7月のつれづれ

徒然集INDEX


○7月29日(土)
アトピー関係のネットで知り合った気の合う友人数人と飲み会。とても楽しく過ごす。

かつて、カルトを止めて日常の生活を繰り返す決意をした時の、私の人生を左右する節目の気持ちを未だに思い出す。

その当時私はもう、人間として表舞台に立ってはいけない人間として扱われることを覚悟していた。被害者ではなく加害者として一生罪を背負い、誰からの理解も得られず、人との関わりさえ憚られ、虐げられ、また、その為に自分の身を明かすことが出来ず、地方で細々と身よりも無く、生きるか死ぬかのぎりぎりの生活を予想し、望んでいた。

しかし、、、しかし、もうこんな阿呆な私に関わる人は無いだろうと思っていたにも関わらず、今になって、何故か、心深く関わる友人がいっぱい居る。

私の本質は、孤独よりも愛情と安らぎを求めているのだろう。
人との関わりを避けてクールに生きようと、カッコ付けている私は、きっと馬鹿なのだ。


○7月26日(水)
血友病で非加熱製剤を安全だとして多くのエイズ感染者を出して告訴されていた阿部被告が、禁固3年の求刑を受けたことを、ニュースで知る。
これによるエイズ感染の死者が500人を超えるといわれている中で、安部被告は一貫して自分の無実を主張する。

多くの人の生命を危険にさらすことができるという立場で、医師として患者の命を最優先に考えるべきであるにも関わらず、その義務を怠り、自身の保身の為に最高責任者としての権利を行使する態度は、権力を持った者の陥る過ちなのであろうか。
しかし、こうした権力や権威をもった者の処罰は、いつも甘いと思う。日本の社会だからなのだろうか。

かつて、親が子供を冬の寒い山中に置き去りにして、自ら手は下していないが、多分山の気温で凍死するだろうという意識の元、置き去りにして、殺してしまった事件が有った。(記憶が曖昧だけど)この親は、過失致死などではなく、確か殺人の罪に問われたと思う。

安部被告が、明らかに安全性を望めない薬品で、確実に被害者が出ることを予測できる立場で、被害者を(しかも500人も)出したこの事件が、自ら手を下したとは言えなくても、何故、業務上過失致死などと言う刑に扱われるのかがとても不思議。

個人に対する確実な殺意が無く、自らの立場で、血友病患者のため精一杯尽力したなどという大義名分がまかり通れば、その殺人行為は業務上過失致死と言うことになるのか。

それだったら、サリンで大量殺人を行った松本被告も、(オウム教義上の)業務上過失致死だよね。(教義上、日本の未来のために必要な行為とか言いそう)

日本の国って変。
非加熱製剤を作った会社も、安全性を確認して使う医師も、管理する厚生省も、初めからそれを使うことに対して、誰も責任を持っていず、責任を持っていない事で、責任逃れができる。本当は、責任を持たなかったことに対して、それぞれに罪を与えるべきだと思うのだけど。
権威を持たぬ者より、権威を持つ者を守ろうとする、日本の国の根底にある意識を感じる。

この事は、現在ステロイドで重症化したアトピー患者に対して、誰も責任を取ろうとしないという、現状に通ずるものがある。更に、アトピーは死ぬ病気じゃないからって、医者も厚生省も、軽く扱っている気がする。

死ななくても、生かさず殺さずの、なぶり殺しの状態は、死なないから苦しみが少ないと言う事にはならない。


○7月25日(火)
予感的中。脱ステのリバウンドが再びやって来た。

旅行中はそれほど悪化はしなかったのに、肩から腕全体に手首まで、背中全面にも、細かなぶつぶつで覆い尽くされる。明日にも、腰から足にかけても広がる様相。いつもの季節による悪化とは全く違う。

旅行の疲れとかの問題じゃなく、脱ステ後、大波小波でやってくるリバウンドが、2年目にしてこのタイミングでやってきたようだ。何度も繰り返す事は知っていたので、いきなりリバウンドする理由は判るけど、脱ステ直後の物凄い悪夢のようなリバウンドを思い出して、とても憂鬱。

取りあえず、症状を最小限に押さえ、小さなリバウンドで済む事を最優先に考えたい。とにかく食生活改善のため、専属ホームヘルパー(母親)を呼ぶ。鬱陶しいが仕方ない。

お酒なんか飲んでる場合じゃなくなってきた。あたりまえだ。再び、闘病生活か。ああ、面倒。


○7月23日(日)
友人数人と白馬方面に2泊3日の旅行に行く。久しぶりに水も空気も綺麗な場所に身を置くことが出来、やはり、こうした場所で生活することが、精神的にも肉体的にも、今の私には必要なんだと強く感じる。

特に、法的な問題が片付いてから、それまでの精神的な疲れが体へのダメージとして、一気に噴出しそうな不安が日増しに強くなって来てたので、環境での外的な癒しを強く求めていたようだ。

しかし、この自然の環境で、どうにか体をできるだけ好転させたいという願いとは裏腹に、旅行から帰ったとたん一気に悪化する事を直感する。本当に、帰りたくない。


○7月15日(土)
知人からの誘いで、韓国の元従軍慰安婦の現在を描いたドキュメンタリー映画を見に行った。

元従軍慰安婦のハルモニ達は、現在もう70から80歳になっているが、未だに過去の心の傷跡に苛まれている。時間が解決してくれる、なんて嘘で、それは加害者が時間と共に早々に忘れてしまっただけのことだ。

彼女たちは、数十年という時の流れを経て、初めてその悲しみと屈辱を口にすることが出来たのだ。それまでは、日本政府はもとより、韓国社会も、或いは、肉親や生まれた故郷も、被害者である彼女らを受け入れず、蔑視してきた。受けた苦しみを表現することさえ奪われ、長い間、悲しい記憶を封印させて生きてきたのだ。

今やっと、話す場を与えられてはいるが、しかし、彼女たちの苦しみに対する謝罪や慰謝料はない。
だが彼女たちは、そのようなもので、本質的に癒されると思っていないように感じた。(もちろん、活動の目的は、日本政府の謝罪にあることは確かだが。)ただ、こうして訴えることで、少しずつ楽になっていると話していた。

4ヶ月ほど前に、ナチス占領時アウシュビッツに投獄され、どうにか生き延びた実体験を、公演で聞いたことがある。その人も、未だに癒えない心の傷を多くの人に語ることで、自らを癒し、生きているように感じた。
そして、慰安婦のハルモニも、アウシュビッツの生還者も、似たようなことを言っていた。「生きるために闘わなければならなかった。」

私は、大きな屈辱と悲しみを受けた人々が、これまでどのように生きてきたのかが知りたかった。彼女たちは、悲しみが取り除かれ、平穏に生きているのではなかった。未だに重荷を負いつづけ、その苦しみを生きる力としていたのだった。そうやってしか、生きてこれなかった事に、とても深い感慨を覚える。

それと、今回残念に思ったのは、彼女たちの苦しみの声を、ただ、じっと「聴く」者が、ごく少数の人間だけなのではないかと感じたこと。会場前で、「慰安婦問題はでっち上げ」という、ビラを会場前で撒く人間がいた。どうにかしてでも自分たちの非を認めたくないらしい。自分たちは決して人を傷つけないとでも思っているのだろうか。その為に悲しみを語る者が傷ついても、悪いとは思わないのだろう。そう言えば、アウシュビッツの公演のときも、生々しく語る公演者に対して、的外れの興味本位のいやらしい質問が後を絶たなかった。

今の日本に、本当に人の苦しみを、その悲しみのごとく、じっと「聴く」ことができる人間は、とても少ないのかもしれない。


○7月14日(金)

体が、本格的に、自律神経失調症になってきていて、寒くても汗が止まらず、ふやけた皮膚は破れて、ひりひりと痛み、冷房で冷えた体は、あちこちと筋肉痛を起こす、という状態で、イライラがつのり、怒りに満ちた内容になってしまいました。

ちょっと、辛いなあ。湿度を物理的に調節した環境においても、病的な汗を止めることは出来ない。また、クーラーの空気の中では自分の自律神経は鍛えられず、更に弱くなり、その為に体の冷えによる足腰の筋肉の痛みがふし節にでる。ただ、皮膚的には無難な状態が保たれる。

温室度を調整しない高湿度高温度の状態では、やはり少し動いただけでも、汗が滝のように流れ、なかなか止まらない。日中肌着を5、6枚も変え、体を拭う作業が繰り返される。
クーラーが有ろうと無かろうと、眠っている間も2時間おきに病的な寝汗の処理をしなくてはならず、どうしても深い眠りを得られない。

これだけ大量の汗をかけば体力的にもばてる。脱水症状と、ミネラルたんぱく質低下の栄養失調症状にさせないための努力はしているが、これ以上どうしたらいいんだ。どうにか、体を楽な状況に持っていきたい。


○7月12日(水)
精神的に乾いている。
心に潤いをもたせるような事柄が、日常の生活の中から見出すことが出来ない。声を出して笑うことが、ほとんど無くなった。笑うというより、呆れて嘲笑し、鼻で笑う事は、たびたび有るが。
テレビのニュースもドラマも、外から入ってくる内容は、人間の心の闇がその本質的に有ることを匂わせながら、どれも更に突っ込んだものになっていず、余りにも救いが無い。

その中で、まだ本質的に掘り下げて話し合う姿勢を、少なからず見出すことが出来たのは、近頃いじめの問題を討論するA系番組と、青少年同士で話し合う場を放映するNHK教育ぐらいか。

いじめの本質が、日本人社会の中で作られた閉塞空間で、物理的、精神的に異質で協調性の少ない人間を、無理矢理、正当性を持って排除してしまおう、という日本人の根底に根ざした心理が大元に有ると私は感じている。
そして実際、番組の中でそうした心理に基づいた発言が、いじめる側の発言に根ざしていることを感じる。

悲しいことだが、今の日本の現状では、いじめられる側の社会的な不調和や異質性は、忌むべき事として、虐げられ差別され、それ故に、虐待する側の正当な理由として社会に受け入れられてしまう、という現実がある。
いじめている人間が、過去に受けた屈辱的な感情を、更に無防備な人間(いじめられる側)に押し付け、掃き溜めとして行っている事を正当化して、自らの居場所を作っていることに、思わず「嘲って」しまう。

人間として虐げられ、肉体的精神的に暴行を受け、日常的に生存する場所さえ見つけることも不可能な者の苦痛は、いかばかりであろう。
しかし、いじめる側は、相手のどのような苦しみも、相手を攻撃し破滅させるための理由にしかならない。彼らは、より小さいものを攻撃し、滅ぼすことで自らの癒しとしているように思う。彼らもまた可愛そうなことに異常な空間に取り込まれ、加害者にならざるを得ない状況に追い込まれてしまったのか。悲しいことだ。

いじめる側、いじめられる側、多分両者共に同じように抑圧される苦しみを負いながら、その苦しみを犠牲的精神で請け負うもの、あるいはまた、他者に押し付けることで精神を保って生きようとするものに、分かれてしまったように感じる。
こうした現状で、被害者自身がどれほど救われ、社会に前向きに向かっていけるかは、今のところ、被害を受けた者がどれだけ強く逞しくなれるかと言う選択肢しかなく、やはり弱いものの切捨てになっていることを感じざるを得ない。

異質なものを受け入れない世の中で、加害者の自覚が無い以上、残念ながらまず、被害者自身が苦痛の中で、更に自らの命を削って、被害を訴えつつ自分の生をかろうじて保たせることしか、現時点での取りあえずの打開策でしかない。。。残念だ。

今現在、社会的に問題になっている青少年の心の問題には、マスコミなどの影響で民衆が目を向けている為に、政府や自治体は対応するような素振りを見せている。しかし、本質的に、人間の尊厳を剥奪するような行為に、本当に取り組もうとしているかは、甚だ疑問だ。
私自身が負った問題として、或いは社会的な問題としても、例えばカルトに掛かり、自らの意識を無意識のうちに操られて罪を犯さざるを得ない状況の人間を、如何に救うことができるか。

先日、衆議院選挙が有ったが、経済的な不況の打開を公約に示した政党は大多数だったが、本質的に人間が生きる上で、大きな問題になっている、人間としての心の病からくる、家庭崩壊、幼児虐待、いじめ、そこから派生したカルト入信など、本当に取り組んでいくことが、これからの日本人社会の根底を見直すためには、ずっと必要な内容だと感じるのだが、それらの必要性を根本的に上げた政党はなかった。

経済面で好景気になれば、社会が良くなるという考え方は、なんて表面的な考え方であろうと、私は思う。一人一人が本当の願っている幸福とは、金銭的な表面的な現象よりもより、精神的な内容からくるものだと私は思っている。そして、今現在問題になっている、青少年の心の問題は、より本質的には、親や社会が一人の人間に対して、如何に個の責任を問いつつも、個の精神の自由を尊重できるか、という事だと思っている。

私はカルトについて関わった経緯が有るため思うのだが、今まで何万人というカルト被害者(脱会者や現時点でカルトに掛かっている者)が、家庭の団欒から世界平和に至るまで、良心的な思いをもっていたものが、その思いを理不尽にカルトの教義や支配者に利用された結果、あらゆる悲劇が起こっていると思う。

カルトに入信したことにより、本人の意思をすり返られてしまい自分の一番重要な思いを操られてしまうという、大きな心の痛みの被害者であるにもかかわらず、世間に被害をもたらした加害者として生きねばならないことをとても理不尽に思う。そのことにより社会の中で身を潜め、被害を訴えることも出来ない状況にあることを、本当に悔しく思う。

政治的に新たな問題、今回のように心や精神の問題にメスが入り改善の道が開くには、数十年の月日と多くの命の犠牲が必要なことは、統計上明らかである事は覚悟しているいる。
しかし、こうして、社会に文書を少しずつ残すことにより、今の社会で虐げられるもの(カルト脱会者、カルト実践者)の本当の被害を、社会に知らしめ、彼らのケアが妥当なものであることを知って欲しい。


○7月9日(日)
ホームページビルダー2000の無料試用期限が過ぎてしまったので、急遽フロントページエクスプレスをインストールし、その場を凌いでいる。でも、これって、画像等の素材がないのね。ちょっと使いづらい。更に、FFFTPでのアップロードでの手違いで、掲示板が試用不可になってしまった。
掲示板は、兼ねてから使いづらく思っていたので、他の無料掲示板を探したものの、信用性が分からず、やっぱり、どれを選んで良いのか分からない。なので、掲示板復旧はしばらくお待ち下さい。

先日、障害者介助のバイト先へ、見学に行ってみた。感想は、やっぱり、人間関係が主体の仕事は、やっぱり心苦しく感じてしまう。
やったことに対して結果を期待しない、時間の拘束がない、ノルマがない、制約の中で作り上げる必要がない、という、より人間の自主性を重んじた職場では、今まで、制約の中で生きてきた私にとっては、反面、とてもやりにくい。
私は、今までの仕事では、期限を決められた中で、物理的に効率的に作業を仕上げ、製品の完成度を追求していくことで、喜びが得ていたように思う。そこでの人間的な関わりも、作業の一部として扱っていた。

こうして、人間の関わりを原点とする職場では、私の今までのマニュアルにない分野として、とても脅威に思えてしまう。
確かに、のちのち克服すべき分野だと思うが、今の精神的、体力的状況では、まだ無理だと思う。

取りあえず、表面的な人間関係は、これまでの実績でどうにかハッタリかませられるという自信が付いてきたので、今年の夏は体力の回復をしつつ、年末までに、人間関係希薄な派遣あたりを目指す方向で行こうと思う。

アトピーは、脱ステロイドして数年は大波小波のリバウンドを繰り返すと聞いていたが、多分、小波が来ているような状況。体液が漏れ出すほどの悪化ではないが、あせもがひどく、皮膚の破れた傷口があちこちに有り、風も肌着も汗も、全て接触すると、ちりちり痛く、一日中不快。
体の面だけでも、痛みや痒みの刺激の無い状態で、心地よく過ごしてみたいと思う。

○7月5日(水)
迷っている。一体自分は、どこへ行き、何をしたいのか、分からないでいる。

先日、障害者介助の仕事の人員が足りないことで、知人からあなたに合っているんじゃないかと、参加の呼びかけを受けた。私が、今の自分にあった仕事を探していることを知っての応答で、喜ばしいことである。
ただ現在の自分は、人との係わり合いが苦手で、極力避けようとしている。その反面、人との関わりで、心の潤いを物凄く求めていることも確かである。

人との関わりを極力避けることで、私は楽になっているか、と振り返ってみると、私は一人取り残された孤独感に苛まれ、不安と危機感で一杯になり、自分から何かしなくちゃと言う気持ちで、全く楽になれていないという事に、改めて気づく。
そして、誰かと触れ合いたい、気持ちを通わせて理解しあいたい、そんな人と日常的に関わりたいと、心の奥底で思っているように思う。
かといって、社会の雑多な人間関係で、気を使って疲労困ばいするのは、もういい加減、嫌なのだ。

肉体面でも、精神面でも、疲れるのは今の段階では苦痛なので避けたく、でも、どこかで、人の温もりを感じていたいと思う。そうした思いの中での求人である。

私の本質が人との関わりを求めているのであれば、薄利なボランティアに近いものでも、より本質的な人との関わりをに向かっていければと思うのであれば選びたいと思う。
が、クールに人との関わりを避け、金銭的に高収入で、雑多な他人との関係を全く絶ったものでればあれば良いと思っているのであれば、派遣などの仕事をしたいと思う。

今後自分一人で生きていくことを考え、金銭面で不自由しないが孤独な生活を得るか、薄利でも人との関わりを取るか、というところである。
「人との関わりを極力避けて自分一人で生きていくこと」とは、全く正反対な生き方になりそうだが、とりあえず明日、職場を見学することにする。


2000/6   2000/10