苦しみはそれ以上なのだという事が分かっていない。弟は、選んで、その苦労を味わったわけで、私は選択の余地すらなかったのだ。そして、弟は拉致にも関与しているし、監禁現場にも度々足を運んでいる。弟が嫌々それをしていたとしても、被害者の目から見たら、弟はれっきとした加害者なのだ。
そうは思っていても、なかなかそれを口に出して言えるものでもない。何も考えずにいる事ができるように、ひたすら寝込む。タバコも金曜の夕方から止めた。

○12月16日(土)
心療内科に行く時間のぎりぎりまで10分ごとに時計を確認しながら寝て、昼過ぎにやっと起きる。心療内科で、今週あった事、特に叔父が私の文書を読んでくれ納得してくれたことを話した。医師は、記憶は消す事はできないし、いつまでも残る、でもほかの事に目を向けることで生きることができると、語った。被害の事以外で、何か楽しめるものを持つこと、それを伸ばしていきたいと医師は語った。でも、私は、私の周りに生きている拉致監禁の加害者が、全て加害者が加害を認めなければ、私は怖くて生きていけないのだ。特にそれが、親族であればなおさらだ。身近な親族が加害者であると言う事実は、被害者にはとても脅威である。そして、加害者がそれを認めないと言うことは、被害者を更に苦しめる。被害者と加害者は同等ではないのだ。常に虐げられている感じがするのである。私が恐怖感を払拭して生きられるようになる為には、全ての加害者の理解と謝罪が必要なのだ。私が本当に何かを楽しむことは、それからなのだ。

○12月15日(金)
かねてより、両親に、拉致監禁に加わった親族でまだ謝罪していない家庭へ、私のHPの内容を印刷したものを持っていって貰うように頼んでいた。それを、両親が突然今日の夕方、その家庭に書類を持って行ってくれた。だがそれまで、両親はそれを渋っていた。と言うのも、その親族が宗教に入っていた経歴が有り、自分のしたことはすべて正しいと思っている人たちで、私を拉致した事が酷い事だと説得するのは難しいから、私の書類を持って行くのは嫌だ、と言う事だからだ。しかも、父親は、その苦しみは、麻子のものだから、麻子が説得すべきではないのかとも言っていた。しかし加害者に説明する事は、被害者にとってとても苦痛を伴うことだから、私はその親族に直接会って説明する事を拒絶し、ひたすら両親に持っていってもらうように頼んでいた。そこで話は平行線のまま、話は立ち消えになってしまったかのように思われた。でも両親は、私がその親族に直接会って話すことができないことや、そのことで今も苦しんでいる事を、心に留めていたらしい。その親族は仕事で夜も帰りが遅く、土日も暇がないため、なかなか会う機会が無かった。でも、今日、今の時間(夜8時ごろ)居る、と分かったと見るや、母親は、「今書類を持って行っていく」と言い出した。すると、前は嫌だと渋っていた父親も、「俺も行く」と言って、すぐに支度をして、二人で親族の家に向かった。
私は、家で待っている間、私の書類を親族に読んでもらうために、両親が手をついてお願いするのだったら、意味はないし、被害者として屈辱的だと思っていた。そんな事ばかり考え、憂鬱な面持ちで両親の帰りを待った。
ところが、両親が帰ってくると、意外な展開が待っていた。両親がその親族に「麻子のことでこの書類を読んで欲しい」と言うと、親族のおじは「麻子さんの事なら、すぐ読む」といって、その場でその書類を読んだそうだ。そして、叔父は「今でもあのときの事をこんなに鮮明に覚えていると言う事は、相当苦しんでいたんだね。すまないことをした。」「なんて謝ればいいんだろう。」と言ったそうだ。そして、「自分で気づかなければ、分からないね。」とも言ったそうだ。この変化に両親は驚いたようだった。あの人が「すぐ読む」と言ったのよねと、感慨深げだった。私は、驚いたというより、拍子抜けした感じがした。最初の拉致監禁を指導したのはその叔父だったし、統一協会に対して一番悪い印象を持っていたのもこの叔父だった。その為私は、この叔父は、意地でも自分の過ちを認めない人だと思っていた。しかし、両親に対し言った言葉に対し、私も叔父に対する偏見を改めなくてはいけないと感じた。
父親は叔父に対し「麻子はお前に近づきたいから、読んで欲しいと思っていたんだ。」と説明を加えてくれたという事で、そのことに対しても、叔父は納得してくれたらしい。そうなのだ。ずっと無視し続けるのならば、私の心を知ってもらう必要はない。しかし、今後何度も顔を合わせる事を考えると、被害加害の関係を明らかにしないと、私は対処できないのだ。
これで、私を拉致監禁をした家庭・親族で、弟だけを残し、全ての家庭が、私に対しての拉致監禁を認め、理解したことになる。でも、実際にあってみないとまだ判らない。両親が足を運んでくれた事には非常に感謝している。論理的には、とても良い結果だったと言える。でも、私の中にはまだ不安が残る。叔父が自分のやったことが、あれしか方法がなかった、仕方なかったと、正当化するのではないかと思うと怖い。そして、私は叔父に実際に会うことに対して、恐怖と不安でいっぱいになる。
○12月14日(木)
今日も仕事なし。上司も誰も傍にいないので、株の動向を見て過ごす。持ち株は、買った当初より値下がりしている。最安値で買ったはずが、それ以降もどんどん下がり続け、やっと先週から上り調子だったのだが、昨日、一昨日とまた下がった。買った値段より、上がらなければ売らないつもりなので、実質的な損はない。だが、日に数万ずつ減っていくのは、虚しい。株を始めたのは、働けなくなったときの為に、少しでも貯蓄を増やしたかった為だ。底値で買って高値で売ればいいと軽く考えていたのが、甘かった。そう簡単に儲かる話は無いのだ。株価は日々刻々と変わる。多くの人の思惑が反映されている。その思惑を予測しなければならないのだと知る。元の値段より上がったら、さっさと売って手を引くつもりでいる。それまでは、辛抱するしかない。会社で一日一万、働いて儲けることのほうが着実だと、日々思う。
値が上がっているときは、気分的にも良いのだが、下がっているときは、憂鬱になる。精神的に余り良くない。

○12月13日(水)
タバコを止めようと思っている。会社で、一時間毎に人との接触を避けて、独りきりになるために、タバコを吸っているが、この頃、美味しくなくなってきた。不味いと感じるようになり、吸い終わった後に口の中に味が残るのが嫌だ。タバコの後に必ずうがいをする。矛盾している。風邪もひいているせいか、喉も炎症を起している。常に咳き込んでいる。呼吸するのも息苦しい。タバコを吸うどころではなくなってきた。タバコとコーヒーの組み合わせも不味い。なので、タバコを吸う理由が無くなった。
ネットでタバコの害を調べてみると、これが山ほどある。私が考えている以上に、発ガン率が高いし、被害は肺ガンだけではない事もわかった。特に目を引いてショックだったのが、タバコを50年近く吸い続け、真っ黒になった肺の写真だ。これでは癌になって当たり前だろう。私の肺は、これに近いづいているのだ。情報では、禁煙すると、肺が綺麗に成っていくとはどこにもなかったが、徐々に発ガン率は減っていくとの事。不味いと感じながら吸い続ける必要はない。ただ、会社で独りになる時間を作りたいのだ。どうするべきか迷っている。

○12月12日(火)
急速に、冬の寒さが到来する。今日は仕事を一時間足らずでさっさとやり終えてしまったので、やる事が何も無い。これも困る事態だ。どんなに仕事が無くても、何かしている振りをしなくてはならない。とりあえず、過去に入力したデータを印刷して、ミスのチェックをする。この作業も終わると本当に何もなくなるので、時間をかけてゆっくりとやる。職場では、てきぱきと作業を進めるのもいいが、仕事が無い時に、どう対処するのかも重要だ。
○12月11日(月)
有休消化の為に仕事を休む。日頃の疲れと、会社からの緊張感のほぐれから、昼過ぎまで寝ていた。もちろん、何度も起きながらだが。有休は、休んでいても、働いた事になるので、とても得した気分になる。だが、特に何かをしたいという気持ちが沸いてこない。HPに日記以外にも、アップしたい内容は有るのだけれども、どれも重たい内容で、手につかない。日記に日々の気持ちを綴るだけでも、相当の精神力を必要とする。会社で緊張感に満たされているときは、日記は書き易い。精神的に、躁状態にあるため、心に重い内容も淡々と書ける。
しかし、過去の日記を振り返ってみるに、私の心は未だに怒りに満たされている。ただ、働けているという点が違うだけである。

○12月10日(日)
妹夫婦が外出の為に、子供を預けてきた。子供はまだ言葉がうまく喋れないほど、幼い。到底私の病気など知る由も無い。そこで私は、その子に対して、対応に困る。私は、その子の叔母にあたるのだが、全くその子の事を、可愛いと感じない。別にその子が、外見上、可愛らしくない訳ではない。私の心が、何も揺り動かされないのだ。その子が笑っても、私は笑えない。とても、対応する気になれない。
だが、その気持ちは、その子のある行動によって一変する。その子が、和室の障子の穴に手を突っ込み、びりっと破いた。その子は、その音を聞き、また障子が破けてしまったことに、驚いて泣き出した。自分がした行動によって、物が壊れることに怖くなったのだ、と思った。そんな感情があることに私はほっとする。例え傷つけるつもりは無くても、他を傷つけてしまった時、人は自分に対し恐れを感じるのだ。その恐れの気持ちは、私はよくわかる。しかし人は、人を痛めつける恐れという感性を、次第に失っていってしまうものなのだ。その気持ちが完全になくなってしまったら、もはや人間ではない。
○12月9日(土)
心療内科に通院する。医師と宇宙の成り立ちについて話をする。その中で、医師は、人類のほかに知的生命体は存在するか否か、尋ねてきた。私は「存在する」事をはっきりと断言した。人類のほかの知的生命体の存在の有無は、神の在りかたにも影響する内容であることを私は知っている。神が人類だけを知的生命体として、この宇宙にただひとつ創造した、事を否定する内容だからである。
宇宙の中の天体として、知的生命体を生存させることができる天体は、非常に稀であることは、前にも書いた。だが、それ故に人類だけが、神から与えられた特別な生命体であることを意味するものではないと思う。私たち生命を生み出した地球という稀な天体が、この宇宙に存在するということは、他の天体にもそのような知的生命体が居る可能性を、示唆していると思うからである。人類だけが、神の息を以って与えられた、特別な存在であるという認識は、傲慢に思う。そのような神を創り出す事自体が傲慢なのだ。天は地上全ての生命体に、愛を持って育んでいる。そして、生命を持たない天体にも、そこに在るというだけで、その存在を認めている。地球も天空も、人類だけのものではないのだ。
○12月8日(金)
私の部署の同僚が、毎日朝から怒られ続けている。彼は、自分の作業を手順書まで作成しているにも関わらず、その手順どおりに作業しない。当然、正しいデータが得られない。作業日報も書かない。タイムカードも押さない。果ては、社長との一対一の説明を受けている時に寝る。会社の車で事故を起こす。普通の会社では、あり得ないことだ。
仕方なく今日は上司が付きっ切りで彼の作業を指導している。一人分の作業を二人で行っているということは、とても非効率的だ。そして、「お前、今まで、適当にやってたんだね。このやり方じゃ駄目に決まってるだろ。」などと小言を言われている。それでも彼は、絶対に誤りを認めない。決して謝らない。ただ黙っているだけである。つまり、全然反省していないということである。
私は、派遣でいろいろな会社を見てきたが、ここまで、仕事に向かない社員というのは初めて見る。職場での人間というのは、三種類いるというのを、前に聞いたことがある。仕事をする人・仕事をしない人・迷惑なので仕事をしてはいけない人、の三種類だ。彼は、その仕事をすると迷惑な人に属する。
しかし、何故彼はそれでも正社員として報酬を得られるのだろうか。それは、会社という組織が、男性優位の社会主義制度で成り立っているからである。もし、彼が、男性でなく女性で、正社員でなく派遣であれば、即刻辞めさせられるところである。しかし、男性で若く正社員というだけで、彼は女性や派遣社員よりも高い賃金で報酬を得、解雇される事も無い。低賃金で効率が良く、品質の高い労働力をたくさん持つことで、会社は成り立っているのだ。
女性で、どんなに他の男性社員よりも優秀で能力があっても、女性は男性社員よりも地位を得られない。報酬も低い。女性は結婚して会社を辞める、子育てで会社を辞めるからという言いがかりを付けられるのだ。だから女性は、仕事を取るか、家庭を採るかの選択に迫られる。両立する自由など無いのだ。ましてや、離婚して、母子家庭とわかれば、その地位はさらに低くなる。仕事はほとんど無いに等しく、あったとしても自給600円などという、普通に暮らす標準以下の賃金しか与えられない。離婚して一人暮らしの男性社員とは遥かに違う。
私は、仕事のできない同僚に怒りを感じているわけではない。そうした社会制度そのものに、怒りを感じるのである。弱いもの、足かせを持つものに、非常に社会は冷淡だ。働けど働けど、暮らしを支えていけない、女性や派遣社員・パートの人など、如何に多くの人が社会的に蔑ろにされているか。そのことを思うと、とても人事とは思えない。私もいつかはそのような待遇に遭うことを、予測している。

○12月6日(水)
毎晩、睡眠薬を多量に飲んでいるにもかかわらず、3時間で目覚めてしまう。その後は、1時間毎の夢を見ながらの浅い眠り。脳は殆ど眠っていない。脳に糖分が満たされていない為かと思っていたが、そうでない事が分かった。夜、目覚めたときに糖質の多いものを食べたが、それでも眠れなかった。やはり、日頃から、緊張状態が続いているのだ。
朝も夜も、義務のように食事をしている。何も話さず、何も考えず、何も感じず、黙々と食べる。基礎代謝量を越えないカロリーに達したと思ったときに食事を止める。感情の無い無味乾燥した風景。そして、食事では取りきれない栄養素を補う為に、ビタミンとミネラルのサプリメントを飲む。まるでサイボーグのようだ。
職場には、始業30分前には着いている。信頼を得るために、必要なことは全てやりとげる。私の部署は、上司と同僚と私の3人だけで、私はこの部署の全てのシステム処理を任されている。従って、私がいないと仕事が進まない。与えられた業務を、ミスの無いように気をつけながら、効率的にこなす。業務は、マニュアル化してしまえば、簡単な作業だ。指示された内容から、どのソフトを使い、何のファイルに、どのような処理を施すのか、瞬時に識別し、それを手順どうりに行えば良い。こうした作業は、私には得意とする分野だ。脳を敏速に働かせ、かつ感情が何も伴わないのが、非常に楽だ。職場での私は、業務に集中し、感情を表すことが無い。対人関係も、感情を表さず、適度に距離を保ち、普通の人を装う。そう、私の過去に何も無かったかのように。これが日常である。

○12月5日(火)
満月。朧月だったが、その光は凛として端麗である。これだけの光度が有れば、星の光も地表には届かない。多分観測できるのは、金星くらいなものだ。星空が月の光で見えなくなるのは、地球に大気が覆っているためである。これは、昼間、空が青いのと同じ原理である。もし地球に大気が無かったら、昼も夜も、太陽や月と共に、星空が背景に見える。ただ、地表が明るいか暗いかの違いだけである。このような現象は、今のところ、月か人工衛星などのいわゆる宇宙空間に行った人にしか目撃されていない。でも、地球は明らかに宇宙空間の中に存在しているのである。人々にその実感が無いだけである。私は、夜寝るたびに、宇宙の懐に抱かれているのを感じる。
地球は、酸素を含んだ大気と水と土が地表を覆い、その地表温度は、蛋白質が壊れない範囲で変化する。この天体は、蛋白質の構造を持った生命を維持できる為の条件が見事に揃えている。宇宙空間で、これほど生命維持の条件を備えた天体は、非常に稀である。その稀な天体に生命をもたらし、最終的な進化の結実として人間を産み出した、宇宙というものに、私は、意図を感じずにはいられない。宇宙の意図、それは神の意図なのか。それが神であっても、何ゆえに、天は人を創造したのか。
そのたぐい稀な知性も、科学技術も、人を傷つけ殺すことしかできない軍事によって発展してきたのが、歴史の事実である。人は、宇宙とは違い、浅はかで、狡猾で、愚かだ。
生命は死にながらも、自分とは違う個体を産み残すことで生き続ける。死の瞬間まで生き続ける事、それが生命の存在意義であり、他の何者でもない個体としての尊厳が与えられている、と思う。もはや、神の側に立つとか、正義のために生きることは必要ではない。例え、生存し続ける為に他を殺す事はあっても、それは糧となり、生まれ代わる。ただ傷付け殺し合うだけでは、何も生みだせない。そこには深い悲しみと怒りだけが残る。

○12月3日(日)
母親がテレビの悲惨なニュースを見ながら、「可愛そうね」と感想を話しかける。だが、私はそういうことを言われても、目の前の心の壊れた私の方が、もっと身近に「可愛そうなんじゃない?」と言い返したくなる。でも黙っている。加害者の心の平穏を掻き乱すような事を言って、逆に、加害者に怒りをぶつけられるのを恐れる為だ。
加害者は、被害者よりも早く、事件の悲惨さを忘れる。被害者はずっと心に壊れたままの心を持っているというのに。
たまに苦しい思いをぶつけると、「また、そのことを言って私を苦しめる。私はどうやって生きていけばいいの?」と逆に怒り出す。その心を受け止めるのが、加害者としての責任だと思うのだが、加害者は、毎日その苦痛を訴えられ、日々被害者と同じく苦しい思いをして生きていくことを、避ける。そこで私は、PTSDの症状として、こうした感情がいつでも存在し続けることを両親に説明し、やっと理解してもらう。毎回この繰り返しだ。
特に、外傷的に何の傷も見当たらず、一見普通に生きている被害者を見れば、加害者は自分の罪を忘れてしまうのだろう。加害者は、一刻も早く事件の事を忘れ、普通の日常を取り戻したがるし、実際にそういう心境で生きている。被害者の苦しい思いは、どこにぶつけたらいいんだ。
私は、日々両親と暮らしているが、その時間、全く笑わないし、言葉も交わさない。笑わないのではなく、笑えると言う感情が無い。言葉も重い内容の言葉しか出てこない。だから話さない。そのことを、加害者はどう思っているのだろうか。それを聞く勇気も無い。

○12月2日(土)
明日に仕事が無いと緊張感から開放されるのか、それとも日頃の疲れが溜まっているのか、何度も寝直しながら、10時ごろまで眠る。朝食で、体温となるカロリーを採ることで、更に脳がリラックスするのか、その後も眠りにつく。糖質をたくさん採ると、脳に負担がかからず、日頃のストレスからも解消され、イライラも収まる。薬もなしに、夢を見ずに、深い眠りに就く事ができる。
日頃、殆ど糖質や脂質を採っていない食生活が、浅い眠りの原因になっているのかもしれない。職場では昼休みに食事を採らなくなって一年以上経つ。空腹感も満腹感も無い。と言うより、食べることに自体に興味を持てなくなってしまったのだ。家族で団欒しているつもりもない。

○12月1日(金)
かつて、日本基督教団谷村教会の川崎牧師は、今利さんやアントールさんの拉致監禁の裁判での黒鳥牧師や清水牧師の戦っている姿を、神の聖業と言い表した。また、彼女自身も、自分が統一協会信徒の拉致監禁脱会をやっているから、「私は死んだら神の隣座に座る」と堂々と断言していた。また、日本基督教団元大田八幡教会の清水与志雄牧師に至っては、「自分は神の尖兵として日夜統一協会と戦っている」と言っていた。
私は、神の名の下に、戦い、人を傷つけ、殺すことは、とても愚かな事だと思っている。例え神に背く者が居たとしても、そんな事を、本当に神は喜ぶだろうか。人が、人の亡骸を踏みつけて、神を讃えることが、神の意思なのか。正義の名の下に人を傷つけ、殺す事は、本当に正義なのだろうか。神に背いているのではなく、自分の信じる心に背いているから、神を理由にして、人を傷つけ、殺しているだけではないのか、と思う。

2006/11  2007/1