11月のつれづれ

徒然集INDEX


○11月30日(木)
今朝、私の心理状態を表面化した夢を見る。私は、形は人間だが、人間とは違う人種の人と、未知の路地を宛ても無く彷徨っている。いつもの様に、誰かに追われているわけでもない。ただ、黙々と道があるから歩いている。その人達は、私の病気を理解している、ごく僅かの人々だ。彼らは妖精でもないので足で歩いているが、私は宙を浮いて、彼らと共に、見知らぬ路地を移動する。そうして暫く町を彷徨うと、前に通った路地に出くわす。そこには、陰惨なまでに、無数に血が飛び散り噴き出した跡が残されていた。ついさっき、跡が付けられたようで、血は生々しく赤い。それは、私の外面の傷ではなく、内面の心の傷が、その路地に痕跡として残されていたものだ。付き添っていた人達が、私を手当てをするために、私を家まで運ぶ。私は、その目に見えない傷口に手を当てる。しかし、傷口はそう簡単には塞がらない。その傷は、魔物によって傷つけられたものだと知る。魔が私に襲い掛かったのだった。私はもう、その魔物から逃げず、しっかりと対峙しようと決意する。手を握り締め拳を作り、その拳に意識を集中すると、両方の拳から、鋼ではない光の剣が現れ、私はその光の剣を握り締めていた。というもの。
外見上では目に見えない心の傷は、事件から10年を経た今でも、未だに癒えていず、私の心は血を噴き出し続けている事を知る。私の心は硝子のようだ。事件当時、それは粉々に砕け散ってしまった。それを拾って組み合わせたところで、到底、本来の美しい輝きを持った元の硝子には戻らない。傷口は未だ存在し、血は流され続けている。PTSDとはそういう病気なのだ。
また、PTSDの人の心理を理解するという事は、非常に難しいことで、人間として特別な感性の持ち主であり、稀な人種なのだと言うことを理解する。そして、今、その人達と共に私は見知の道を歩んでいるのだ。私はその加害者に被害の実態を認識させ、もう二度とこの様な被害を生み出さない事を訴える為に、生きている。私は正義で闘っているつもりはない。私は、自分を神の側に立つ正義のもと、人と戦い、相手を傷つけ、或いは殺す事は、とても傲慢な事だと思っている。私はただ純粋に、事件によって人が傷つく事、そして傷ついた心が実際に存在する、その心の傷を加害者に認識して欲しいだけだ。神の名の下に闘って、勝利する為ではない。真実のために、傷ついた多くの心のために、私は鋼の剣で「闘う」のではなく、情報をもって、言葉で、私は加害者と「対峙」したい。
夢の後、目覚めた私は、深い感慨に包まれる。

○11月28日(火)
最近、犯罪被害者の状態に社会の関心が向き始め、マスコミでも「犯罪被害者」という言葉が頻繁に見られるようになった。だが現在、報道はごく一時的なものに過ぎず、そういう苦痛が何十年も続く事を知っている人は少ない。
犯罪被害者の通報率は、どの被害でも10%を超えていることは無いと言われている。暴力は、人に「助けて」と言う力を奪ってしまうからだ。他の誰かに話をすれば更に暴力を振るわれる、更に傷つけられると言う恐怖が、犯罪被害者には生まれる。被害者が勇気を持って被害を誰かに話しても、その被害による傷(特に目に見えない心の傷は)は、他人には理解されない。例え身体の具合が悪くなっても、その原因まで話さなくては、PTSDと診断されない。そういうことを繰り返していると、人に話して理解されるということが信じられなくなる。当然、被害者には、社会に対する不信感も芽生えてくるのである。自分の人生に賭けて、人に「助けて」と言うことは非常に勇気のいる事で、それはとても難しいという現実が、そこにある。精神的被害が公けに出てこないと言うことが、PTSDの被害の実態を歪めている。それが精神的被害を潜在化させているのだ。拉致監禁による被害も、まさにその通りだ。
参考文献:「トラウマの心理学」 小西聖子著 NHKライブラリー
○11月27日(月)
テレビで11月25日より「犯罪被害者週間」が始まったことを知る。私のようなPTSDの原因であるトラウマ体験は、決して特殊な事例ではない。マスコミで報道されているショッキングな人為的事件や事故だけでなく、報道されない様々な事件や事故によって、多くの被害者が毎日たくさん生まれている。しかし、その被害者たちの悲痛の叫びはどこにも発する事ができず、法的にも何の助けも無いと言うのが、今までの日本の実情である。マスコミに載るような大きな事件には、政府も乗り出して被害者救済の措置を取っているが、小さな事件は被害者救済の措置は無いに等しかった。事件の大きさに関係なく、心の傷はどの被害者も皆、深く持っているのだ。何の罪もない自分自身が、心に対処する事のできない程の大きな衝撃を受け、心の傷を受ける様な被害に遭う。このような被害者の苦痛は今に始まったわけではなく、犯罪があった全ての過去から存在している。このような被害を受けた者は、この世の中には何も信頼する者がないと感じてしまう。こうした不信に加え、被害者は孤立しているので、被害者自身が援助の手を求めることは非常に難しい。平成16年度に犯罪被害者等基本法が制定されたが、この時代になってようやく小さな被害者にも目が向けられるようになったという事を意味する。もっと前から、基本的人権が法で定められた時点で、始めるべきではなかったか。
犯罪被害者の心の叫びは、直接その本人から話を聞かないと、他人には理解できない。例え世間が時を経ても、被害者はその苦痛を、事件の時から止まっているように、感じ続けている。しかし被害を受けたことの無い人は、「早く良くなりなさい。頑張りなさい。立ち直りなさい。」と被害者に叱咤激励する。しかし、そういう心の対処ができないことがトラウマの特徴だ。そんなことは分かっている。でも、PTSDという病を患った被害者には、「生きていく」という気力自体が奪われているのだ。
参考文献:「トラウマの心理学」 小西聖子著 NHKライブラリー
○11月26日(日)
土曜は、平日の疲れを癒す為に朝食後に再び眠りに就く。不思議な事に、朝食まで1時間ごとに目が覚める浅い眠り(しかも自分の意識で夢を操れる)が、朝食後は夢を見ずに昼頃まで薬無しで眠れる。しかしその後起きてみると、私は何をすべきなのか、自分が何をしたいのか判らない。何もしたいと思わないのだ。目覚めると、今ある現実に、ただうろたえるばかり。だが、寝床に横になると、脳が猛烈に働きだし、言葉にならない言葉が様々と浮かび上がり、更に覚醒する。
昨日と言う日は、拉致監禁に遭った丁度その日に当たる。私はその日にちを如実に覚えている。陰鬱な気分に襲われる。しかし、その忌まわしい過去の映像は、ベールに覆われていて、断片的にしか思い出せない。しかも怒りや恐怖の感情が伴わない。心療内科で医師にそのことを伝えると、明らかにPTSDの回避行動だと言われる。怒りによって或いは恐怖によって、壊れてしまう自分自身の精神を守る防衛反応である。だから、無理矢理、怒りや恐怖の感情を蘇らす必要はないと、医師に言われた。でも、私はそのような気持ちが無くなってしまう事に脅威を感じてしまう。私にそのような感情が失われたら、私には生きる価値がなくなってしまうと思うからだ。
しかし、医師は言う。様々に拉致監禁の被害を機械的に言葉にする作業よりも、三日月の夜の部分を「雅だ」と感じる、私の感性の方がこれから生きていくには必要な感受性だと。
確かにそのような感性は、大地に生きていく「生命」としての人間にとって、重要な事なのだ。人間はマニュアルどうりに日々を過ごす機械ではない。

○11月25日(土)
昨日の会社の帰り、地平近くに大きな三日月を見つけた。夜空の暗さよりも、月の夜の部分が、地球の照り返しでぼうと明るい。始めて見る月の夜の部分に感嘆する。太陽の沈んだ位置に月が近いことから、新月から三日経った三日月だと推測できる。ネットで調べたら月齢3.2だった。(こよみのページ)もし、太古の昔だったら、星空に、光る昼の月の部分と、暗い夜の部分がもっとはっきりと判ったことだろう。昔から人は、夜空にそこだけ星が無い黒い月を、「新月」と名づけて、そこに月が在る事を認識していた。人は、月の光の部分だけでなく、暗い部分も含めて、月というものを認識していたのだ。こういう感覚は現代の人には無い感性だと思う。
月は地球の周りを28日間かけて一周する。従って、毎日太陽から、30分から一時間づつ遅れて月の出と月の入りを繰り返す。一時間に換算すると、0.5度づつ、天空を東の方向に移動する。昼も夜もそれは観測される。月の光にも負けないくらい明るい星ならば、月の移動によって起こる星食が観測される。月の暗い部分から、星が隠され、月の明るい部分からまた星が見え出す。というより、絶対的に動かない夜空の星ヾに対して、相対的に月が動いているのが判るだろう。今の時代では、空気が澱んで、細かな星が見えないのが切ない。私は幼い頃、と統一教会のマイクロで見た、こぼれる様な満天の星と、ぼうっと霞む天の川が見たい。

○11月24日(金)
睡眠薬を毎晩20錠も飲んでいるのに、4時間ほどしか、その効果は持たない。毎晩、夜中の2時半には目が覚める。一度起きてタバコを吸いに台所に行く。その状態でタバコを吸うとクラクラと眩暈を起す。そしてまた寝床に就くのだが、2時間ほどの浅い眠りで夢を見て、目を覚ます。また、タバコを吸いに行く。それからは1時間、30分間隔の夢を見つつの浅い眠り。毎日、脳が眠るのにはとても足りない。毎日がこの繰り返しで、いつも脳は過覚醒の状態にある。いつ何が起こっても対処できる状態になっているのだ。これもPTSD特有の症状である。
身体のほうは、体重で見ると、3年間で15キロ太り、20キロ痩せた。監禁時の5ヶ月間、食べる気力がなくなって、統一協会にいた頃より、5キロ痩せた。だが、その痩せ具合よりももっと酷くて、現在、体重は50キロを切り、体脂肪率は20%、筋肉量は37キロ。女性としては体脂肪なさ過ぎで、筋肉質。腹筋も見て分かるほど、お腹周りに脂肪がない。くびれは有るものの、バストも無いため、女性としての色気はない。食べるという動作に、感情が伴っていないからなのだろう。美味しいから食べると言うことがなくなっている。まるで、餌を食べるように、無感情に食事している。
味覚は、非常に鈍感になった。私の人生を振り返ってみると、恋愛期と、統一協会時代が、一番味覚が敏感だったと思う。食材の一つ一つの繊細な旬の季節の香りと、和食ならではの食材本来の味を引き出した旨みというものが、今では全く感じられなくなった。監禁時の食事をしたときの感覚に似ている。甘味、塩味、辛味、苦味と言うのはあるのだけれど、その本来の味の旨みとか、奥深さが無いのだ。食材そのものの大地からの生きる力を、心で食べて、心から染み渡って体力となる。と言う感じがしないのだ。味自体に、旨みが無くなった訳ではない。私の心がそうとは感じなくなったのだ。旨みを喜びとして感じ、記憶として残らないのだ。食べている時に、心にそういうことを感じとる、それだけの余裕が無いのだ。

○11月22日(水)
内なる心の底から、「目覚めよ」と叫ぶ声あり。2001年度の時点で私は、過去の忌まわしい出来事と、その為の叫びを綴る作業に疲弊していた。だが今、その痛みと恐怖が麻痺している状態にあり、ようやくこうして日記を綴る事ができるようになった。

目覚めよ。
苦しみ悶える心よ。
私はまだ生きている。
痛みと恐怖は怒りへと昇華した。

お陰で、冷静に客観的に自分の心を捉えることができる。眠っている場合じゃない。私には遣り残している事がたくさんあるのだ。

まず、過去の日記から現在の状況に至るまでを纏めてみる。
心療内科に通い、貰った薬を時間通り、規則正しく飲む事で、アルコールを飲まずに夜眠る事ができるようになった。今では、全くアルコールを飲む事はない。かえってアルコール自体の味が好きではない事が分かった。また、アルコールを飲むと、その影響は覚醒と言う形で現れ、むしろ眠れないことも分かった。
また、薬の作用が利いてきたのか、悪夢にうなされる事が少なくなった。しかし、夢としては珍しい味覚の夢を見るようになった。夢で非常にまずい味を経験する。私の夢の場合、殆どが非現実的かつ抽象的で暗示的な内容なのだが、この味覚のまずい味という夢は、自分でも理解不能だった。何を暗示しているものか分からない。でも、ミント系の洗口薬で、毎日寝る前にうがいをしていたら、この夢も解消した。しかしタバコの味とも違う、この夢の味は未知の味だった。
味と言えば、拉致監禁から開放されて以来、食事の際に、味が美味しいと思うことが全くなくなった。どれも心に残るような美味しさではないのだ。食事自体が楽しいとか嬉しいと、思った事はないからである。食事の時に感情が麻痺しているのだ。
家族関係では、去年やっと妹に私が拉致監禁による複雑性PTSDであることを、心療内科を通して、理解して貰う事ができた。これで、実質的な加害者全員に、私が拉致監禁のPTSDであること。また私は、その事件の被害者であり、また、両親と妹が実質的加害者であり、両者の間で被害・加害の関係にあることを理解してもらった。また、米本氏の記事と私のHPの内容から、親族の三つの家庭にも、理解と謝罪を得る事ができた。ここに来るまでに10年の時を要した。遅すぎるくらいだ。私の心は、怒りの感情が絶えず存在し続けている。
家庭では、2年前に実家を改築するにあたり、さらに引越しをし、両親と仮住まいの同居をすることになった。それから、実家が新築され、本格的に両親と一緒に同居生活を始める。また、これに伴い、派遣での仕事も見つかり、仕事を始めて2年になろうとしている。
両親との同居は、勿論両親の加害者としての意識と謝罪が必要だった。これも、2001年の2月に電話でじかに両親に話したことと、私のHPの内容を読んでもらうことにより、私が拉致監禁の被害者である事と、そのPTSDを患っている事を両親に理解してもらった。
両親との生活は、実家が改築中の仮住まいの時、狭い3DKの部屋での同居が、実に6ヶ月に及んだ。この間、私の恐怖感を呼び起こしたのか、薬とアルコールの併用がなければ眠ることができなかった。また、体の震え、動悸、舌のもつれがあった。しかし、恐怖感は次第に無感覚へ変化していく。本当に何も感じない。感情の麻痺はPTSDの症状の典型であるのだが、それが出てきたのだ。このため、この間の記憶は余り無い。ただ、悪夢にうなされていた事は確かだ。夜中に頻繁に目が覚め、その度にタバコを吸って気持ちをなだめるのだが、タバコを吸うと体がクラクラして立っていられなかった。
その後、実家の改築も終わり、そのまま実家で両親と同居をする事となる。2004年9月のことである。ここで仮住まいのときと違うのは、居住スペースが明らかに広い事、アパートであることを感じさせない事、私自身の孤立した部屋が在る事である。これによって、両親への恐怖感が多少なりとも和らいだ。また、就職がこの年の11月に決まり、会社に居る時間が多くなり、対照的に両親と顔を合わす時間が極端に減った。これにより、PTSDの悪化は減少したように思う。
会社に勤務するようになってからは、Word、Excel、CADなどのパソコンソフトも、年毎にバージョンアップされては居るものの、無難にこなしている。会社独自のアプリケーションソフトも3つほどあるが、全て瞬間的に覚えた。対人関係もそつなく、こなせている。「了解ですう。」なんて、心にも無い明るい声で話すことができる。(苦笑)自分でも驚くばかりだ。無感覚が、人間を機械的にさせているのだ。それで、こうして日記なんてものを書けている。職場での笑いも機械的だ。私には感情が無い。時間がお金に変わるから、義務的に働いているのだ。昔のように、会社のためとか、自分を磨くためという理由は全く無い。 精巧なサイボーグのように、私は生きている。

2006/12