夜桜の苦悩2

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1.監禁、PART2、神奈川

1995年11月25日
95年の祝福を受けたので、渡韓して、結婚生活をする事を妹弟に報告する為に、渡韓前に、協会外の飲食店で妹弟と面会しました。

その直後、家族親族10数名に取り囲まれ、路上で拉致されました。

この時は、協会員の方も数名待機していたので、路上では私の体をめぐって、大乱闘の騒ぎとなりました。
その都心の大通りには、交通規制が引かれ、車はストップし、通り沿いには大観衆が見物して居ました。私自身は服はボロボロに引き裂かれ、それでも、無理やり家族の車に引きずり込まれました。無論、私も激しく抵抗しました。まるで、ドラマの1シーンのようでした。

私は、路上の大観衆(数百人)ほどの前で、ズタボロにされて、車に引きずり込まれた事が、人間として辱めを受けたように感じられ、悔しくてなりませんでした。
また、それを、多くの人に見物されつつ、通行人の数人しか助けてくれなかった事に腹が立ち、それ以来、社会の人々を心から信じる事が出来なくなりました。

そんな大騒動でしたので、警察が来て、警察署で事の成り行きを質問されました。
そこで、私自身が、「拉致監禁にあっている。保護してください。」と、自ら保護願いを出したのですが、統一協会員の救出で、家族には親権が有るということで、保護願いも却下され、警察も助けてはくれませんでした。
私は、統一協会員には人権は無いのか、と警察にも強い憤りを感じました。

また、もう二度と監禁はしないという事で、家族と面会したのに、その約束も破られ、またも家族に裏切られたという、悲しみと怒りも強く残りました。
家族親族との信頼関係は、そこでもう、完全に断ち切られました。


私を乗せた車は、警察署を出て、後を追う統一協会員を撒く様に走り、神奈川のアパートに向かいました。(無論、私はどこに向かっているか判りません。)車の中でも、私は暫くの間、羽交い絞めに押さえ込まれていました。車に同乗していた家族達は興奮で引きつった顔をしており、私は、「この人たちは狂っている」と感じざるを得ませんでした。

監禁場所でのアパートの生活は4ヵ月半にもなりました。

そのアパートは2Kで、窓には全て2重3重に鍵が掛けられ、ガラスシートが貼られ、決して外には出さないという、意図が感じられました。
トイレの鍵は無く、密室で閉じこもらないようにされていました。
部屋は、テレビ、ラジオ、電話、時計も無く、外部からの情報は全てシャットアウトされ、私と話し合いをしたいという人間(両親と妹)3人と、私だけの、密閉された、閉じ込める為だけにある、「異様でな空間」でした。

家族は、和やかに話をしようとは言いますが、それは建前で、自分達の話を受け入れさせて、統一協会をやめるまでは、この空間から一歩も出さないという、脅迫的な意識をありありと感じました。

無理やり捕えられ、密閉された空間に閉じ込められ、絶対に外に出させない意識を感じてしまうと、もはや、とても対等には感じられず、只、侮辱された屈辱感と悲しみで一杯でした。

親達は、私を取り戻したいから、話し合いをしたいのだと言いました。
しかし、私は、私の自由な行動を取り上げ、自分達の意思に合わせという意味の「取り戻す」という意味に感じられました。
私は親の個人的な欲望の満足の為に、まるで「ペット」の様に自分の行動を左右しようとする親達の真意に、反発心をもちました。

名目は統一教会から脱会させ、私の生活を自由にするという事ではありましたが、それは自分たちの満足のためである事に、腹が立ったのです。

原理的思考も入っている目から見ても、人権を蹂躙されていることへの怒りは、十分感じる事が出来たのです。


只、原理に入っていた為、アベルとしてどのような罪人も許す思いも有り、屈辱的な思いでしたが、私から話し合いを持つ事にして、彼らの罪を許そうと思いました。
アベルの立場として、自分を優位に立つ事で、この情況を絶えようと思ったのです。

親達は、私の事を聞こうと努力していたようですが、私の辛い気持ち、感情などは全て素通りしていきました。心を聞くのではなくて、聞いている体制を作っているだけなのです。

気持ちが通じ合うような話し合いには程遠い事を感じました。
また、話し合いの期限を決めて、私を自由にしてくれる約束を、何度もしたのですが、その約束日になると、約束はことごとく破られました。

そして、「ここでずっと一緒に居たい」とまで言われ、わたしは恐怖でパニックに陥りました。

これから死ぬまで、自分の精神を押し込め、生き地獄のまま殺されてしまう恐怖、そんな生き地獄を味合わせる人と、ずっと居なければならない嫌悪感、拒絶感。
そして、自分を助けに来てくれる人は、誰も居ないという絶望感で、全く生きた心地がしませんでした。

毎日毎日、自分の精神が殺され、社会の片隅で抹殺されている事を、実感しました。


それを、発狂もせずに、自己を保てたのは、原理の神が見守っているという思いが有ったからでした。

そんな心の葛藤の中で、家族と意思を通じ合わせる為に、私が原理を信じている理由を説明し、気持ちを理解してもらおうと努力しました。

原理講義をして、その説明の中に、私の家族への愛情と、世界平和への思いなど、私の心の深い思いを、精一杯、込めました。その為、原理講義と言っても、私独自の考えのもので、おかしいと思っているところは、私流に改ざんしたり、省きました。

でも家族は、そんな風に私の気持ちが詰まっている事など、何も気が付かなかったのでしょう。普通の原理と同じだと思って、聞いていました。

そして、私自身は、皮肉にも、家族を伝道する講師(アベル)として生きることで、この期間を精神的に、生き延びることがで来たのでした。

また、何故か家族も私のペースに合わせ、受講生(カイン)として従う事で、監禁者する側と
監禁される者と言う事実とは裏腹に、表面的には良好な家族関係を全員で演じていました。

ただ、監禁されつつ仲の良い家族を演じている、そのギャップの大きさに私は気付いていたので、私は人知れず苦しみ泣きながら演じ続けました。

しかし、原理講義を最後までやり終え、自分の心情を語り尽す時が来ました。 今度は、原理と反対側の意見も聞いて欲しいと言われました。

しかし、アベルとしての立場を守れなくなれば、私は只の監禁された人間として生きる事に繋がる気がして、受け入れる事が出来ませんでしたました。

更に、原理を止めた場合、今までの経験から、家庭や親族から、また自分の存在をないがしろに扱われ、自分の精神が生きていく場所など無いのだ、という恐怖感がどうしても付きまといました。

原理から落ちる(脱会する)事よりも、家族親族の、私個人の尊厳への浸入の方が、恐怖だったのです。

そのために、原理の間違いを聞く事は、私の存在そのものを賭けることであり、どうしてもそれは避けたかったのですが、原理のアベルとして、またカインの代表として、間違いを聞く決意をしました。

その頃、日本基督教団神奈川横浜市の戸塚教会の黒鳥栄伝道師(自称牧師)(最初は牧師と名乗らずカウンセラーとし、名前も旧姓津村に変えて名乗った)が度々監禁場所に来て居たのですが、黒鳥伝道師が家族達の上の立場にあり、背後で指示している事はすぐに見て取れました。

黒鳥伝道師は、カウンセラーと名乗っているにも関わらず、カウンセラーらしい働きはあまり出来なかったように思います。何故なら、只、統一協会の反対本をどさっと置いていくだけで、私への説得はカウンセリングは全く有りません。
カウンセラーなら、「クライアントへの否定は厳禁」な事ぐらいは知っている筈なのですが、黒鳥伝道師は私を明らかに否定しました。「貴方の信仰は信仰ではない。」と言ったのです。何を根拠に私の信仰が間違いであるかの説明も全く有りません。その言葉には理由も何も無い、単なる否定だけです。

私は、私の信仰の拠点が何であるか何も聞き出す事もせずに、「何を根拠にそんな事を言うのか」と、腹立たしく思いました。何故なら、私は、文鮮明ではなく、只、人の誠実さを義とする神のみを信じていたからです。
黒鳥伝道師は自分勝手に、統一協会員の枠に当てはめて、私が文鮮明を信じているのだと感じ、「唯一無二の一人の個人」として見なされていない事に、怒りさえ覚えました。

そして、本を読むまではこの部屋から出さないと言う意識を、黒鳥伝道師からも感じました。私が統一協会員であると言う事だけで、黒鳥伝道師には、人の人権を奪う権利が有るのだろうかと思いました。
それは私を更に腹立たしくさせ、この人は本当にカウンセラーなんだろうか、と不信に思いました。

私の食べたいものをお土産に持って来るだけはしましたが、私の話を聞いて心を落ち着かせる事も有りません。本を置いて行くだけなら、自宅でもできるではないか、と思いました。
その様に無理やり、自分達の意識と同じように行動させる事に、私は怒りを覚え、拒否しました。自宅で、父母が、好きなとき読んでみてと言うのなら、まだ納得がいきます。
しかし、あからさまに監禁された場所で、従わされる事は嫌で、拒否しました。ですから、自分から本を読むことは、一切したくありませんでした。

そして更に困ったことに、黒鳥伝道師のカウンセリングとは、「本を持ってくる事」、と親の不甲斐なさを罵倒し親達をパニックに陥れる事だけでした。
黒鳥伝道師は、私の目の前で、父母の私への対応を、父母に激しく怒鳴り散らし、帰って行きます。お陰で、父母はその後頭が真っ白になり、茫然自失状態になりました。
反面私は、親に対する私の怒りを代弁してくれて、「ざまあ見ろ」と、内心ほくそえみました。
父母も妹も、黒鳥伝道師が来るたびに緊張し、父母は、私への対応も、更にまともに出来なくなっていきました。
黒鳥伝道師の存在は、残念ながら、この異様な空間に、入り込んで状況を悪化させるだけでした。

後で分かった事ですが、妹が毎日買い物と称して、外に出ている間、妹は黒鳥伝道師に電話連絡して、監禁情況を伝え、黒鳥伝道師から指示を受けていたのです。

しかし、黒鳥伝道師や家族に怒りの感情を見せては、私の身の安全、いわゆる私の人権の回復には、とても辿り着ける状況ではない事も、十分承知していました。だから、内心とても屈辱を感じながらも、なるべく怒りを見せないように、勤めました。
そして、今まで何度も私を裏切った家族よりも、この家族をまさに指示し牛耳っている、黒鳥伝道師の信頼を勝ち取れば、私の身の安全と人権を取り戻す方向に向かうのだと、思いました。

私は既に、黒鳥伝道師が私の人権を奪ったり開放したりする権限を持っていたと、感じていたのです。

そして、原理の間違いを聞きに良くと言う条件で、もし私が原理を離れる事が有っても、私の人権を損なわせない事を、「親」ではなく、「黒鳥伝道師」に約束させました。物理的に精神的にも、絶対に家族達に身辺を侵されない空間、私が自由に生きていく場所を、「黒鳥伝道師」に保証させたのです。

この事で、初めて安心して正直に原理の反対意見に向き合う決意ができました。

そして、日本基督教団群馬県の太田八幡教会清水与志雄牧師(現在名古屋県)のもとに向かったのです。

その際に、もし私が神に対し、間違った方向に行ったら、わたしの命を差し出す事を条件に、家族を正しい道に導いてくれるように神に祈りました。

私はこの4ヶ月間、私自身というものを理解してもらう為に、また、原理的にも、やれるだけの事は、全てやり尽くした。あと出来る事と言ったら、私の命を差し出す事ぐらいです。


監禁中は、生きることも出来なかったけれど、死ぬ事も出来なかったのです。だから、せめて、神に殺して貰おうと思ったのです。私はここで、自分の命を捨てました。

まさに死ぬ覚悟で、神に私の生死を委ねて、群馬の清水牧師に向かう事を承諾しました。

そして、また、囚人のように他の車に護送されて、別の場所に送られました。そうした決定をしたのは、黒鳥伝道師です。

どんなに、仲良し親子を演じていても、未だに、私は親達に監禁されている身であることに変わりは無いのです。


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