6月のつれづれ

徒然集INDEX


○6月30日(金)
アルコールを飲むことで最大のマイナスは、私が眠れる量に達するには相当量を飲まなければならず、翌日の昼過ぎぐらいまで、アルコールが血中に残ってしまうこと。
私自身は普通に振舞っていても、顔が赤みを帯びて、呼気がアルコール臭ければ、やはり周囲の人間には迷惑であろう。
体も、肝臓に相当負担をかけていて、大量のアルコールの消化のためにエネルギーが使われ、皮膚の改善にまでエネルギーが及びにくい。
とは言え、アルコールがなければ眠ることが出来ず、また、精神の安定も図れない。精神安定剤や睡眠薬などの薬に頼る事も考えるが、結局は、本質的な問題が解決されない限りは、同じだと思う。

今日は、カルトからの救出に関わった為に、カルト側から訴えられている人の、東京地裁での公判を傍聴に行った。

救出の為に監禁を余儀なくされ、その為の心の痛みが、訴えた側の心の原点だと感じる。ただ、その部分が、「救出」していると思い込んでいる側には理解できず、心のくい違いが生まれ、その食い違いをカルト側にも利用され、反対牧師への攻撃としての材料になり、監禁された原告側も、本来の思いを捻じ曲げられているように思う。
確かに、監禁された人間として、本質的な人間の尊厳を犯された痛みや苦しさ、怒りはとてもよく分かる。また、救出しようとしている親側の意識にも傲慢な意識があることも見て取れる。如何に、カルトにかかり、うそで固めた信用できない人間かを証明するための尋問が続く。
原告の意見は、親などに再三話し合いの場を持ちながらも拒否され、最終的に監禁されたことへの怒り。救出側の意見は、嘘偽りで固めた人間にされてしまった子供への救済。その為には、監禁に見えても仕方のない状態を作ることしか出来なかったこと。それが監禁している側の愛情だということ。

カルト側はそうした愛情や監禁が不当で有り、背後で指揮した者の責任として、原告の感情をより大きく拡大させようとしているように感じる。

救済側の見下した愛情が、更にマインドコントロールにかかっている人間にとっては、憎しみと怒りの対象となる。とは思うが、救済とは言いつつもマインドコントロールについて勉強不足で、経験してない人々には理解不可能のようだ。
救済側の弁護士が、マインドコントロールに掛かって嘘で固めた内容の供述を崩そうと、躍起になっているこの数時間が、なんだか馬鹿らしく思えてくる。
そういう質問をするから、事実と違う証言をする。それが、誰に命令されなくても、そうした精神構造が作り上げられている。誰に言われてとかじゃあないのよね。それを確かめようとするのは無駄。要するに、マインドコントロールが個人の意識の奥底に、どれほど深く入り込んでいるか知らないのね。

そうした、意識の理解の違いが本質にあって、こうした問題を生んでいるのだと思うけど、両者ともにそこに気づいていない。悲しいけど、現実だから仕方ない。
感慨深い思いで、家路につく。私は、マインドコントロールに掛かって証言した彼女と、どこが違うだろう。

○6月29日(木)
皮膚の悪化は、体力の低下が原因ではないかと考え、アルコールを3日ほど控えてみた。昨年冬あたりから毎日アルコールを飲んで寝る生活が続き、毎日の量もだんだん増えてしまった。これも改善せねばと思っていたので、少しずつ減らしていこうと思う。

しかし、案の定、アルコールが入っていないと、気分が躁状態のままで、全く眠ることが出来ない。
寝床に入るが、頭の回路だけがぐるぐると回り続け、寝苦しくていらいらする。1、2時間ほど眠れたが、眠りが浅く、悪夢にうなされる。

夢はいつものように、オカルトホラーで、今回は更にスプラッターの要素が加わり、かなり過激。
過去に私の生活を脅かしたと脅威に感じる人物が2名登場するのだが、彼らは血肉を滴らせる異様なモンスターの姿。そんな彼らに無抵抗のまま私はグサグサ刺され、その傷口から見る見る私自身も、おぞましいモンスターの姿に変貌していく、というもの。この映像は、よく出来たスプラッター映画のようにとってもリアル。
ここまでくると、怖いという感覚を超えてしまい、夢から覚めて、思わず笑ってしまう。
夢は、私の深層心理の反映と私は思っているのだが、彼らをここまで恐怖に感じていたのね、と改めて納得。

心理分析できるのは良いんだけどね、毎日こんな夢ばかりじゃあ、本当に寝れなくて、とても迷惑。翌日は、超日本的な幽霊さんが、天井で微笑んでくれる。その翌日は、素肌の感覚がとってもリアリティな霊らしき人(たぶん女性)の肌にぺとっと圧し掛けられる。
連日、睡眠時間が2時間程度で寝覚めも悪く、欲求不満で寝ながら体を掻きむしるので、アトピーも悪化。精神衛生上とても良くないので、やはりアルコールを飲んで寝ることにする。
おかげで、今日はぐっすりと眠れた。確かに、アルコール依存症といわれても仕方ないな。無いと眠れないし、恐怖から逃れられない。ああ、でも、ぐっすり寝れて、とってもすっきり。

○6月25日(日)
湿度の高い状態が続く。多少の外出でも多量の汗で、すぐにでも皮膚が悪化しそうな微妙な傾向。いち早く、シャワーを浴びて、肌着を取り替えれば、どうにか無難に保てる。
しかし、こんな体調で、頻繁に外出するのは、とても不安。

アトピーの回復を含めた体力の回復を待って、もう少し外に出ず、時間的な余裕を持って自宅療養の期間をどれだけ持つか、それとともに、少しずつ頑張って社会に出ることで、精神面と体力を鍛えることを考えている。しかし、毎日微妙な匙加減。

体の周期的なホルモン分泌の影響で、アトピーが一気に悪化する。

いつものように、シャワーを浴びて殺菌剤で体を綺麗にふき取った後、肌着を着たら、ブヨに刺されたような2、3センチ大に腫れ上がった炎症が体のあちこちにできる。これが物凄い痒みを伴い、異常に掻きつづけても収まらない。
もちろん、痒み止め・炎症止めの薬を一時的に塗ってはいるが、爆発的な炎症は、そう簡単には収まらない。これまで精神的に押さえ込んでいた部分が一気に吹き出たようだ。

2年前のステロイド後遺症の初期症状を思い出させ、物凄い不安に襲われる。一度経験したとは言え、また体中、ぐずぐずになるのは怖い。
2、3時間後に、どうにか炎症を抑えられ、引く傾向にあったので、寝床に付く。さすがに今日はアルコール無し。ステロイドを止めて数年は、周期的に皮膚が皮膚として機能しない状況に追い込まれるのを実感する。。

○6月23日(金)
まだ私の皮膚は、体表面の温度湿度のセンサーが未成熟らしい。湿度が70、80%を超えてくると、センサーは馬鹿になり、異様に汗をかき始める。駅まで歩いたり、食事をするだけで、今日のように寒い日でも、滝のように汗をかく。
シャワーを浴びたかのように服がびしょ濡れの状態で、そのまま冷房で冷やされることになり、汗をかいた後は必ず、急激な体温低下状態に陥る。本当に具合が悪くなって、非常にばてる。

また、汗で必要以上に皮膚がふやけて、とてもかぶれやすい状況。毎日、肌着を何枚も取り替える。
無数の細かな傷口は、治っては開きの繰り返し。これが、汗に沁みて、あっちこっち結構痛い。まあ、アトピーの症状は、昨年よりは今年と、年を追ってずっと状況は良いから、良しとしよう。
電車に乗って会社に行くのは、やはり大変だ。アトピーでも、頑張って会社にいって働いてる人って、なんて偉いんだと思う。こうして湿度が高いと、ほんとに動くのが億劫。

ケアの話題が掲示板に登場。とはいえ、私は、ケアされること、癒されることを、近頃人に期待しなくなった。

今までは、人との関わりで癒されたいという期待が、異常に強すぎたように思う。人が私に対して与えてくれた事が、私の望みや願いと違うと満足できず、その人に不満を持ってしまうことも度々有った。
人が精一杯の気持ちで与えてくれることに、何故満足できないんだろうと、素直に感謝出来ない自分が嫌になった。
その前にまず、私自身が本当に癒されたいと思っていないのに、人に癒しを望むなんて、私が間違っていると思った。

まずは、自分自身が、癒されたいと思うこと。そこから、本当の癒しは始まると思う。
アトピーと同じで、心の癒しも、薬とかカウンセラーとかの外的手段で治るものではなく、癒されたいと願う自分自身が本質的には治していると思う。
外的手段は、あくまで本来の治癒能力を補助したり、きっかけを作っているに過ぎない。
心の癒しも体と同じで、他に依って治そうとするので無く、自ら癒そうと思うこと。それが一番大事なんじゃないかと、近頃思っている。

そこに気づいたと言うことは、結構前向きに、自分を癒そうとしていると言うことか。
それでも、落ち込むと、生きたくなくなるという、微妙な心理状況。どっちが本当の自分の心理なんだ。分からない。

○6月19日(月)
社会的な問題解決をしてしまったことにより、自分の精神的問題だけが取り残されることになった。
これは、私の本質的な問題を更にクローズアップする結果となった。
このことに取り組む為の勇気の無い私は、働くことで、これらを何も考えずに時間を潰し、かつ、他人から見て、表面的に良い方向に向かっていっているという、カモフラージュをしようとしている。

多分、自分の精神状態を良く見せることで相手を安心させつつも、自分自身は心の奥底で悲鳴を上げているというギャップで苦しむことは目に見えている。

だけど、今の状態から、より良い状態を作り出すには、自分が楽だと思える状況を、とにかく物理的にでも作り出していくしかない。

生きている喜びなど無く、自分が楽しいと思えない日常の中で、苦しいから死んでしまいたいと言う気持ちよりも、私自身が楽しく生きられる為に、どれだけ自ら行動していける自分になれるかが、一番のポイントだと思う。

でも、働くことはとっても不安。完璧主義者の私にとっては、緊張する場面で手が震えて、まともに字が書けない事が絶えられない。
こんなんで、仕事出来るのだろうか?

○6月18日(日)
人との関わりの中で、自らの癒しを強烈に求めつつも、人を信じる事に更なる恐怖と不信で、深い係わり合いが出来ない自分を感じている。

実際のところ、いろんな人が、私の重荷が減ったことについて、お祝いの席を設けてくれる。その事については、非常に有り難く、感謝に思っている。

でも、これらの方々の期待とは裏腹に、残念ながら、彼等の望むような自由や希望、希望的な未来を想像することが出来ない。私は、もっとひっそりと「他との干渉を全く受けずに生きる」事で、自らの癒しを自分自身で行いたいと思っているのだ。

他からの干渉を求めたり、受け入れて疲れたりする事は、今の時点では、まだまだ辛い作業だ。
従って、私の為の祝いの席で、どう振舞って良いか判らない。

○6月16日(金)
昨日、私の抱えている社会的な重荷が一つ減った。
ほっとする反面、嬉しいと感じない。

物理的な重荷から開放されたことを、お世話になったに方々に報告した。みんな、とても喜んでくれる。

ある方が、我が事のように、とても喜んで、涙を流してくれた。今まで、気に掛けて、とても心配してくれていたようだった。私が、幸せになることを心から願っての感情のようだ。その気持ちには、とても感謝している。

でも、私自身は、幸せになること、重荷から開放されて自由になることに、とても不安を感じている。

こうして、物理的な問題解決を、着々と行っているのも、一人の生活で何もしていないことに負債感を感じるから、本当は何もしたくないと思う心を押さえ、嫌でも社会で生活するために、論理的に必要と思われることを、無理矢理こなしているに過ぎない。

別に、幸せを望んでいるわけではない。ただ、出来るだけ心に負担を感じる人々や事柄から離れ、生活したい、と思っているだけだ。

その方々の思いには感謝している。でも、、、
でも、一緒にいると、あなた方の為に、無理して犠牲心で幸せになってあげてるって、思わせられてしまうの。
だから、やっぱり、一緒には居られない。

素直に、私自身の為に喜べる自分であれば、一番良いんだろうね。
○6月14日(水)
何故、普段何もしないでいると、何もかも、やりたくなくなって来るのだろうか。
何故、自分は何も出来ない、何をやっても駄目だ、何もしたくない、生きていて楽しい事なんてない、生きているのも面倒だ、死んでしまいたい、でも死ぬことも出来ない、と思ってしまうのだろう。

根本的に、自分は自由に生きても良いんだ、とか、幸せになっても良いんだ、と、思っていない。
とは言え、無理やり、論理的にプラスに思いこもうとしても、感情が、「嘘だ」、と言う。
今の現状は、心から自分が幸せに生きる事を願えるようになるために、物理的にでも、無理矢理生きて、他に迷惑掛けない為だけに、足掻いている気がする。


この間、旅行に行った際、夫婦や家族、そして親子がそれぞれが幸せに生きる事を、お互いに大事にしながら生きていると言う、幸せを絵に描いたような家庭に出会った。そして、その一人一人から、手厚い歓迎を受けた。

私にはそれがショックだった。
そんな家庭が、現実に存在すること。そして、「全く」見ず知らずの私を、親子ともに何の気がねなく自然に大切に扱ってくれることが、嬉しいながら信じられなかった。

私は、旅行で同伴した友人に、そんな家庭がこの世界に存在することに驚きを隠せないことをメールで話したら、彼女はこう言ったのだった。
「有る筈無いと思っているものが、在るのよね。有る筈が無いと思っていたら、それはいつまでも自分の中で有る筈の無い夢物語で終わってしまう。
自分がそうなりたいかなりたくないかは、別問題だけど、現実を見る上で、いい意味のショック療法であったらと思います。」
彼女の言葉は、ボディブローのように、じわじわと体に響く。


今の自分は、私が幸せで自由に生きて居ても良いという思いが、心の中に存在していない。どちらかと言うと、否定している。

そんなものを望んではいけない。皆の為に生きなくてはいけない。我慢しなくてはいけない。カルトで犯した罪を償わなければならない。加害者として罪を償う立場で有る。幸せになる資格はない。
従って、自分がこうありたいと言う未来も想像できないでいる。

私って、脱カルトの重症なマインドコントロールにかかっている気がする。


全ての重荷や制約を外したとしたら、私がそうなりたい、と思う世界を、思い描くことが出来るのだろうか。
でも、、、どうしたら良いんだ。。。
○6月13日(火)
梅雨の鬱陶しい空気と、薄暗い光で、無気力感に拍車がかかる。自分自身に嫌気がさし、もういい加減、イライラが溜まり、爆発しそうになったので、外に出て、気分転換をする。

まず、自分自身に自信を持たせる為に、きちんと身だしなみを整え、化粧をする。これは、外向きの自分を作る為の大切な作業だと思っている。ここで自信を得ると、自分自身にもハッタリをかませられるのか、恐い感情が減少する。

気分転換の「定番」、美容院で髪を切る。髪を切って、見た目の自分をすっきりさせることで、内面の自信アップもしようと思う。ここでいつも問題なのは、店員さんとの会話。

はっきり言って、面倒なんだ。日頃の日常的会話は、一般的な話題に関心の無い私には、とても苦痛。更に、恐いと思ってしまうと、一対一の状況で、店員さんの存在そのものが、恐怖になってしまう。

でも今日は、話題がアトピーの話しになり、得意分野(?)を語る場合は恐怖感が少ないので、割と気持ち良く、過ごすことが出来た。
気を良くして、更に洋服を買いに行く。これも店員さんとの一対一の交渉になるので、普段は出来るだけ避けたい場面だ。
だが、これから働きに外に出る自分を想定すると、余りにも会社用の服が少ない事は問題があり、どうしても、それに対処する必要があった。

いろいろ見て周り、店員さんに話し掛けられるのを極力避けていたが、やはり話しかけられてしまう。
ただ、今日は気分が良かったせいか、昔ハッタリかましていた自分が蘇ったようで、無難にやり取り出来る。

不思議だ。「昔とった杵柄」ってやつか。
○6月10日(土)
とうとう梅雨入り、湿度の高い状況を確定されたようでうんざりする。
しかし取りあえず、気温が高くなければ、体も少々楽に感じる。
体の状態もこの温湿度に慣れてきた様で、落ち着いている。
特に悪化もしないけれど、改善もされない、五分の状況。

湿度による体のだるさで、なかなか外に出れず、これが精神的に独房に追いやってしまい、何も出来ないことにイライラが募る。
これをなんとか打破しようと、プレステでゲームをやってみるものの、これが更に社会から逃げている自分の象徴のように思え、負債感ばかりが募り、好きなはずのゲームも全く楽しいと感じることが出来ない。更にいらいらとやりきれない思いでいっぱいになる。

このままではまずいと思い、夕食も兼ねて外出する。
引きこもりの精神状態は、どうやら、更に他人への恐怖感や不信感を増すようで、久しぶりに外に出ると、全ての人に「恐い」とか、「リラックスできない」という緊張状態が生まれてしまう。
でも、多少の時間を置けば、慣れと、昔やっていたハッタリでその場をやり過ごすことが出きる。

これからなるべく人と触れ合わなくて生きたいと思っていても、最低限の関わりは必要で、やはり、これから自分の力だけで生きようと思うと、雑多な他人の中で生きていく術を身につける必要性を感じている。
いちいち傷ついたり、落ち込んでいては、一人では生きていけない。

何とか、恐い感覚をやり過ごし、世間の中で生きる方法を見出したいと思う。まずは、毎日外に出て、少しでも恐い感覚を麻痺させる為、アルバイトを探してみようと思う。(本当は恐いから、何もやりたくないんだけど)


と、こうして書いている私は、まだまだ上辺だけか。
今、自分が本当に生きたいと望んでいるのか、幸せになりたいと思っているのか、はなはだ疑問。
もっと、本質的なトラウマは、未だに文章化できない。
日を追う毎に、日記はブラックになっていく。(^^;
○6月8日(木)
何だかんだ言って、動けない自分が嫌になる。
物理的に、温湿度の関係で、体はだるく、アトピーは悪化、ものすごく動けない状況ではあったのだが、うだうだと動けないことに、腹が立つ。

精神的に不充分だし、人間関係や社会での些細なことでいちいち傷つくし、体力的に全くスタミナが無いので、社会に出ていくのは無理かとも思えるが、無理矢理にでも、働きに出ようと思う。

今の自分は、これからどの様に生きたいのかの、気力や希望は、まだ殆ど無い。
しかし、物理的に親に頼らずに「私一人の力で生きる事」に、僅かながらの生きる方向性を見出している。


私は、かつてからのトラウマとして、私の存在を全て回りの親族に犠牲として捧げ、自らの幸せを放棄しているのが、当たり前だと思っていた。

今も、その思いは強く、私は、自らの快楽や幸せの為に生きてはいけないと思っている。
今、一人の生活を満喫しているように見えても、私は、自分の楽しみの為に遊んだり時間を潰す事には、嫌悪感を感じ、どうしても楽しめない。自分が楽しいと思うことは、負債を感じ、楽しいと思えなくなる。

その事に気づき、自分自身が楽しいと思うことを、自分自身の力でやってみたいと思う。その為に、自分の自由になるお金を稼ぎたいと思っている。
ただ、精神面、体力面が、ものすごく不安でやたらと動けない。
○6月7日(水)
井上被告のマインドコントロールが多少なりとも理解され、死刑から無期懲役に判決が下ったとしても、マインドコントロールの被害の理解については、まだまだ甘いと思う。

こうした世間の理解の中で、例えば、私自身の罪はどの様に下されるのだろうか。
殺人は犯してなくても、数ヶ月に及ぶハンカチ売りは、多分詐欺行為に当たるし、伝導行為も、人の心を操り詐欺に付随する行為として裁かるだろう。
今の時点で、その様な訴えを起こされなくても、私自身は裁かれている気分になり、それが理不尽だと、思う気持ちとあいまって、気持ちの上で動けなくなる。
○6月6日(火)
オウムの井上被告の無期懲役判決を知る。いろいろ思うことがあってちょっと憂鬱。
彼自身が、マインドコントロール下にあったとしても、彼の指揮のもとに殺人が行われてしまったことに付いては、彼は傷つけた人々に対し、明らかに加害者であり、もちろん罪を償うべき事と思う。

ただ、彼が16歳と言う若さで、オウムに入信し、その世界の論理構造のみで生きてていくしかない状況で、彼の本来の正義感や平和への願いが摩り替えられて、彼の精神を操られて、罪を犯さざるを得なくなった彼も、マインドコントロールで、人格や精神そのものを奪われた被害者であると思う。

世間や社会での人間の生き方を学ぶ前に、オウムに精神を奪われた彼の行動が、サリン殺人という行動を産み、彼自身を無期懲役という牢獄の人生を歩ませる事になった事を、悲しく思う。

ニュースによると、彼はオウムの内情を証人として発言することで、検察側からの死刑求刑を免れると言う希望を持っていたそうだが、結局検察は死刑を求刑し、彼の他人への人間不信も更に強まってしまったと聞く。

彼の精一杯の謝罪と償いの生き方の中で、それでも裏切られる事に、そこで大きく傷つく心に、悲しみを覚る。
きっと、彼の置かれている立場に比べると、私はずっと生易しいところに居るのだけれど、検察や警察、裁判官や弁護士に至るまで、権威があることで本当に信じられる人間ではなく、その中で彼が更により良く生きられる人間は少ないと私は思う。

本当に信じられる人間を、権威とは無関係に探し出して、彼自身の償いと、これからの人生に少しでも希望が持てるものになれれば良いなと、心から願う。
○6月5日(月)
一日を通して、精神的にほぼ安定して過ごすことが出来た。
ただ、毎週、日本テレビの「永遠の仔」を見るまでは。

現在私は、普段ここ最近は、親や家族を全て別の存在として考え、全く無視し、過去を全て無かった事として、「自らの力で、たった一人でこの世界を生きる」事に集中して考えて、前向きに生きようと考えようとしている。

しかしあの映像を見ると、どうしても、自分が過去に苦しかった思いとだぶってしまい、怒りと屈辱感が呼び起こされ、どうしても過去に引きも出されてしまう。そして、、ただ涙だけが流れ落ちる。

過去に傷ついたことは、傷つけた相手には立場や環境として、理解不可能で、被害者の私が理解して貰うには、私自身が相当量の努力やエネルギーを出さねば無理だと感じる。
従って、彼らに私の苦しみを理解して貰うには、相当の時間や私自身のエネルギーを費やさねばなるまい。

私は、親や姉妹の愛情を、ものすごく必要としているにもかかわらず、彼等の置かれた環境を考慮しつつも、彼等の状況をどれも受け入れられず、私自身の苦しみを理解してもらえないと言う、その狭間で苦しんでいる気がする。私はこれ以上、どうして良いか分からない。

今の私は、親や権力の支配の上にではなく、ただ、私の存在だけで無条件に愛され、
誰かにそっと抱きしめられたい(恋愛感情ではなく)、と思う。


○6月4日(日)
ケア研(統一教会脱会者の為の自主的トラウマ開放の会?)の会合に参加する。
現在参加会員5名、一般的な市民の会話では、全く問題にならないような内容が議題に上り、「超」重要議題として、真摯に話し合う。(笑)
話し合われた内容は多々有ったが、その中で私が心に残ったのはこの内容。

夫婦間に問題が有る時、相手への不満や恨みを全て書き連ねると、最後に相手への愛情のみが残る。
その愛情の部分だけを相手に伝えると、気持ちが伝わるようになる、と言うこと。

私は今、それを、自分自身にやっているような気もする。
今までの自分の内にある恨みとか苦しみとか、書き連ね、自分自身に納得させようとしている気がする。
そうした恨みがましい自分の気持ちのずっと先に、最後にでも、自分自身への愛情が出てくれば良いなと思ってる。
○6月3日(土)
恐怖感は昨日ほどは感じない。慣れたのか、少し楽。
掲示板作成のため、いろいろと調べてみたが、安全性、機能性、が確保されて無料、、と謳っているのが、いまいち信じられず、躊躇してしまう。
私ってやっぱり、人間不信。
今日も、こうして書くまでに、相当飲んでしまいました。もう寝ます。今、夜2時近く。
○ 6月2日(金)
日記に自分の恐怖感を露わにすることで、今まで無意識的にしていたものを、更に表面化させてしまった。
人と関わるいろんなことが、恐怖に感じてしまう。

知人との会話にさえ緊張し、緊張したことにコンプレックスを抱く。
一人の生活では、そうした気持ちを、何度も反芻して、自らを窮地に追いやってしまう。
生きているだけで苦しい生活、という感じ。

何かに集中して作業したりすると、恐怖感が忘れられるから、その方が楽みたいだ。
だけど、それは本質的な解決にはならない。作業が終われば、恐怖感が戻ってくる。
作業自体も、自分が楽しむためのものではない。無理矢理やっている気もする。

このHPも、そうした気持ちの中で作っている気がする。

でも、一人でこうした気持ちを押し込めるよりも、吐き出す場を作ることで、自分自身が楽になろうと思っていることは確かだ。

今の私は、日々の生活をどうしたら良いのか、良く分からない。

こうして日記を書いていられるのは、アルコールが入って、恐怖感を鈍くさせてしまっているから。
本当は、日中から、アルコールを飲みたいと思う。そのほうが恐くないから。
皆さん、すみません、この日記はアルコール入っている時に書いてます。

○ 6月1日(木)
日々、思うことがあり、落ち込む要因は多々あるけれど、こうして文章にしようとすると、具体的に何に悩んでいたのかが思い出せない。
でも、近頃の傾向として、人間全体に対する恐怖感が心の奥底にあって、いろんな場面でその恐怖感が現れて、ちょっとした事で、落ち込むように思える。

全く他人との会話、お店の店員さんとの会話だけでも、私は相当緊張している。
客なのだから、堂々としていれば良いぐらいのことは、分かっている。
でも、体と感情が、論理とは別に反応してしまっている。

人の不快感に出くわすのが恐くて、緊張して震え、うまく喋れない。
相手の感情を読み取り、好印象を与えるための返事をしている。
恐怖感を隠していることに劣等感を持ち、更にコンプレックスは深くなる。

子供の頃からだな、この症状。もう克服したつもりだったのに、自分自身で隠していただけだったのね。
小さい頃からの親との関係で、気持ちが萎縮してしまっていた事は、分かっているけれど、親に責任を問うても、そう感じるしかなくなった感情を直すことは出来ない。
論理的に恐怖に感じなくて良いことは分かっているのだから、自分で、大丈夫と思えるまで、人に接してみるしかない、と思う。でも、やっぱり恐いんだな。疲れるし。


2000/7