あるひあるとき
牛鳴日記のひとこま


ウイスキー選び

私は酒が飲めない、いわゆる下戸のたぐいである。
下戸だが酒が嫌いなわけではない。
親戚兄弟も会社周りの仲間もよく酒をのむ。
飲みながら話をするのは話が普段出ない話題に発展したりするから飲めなくても飲む機会は好きなのである。
朴訥な人間ほどアルコールの酔いを通じて周りとの疎通を図る必要があるから。
機会があればよく飲むのだが如何せんたちまち酔っぱらって気持ちが悪くなり、話どころではなくなってしまう。
この悪酔いは翌日まで続くことになる。
酒に弱いからと言って度数の低いビールやワインなら飲めるのかというとそうではない。
むしろ口当たりがよい酒は飲み方も早くなるから酔うのも早くなるのは当然の理である。
かえって度の低いビールなどの方が量を飲んでしまうことになり悪酔いもまぬがれないのである。
会社をリタイアするまではもっぱら飲み会は生ビールの小ジョッキであった。
リタイアしてからは飲む機会がなくなってアルコールそのものが縁なしになってしまっていたが、たまには飲んでみようかと、まぁ家庭では生ビールはむずかしいからワインにしていたけれど、ワインは一旦栓を抜いてしまうと一本分飲むことができず瓶を空にするのに一週間もかかってしまう。
当然味も落ちて不味くなってしまう。
さらにワインは糖分が多く、私は、血糖値は高くないのだが寝る前の糖分は歯に悪い。
ん、ウイスキーならば糖分はないだろうし、むしろアルコール度が高いと口内消毒になるかな・・・
ウイスキーほどのアルコール度数では殺菌効果はないだろうけれど・・・

私は酒に弱いからと言って酒を不味いとは思わない。
のど越しの冷えを感ずるビールなどはじつにうまいし、リースリングの香りがするワインなども実に美味と思っている。
ただ、生まれながらの貧乏性というか食い意地が張っていて飲みももののように腹に溜まらないものは美味高価であればあるほどもったいないという意識に陥ってしまう。
さて度の弱い酒は別として度数の高い蒸留酒はうまいだろうか。
トリスとサントリーでは味が異なるだろうか。
飲んでみたけれど口に入れた途端アルコールの度数が違うからピリッと来る刺激がまず異なる。
しかし、味はよくわからない。
同じでないことはわかるのだが旨味にちがいがあるのかどうか、わからない。
確かに香りに似た風味があること、甘みがあること、それらに違いがあることもわかる。
しかし、どっちが旨いかといわれると答えようがない。
じゃニッカならどうだろうか。
いずれも味に違いがあることは分かるけれどどっちがいいのかわからない。
じゃ、もっと高級な・・・・高価なウイスキーはうまいのだろうか。
値段の違いがべらぼうの差があるのだからその味は、と気になってしかたがない。
人に言わせると、やれ柑橘のリッチな香りとか、スモーキーでデリケートとか、ひどいのになると金属的でぬかの味だとか、雨合羽と汗の融けたプラスティツクだなんて、こりゃ一体何なんだ。
ウイスキーの味なんてどんなに言葉を並べてみても言い尽くせるものではないようだ。
それなら自分の口で味わってみるしかなさそうだ。
じゃひとつ高級ウイスキーとやらを買って見ようか、と品定めするべく酒屋をのぞいてみた。
いや、まえからあった近所の酒屋が店をたたんでいる。
残っている酒屋を覗いても高いウイスキーなど並んでいない。
どうやら酒類はスーパーマーケットに移動したようだ。
そのスーパーマーケットでもトリスやサントリーはあっても、年代が付いたいわゆる高級ウイスキーは売ってはいないのだ。
なんでも原酒が不足して品物ができないらしい。
それにはテレビの大河ドラマで竹鶴ことマッサンがやられてからウイスキーの人気が上がり、品薄となった商品を買い占める輩がでてたちまち値段は倍に跳ね上がってしまったという。
日本のウイスキーが何とか賞などとウイスキーの本場でも認められたといういきさつもある。
いまや高級ウイスキーは小売店には物がなくネットだけで馬鹿高値で売られている。
確かに樽のままただ寝かせ続けなければならないウイスキー原酒は売れるからと言って使ってしまえばなくなってしまう。
日本のウイスキーが高値で入手できないというのなら、いっそ本場のスコッチを試してみる時ではなかろうか。

私は度数の高いウイスキーなぞ多くは飲めないから嘗めるようなものである。
猫又が行灯の油をこそこそと嘗めるようなものである。
猫又が行灯の油を嘗めるのは、行灯の油に魚の油を使っていたからで貧乏長屋の暮らしでは高価な菜種油を使えなかったからである。
臭いけれど魚の油は安くて貧乏人はしかたなく使ったのである。
ま、猫にとって高価な菜種油より安い魚の油の方があっていたのかもしれない。
年金暮らしの私は決して豊かではない。
けれども酒は大量に消費するものではないから、むしろ一本の封を切ったら瓶が空になるのは何年後になるかわからないというもの。
毎晩としても一回にワンショットの半分にも満たない量である。
まさに嘗めている程度なのである。
ならば安いウイスキーである必要はない。
さて高級スコッチウイスキーはうまいだろうか。


ウイスキーボトル

子供だったころ村には店か一軒しかなかった。
終戦後ということもあったろうが、酒や油は空き瓶をもって買いに行った。
量り売りである。
行かされるのは子供の役目でもあった。
ウイスキーの本場、イギリスでは1860年まではスコッチを買うのにジャーなどを持って樽から直接買わなければならなかった。
瓶詰のウイスキーが登場したのはジョン・デュワーによるもので今のデュワーズである。
ガラス瓶にコルクの栓をしてラベルを張り付けるという今のスタイルを確立した。
確かにそれは画期的な発明であった。
ウイスキー凝った瓶の形や多彩なラベルを見ているとそれだけでうれしくなってくる。
もしもウイスキーがスタンダードなビール瓶のようなかたちの瓶だけだったら、私はウイスキーなどに手を出さなかっただろう。
ワインも好きではないのは瓶の形がなで肩か怒り肩の二種類しかないからである。
もっともビールやワインのように一回で空になってしまうのでは瓶の形なぞにかまっていられないだろうけど。

江戸時代には通い徳利と云う制度があった。
最初は徳利に入った酒を買い、なくなったら空の徳利を持参して酒代だけで交換するのである。
これはうまい方法とおもう。
この制度が何故なくなってしまったのだろう。

イギリスでは空瓶に別の安ウイスキーを詰め替えてもぐりで販売するといったことが横行していたようで、それができない様に瓶の首に玉を入れてひっくり返さないと注げない工夫の瓶があった。
その玉入りボトルは今でもオールドパーやジョニーウォーカースウィングで見られる。
こんな瓶の多様性が味の違いとあいまってブランドのイメージとなっている。
ウイスキーはそこが良いとこであるのだ。


フェノール

匂いには良い匂いと嫌な匂いしかない。
ただその中間に無数に存在する匂いがあるのだが人によって感じ方が違う。
味には五味があるけれどその強弱、中間にもおなじように無数の匂いが存在する。
その感じ方も人によって、また時によって変わってくる。
それをことばで言いあらわそうとすると、何かに例えるしかない。
ウイスキーのテイスティングノートを見ているとバナナ、ミントの香り、リッチでスイート、味は蜂蜜の如くでスパイシー、スモーキーな味わい・・・などと実に美味そうに表現されているけれど決してどんな匂いでどんな味なのか想像はできない。
感じ方は人さまざまなのだとおもう。
そんななかに、「ん」と目を凝らす言い方があった。
ゴムの長靴、病院の匂い、コールタール、インク・・・
そんな言葉をつなぎながら最後にはバランスの取れたコクなんてほめている。
それで、じゃ試してみようかなんてことになるのだろうか。

小学校に通う「おうみち」はバスやトラックが通るので、ところどころへこんでいて雨が降ると水がたまる。
トラックのエンジンから漏れた油が虹のように広がって綺麗だった。
学校の行き帰りにトラックに行き合うことは多くはなかったけれど、偶に追い越されると白い煙いがもくもくと出ていてその匂いは良い匂いであった。
子供達は、あぁ良い匂いだとトラックの後を追いかけたものだ。

高等学校は機械と化学と紡織に別れていたが私は化学を選んだ。
薬品のいろいろな匂いを経験した。
フェノールも硫化水素も嫌いではなかった。
(ただひとつベンゼンだけは好きになれなかったが)
メルカプタンもスカトールも拒絶することはない。
クサヤだってドリアンだって問題なく食べられる。

モルトウイスキーの匂いの中にゴム長、コールタールの匂いを感ずるのは泥炭を燃やすので硫黄やフェノールが含まれるからだと合点がいった。
コールタールもインクの中に含まれる防腐剤もフェノール、そうだ文豪がパイプ片手にウイスキーを好むのはパイプの吸い口であるエボナイトのせいである。万年筆のエボナイトもそうだ。
あれはゴムに硫黄を混ぜたものである。
おなじ匂いなのだ。
日本のサントリーなどを飲んでみてなにか物足りないと感ずるのは、そうだ硫黄やフェノールの匂いが足りないからだ。 子供の頃からトタン屋根に塗ったコールタールやエンジンの排気ガスのにおい、エボナイトの万年筆を磨く匂い、削ってこしらえたパイプの匂いに共感しているからだ。



ジュラ

ウイスキーの本場、スコットランドは、作られる場所によってその味香りが厳然と区別されていて、ずっと伝統となっている。
ハイランド、スペイサイド、ローランド、アイランズ、アイラなのだが、ウイスキーは水によって左右されることから、川の流域がその産地であることは容易にわかるけれど、アイランズすなわち島部は、その緯度も随分異なるのにひとくくりにされている。
しかも、その中でアイラ島だけは、またひとくくりになっている。
そうだキャンベルタウンもある。
ウイスキーづくりは長い歴史によっているから、その理由は知るところではないけれど、不思議なことである。
多くのスコッチの、ピートの味が強いのは、イギリスという国がずっと、ピートすなわち泥炭を暖房や厨房の燃料にしていたからで、あの燃えにくい泥炭の煙に含まれるフェノール(石炭酸)の匂いは、国民に刷り込まれた郷愁であるのだろう。
私も、日本のウイスキーに何か物足りないと感じているのは、フェノールの匂いが足りないのだと思っている。
それは、高校時代の化学の実験室の匂いの郷愁であるようだ。
夏目漱石がイギリスに留学したとき、霧のロンドンとはいうものの、霧とピートを燃やした煙が混ざったスモッグの異様な匂いに辟易したと書いている。
当時はまだ泥炭を燃料としていたのだろう。
前置はそのくらいにして、アイランズのジュラ島のウイスキーに気を引かれるデザインのものがある。
ジュラというウイスキーの瓶は、真ん中がくびれた独特な形であるのだが、その窪んだあたりに不思議なマークが付けられている。
目玉のマークである。
エジプトのホルスの目に似ている。
また別のボトルにはエジプトのアンクがついているものもある。
アンクとはエジプト十字で、ファラオが手にしている道具であるから、目の模様もホルスの目であろう。
目玉のボトルは、プロフェシーという名前で、意味は予言である。
なんでも、それはは、昔、予言者の女が「キャンベル家の最後の一人が独眼となって、破産し白い馬にのって去るだろう」と予言した。
キャンベル家は立腹してその女を追放した。
1939年、第一次大戦でチャールズ・キャンベルは片目を負傷して帰還し、その後、事業にも失敗して島から去った。
その時の馬車は白い馬だったとか。
してみるとエジプトのホルスの目ではないようだ。
ホルスの目は左目、ウジャトの目が月を表し、右目、ラーの目は太陽を表すのだという。
癒しや再生のシンボルである。
かのプロフェシーの目は抽象的な柄で左目なのか右目なのかわからない。
アンクのついている方のボトルはスーパースティションという名前で迷信という意味。
エジプトのアンクは生命を意味するもの、
ジュラのスーパースティションはジュラ島に伝わる「四月のピートカットは不吉」という迷信からだとか。
ピートはピートカッターという長いシャベルで切り出すが、はじめは水分が多くて乾燥させなければならない。
何故四月のピートカットが不吉なのかわからないけれど、エジプトのアンクとは関係なさそうだ。
してみると別の何らかの意味があるのだとおもう。
ロンドン塔に烏が居なくなると、王室は滅びるという迷信から、イギリスの王室では、高く飛べなくした烏を、ロンドン塔で飼育しているとか。
そういう国柄だから、こんなウイスキーがあるのかもしれないねぇ
ジュラのウイスキーには、他にも、いわくありそうな名前のものがある。
ジュラ・エレメンツという四本のボトルで、それぞれにアース、ファイアー、ウォーター、エアーという名前がついている。
地、火、水、空気・・・あれ、これは四大ではないか。
仏教でいう四大すなわち地・水・火・風(空を加えて五大・・・日本でも五輪塔のシンボルである)である。
四大とは宇宙の生成要素、すなわちすべてのものの根源である。
ジュラのエレメントは、ウイスキー生産当時からの、生活の象徴であると同時に、ウイスキーづくりの構成要素であるのだという。
ウイスキーとはすなわち宇宙であるのだ。
洋の東西を問うことはない。
そりゃそうだ。
酔えば、ちっぽけの人間の中にある苦なぞ、屁ともない。
全宇宙を手中にできるのだから。
こんな壮大にして幽玄なウイスキーは他にないだろう。


飾り物

正月だからと言って門松を立てる家もなし、しめ縄を飾る玄関もない。
家の中にだって、神棚もない。
そのかわり、疫病神も来はしないだろう。
瓶の形をたよりにウイスキー選びをしたものだから、瓶は「飾っとく」になる。
「飾っとく」で目の薬になるのなら、そりゃそれでいい。
ウイスキーぐらいの度数になると瓶の儘置いといても腐りはしない。
むしろ、水分とアルコール分の調和が進んで、いくらかでも追熟するかもしれない。
というわけでガラスの本棚に並べたけれど、日足の長い冬の陽は部屋の奥まで差し込む。
太陽の光は赤外線や紫外線を含む。
太陽の光は物の劣化を早める元凶である。
ウイスキーにかぎらずどんなものにでも・・・
此の頃、手の甲をつらつら眺めると、シミや疣のたぐいか、皮膚の一部が盛り上がって点々と変質している。
面の皮は厚いから、それは少ないけれど、手の皮は一番陽に当たってきたのだろう、よく目立つ。
こりゃ紫外線の仕業だな。
ウイスキーの瓶に色がついているものがあるのは理にかなっている訳だが、せっかくの琥珀色が隠れてしまうのは無粋というもの。
ま、度々引っ張り出して飾ったり、箱に入れて押し入れに仕舞いこんだり・・・
そんな風にするのも一考かもしれない。
先日、酒屋で並べてあったウイスキーを買って、「箱を」といったら、店員いわく、「御遣いもん」ですかときた。
1ダースで仕入れて箱なしで販売する店が多いのである。
とはいうものの、これから先、いくら頑張ったって二年も三年も生きていられるとは限らない。
気にする自分が可笑しいのである。
昨夜飲んだショットグラスがそのまま置いてある。
すっかり乾いているのに鼻を近づけるとレモンの様にいい香りがする。
あぁ、これがウイスキーのフレーバーなのだなと、これからグラスは翌日まで洗わないことにする。


古酒

バブルの頃はどの家にもサイドテーブルにナポレオンが飾ってあった。
サイドテーブルがなければ茶箪笥にカミュがのぞいている・・・
だが食うや食わずで頑張ってきた世代、高価な瓶を開けることを躊躇する。
何時まで経っても飾ってあるのだ。
日本でもデカンタ入りの豪華なウイスキーが矢継ぎ早に販売された。
昭和はそんな時代であった。
高嶺の花だったサントリーオールドがやっと飲めるようになって、酒飲みへの正月のみやげは干支の形をしたボトルであった。

いろんな商売があるもので昔の酒を買い取って、それをほしい人に売る・・
酒だけではない、テレホンカードや使わなくなったハンドバック、切手等など、それ等は終活や遺品の整理も含まれる。
ウイスキーは日本の年代物が不足していることもあってこのところ人気がでているそうだ。
終売になったウイスキーは何倍もの値段がついて、たちまち売れてしまう。
バブル当時のウイスキーはボトリングされてから30年50年経っている。
それらは明らかに中身が目減りしている。
栓には封がしてあって、あけてはいないのだが、栓のコルクを通して蒸発したことがわかる。
一年に1CCほど目減りして三十年でシングル一杯ほどなくなってしまう。
当然、澱もでてくる。
味はどう変わっているのか、それは飲んでみなければわからない。
あるバーテンダーは、ボトルを数か月で飲んでしまうことを勧めている。
すなわちあまり長く保管していると量だけではなく味も損なうということだ。
私のボトルは、私は嘗めるようにしか飲んでいないのだから、何時まで経っても空にはならないだろう。
ま、いいさ
天使が飲んでくれるだろうから。


シングルモルト

私はウイスキーを飲んでみようと思い立ったとき、迷わず、酒を初めて飲んだ頃の味、トリスウイスキーにした。
トリスやニッカは金のない若者の定番であった。
あのころは少し余裕の出来た先輩たちはサントリーであったが、それが美味いだろうなどとは思いもしなかったから、飲んでみたいとも思ってもいなかった。
ところが、今は、まてよサントリーは美味いのだろうか、もっと高価なウイスキーは価格の差ほど美味さが違うのだろうかと興味が湧いてくる。
そんなわけで数種類飲んでみたけれど、意に反してどれも同じような味であった。
値が張ると、アルコールの刺激が、確かに滑らかになるとは感ずるけれど、口に含んだ味は同じようなもので、これがウイスキーの味なんだと納得していた。
それが、たまたまシングルモルトを飲んでみた。
何と全く違うのである。
今までのブレンデットウイスキーとは明らかに違う味であった。
それが特に美味いということではなく、なぜか後ろ髪を引かれる感じがする。
口に含んだ瞬間、蜜のように甘いと思ったら次には石炭のような煙の味となって、あれよと思っているとチョコレートになってしまう。
何種類か試してみたが、そのすべてが違う味なのである。
その余韻はずっと残っていて、後日でも舌が覚えているのか、後ろ髪を引かれるとはこういう事なんだろう、再び飲んでみたくなるのである。
ところが、舌は馬鹿なんだろうか。
忘れるのだろうか。
慣れてしまうのだろうか。
二回目は、どうも先だっての感覚と違うのである。
シングルモルトの種類は何千あるのか、その各々が今でも健在な理由がわかる気がする。
たった数種類試飲しただけでこうなのだから。


未知試料

世の中には、どうしてこうも沢山の種類のウイスキーがあるのだろうか。
米の種類であれば、産地によって異なる味や硬さがあり、美味い米もあるけれど、どれも同じご飯ができる。
いくら味が違うと云っても、その全部を食べ比べてみようとは思わない。
しかし、ウイスキーだけは何故かその味の違いが気になって、とても全種類なんて飲めないけれど、せめて数種類くらいは飲んでみたい衝動に駆られる。

昔の話だが、高校では化学科だったから一週間に二日ほど化学の実習があった。
数か月に一回は、未知試料の分析である。
言わば実習のテストであり、講師から一人一人に未知試料が渡される。
試験官に入った未知試料は、まずは友達と見せあい、色の違いや匂い、沈殿物があるかどうかを比べてみる。
どれも似たようなものだったが、それでも比べると微妙に色が違ったり粘度が違ったりしたから「多分お前と同じだろう、一緒にやろうぜ」という具合になる。
生徒は四十人、全部違う試料を作れないだろうと、高をくくっていたわけである。
というわけで、目の判断がまずはじまりであった。
そんなことは、できねん坊主のすることで、自信のない証拠であるのだが。
が・・・、しかしそれはあながち間違いでもなかったと思っている。

幾つかのウイスキーを並べてみると、琥珀色とはいえ、その色は微妙に違っている。
匂いはどれも明らかに違っている
瓶の形やラベルの違いもおもしろい。
まず目の楽しみである。
味を確かめるのはその次である。
はは、かつての未知試料のテストのようなものだなと想い乍ら・・・



初めての酒

二十歳の諸君!
今日から酒が飲めるようになったと思ったら大間違いだ。
諸君は、今日から酒を飲むことについて勉強する資格を得ただけなのだ。仮免許なのだ。
最初に、陰気な酒飲みになるなと言っておく。酒は憂さを払うなんて、とんでもない話だ。
悩みがあれば、自分で克服せよ。悲しき酒になるな。
次に、酒を飲むことは分を知ることだと思いなさい。
そうすれば、失敗がない。
第三に、酒のうえの約束を守れと言いたい。諸君は、いつでも、試されているのだ。
ところで、かく言う私自身であるが、実は、いまだに、仮免許がとれないのだ。
諸君! この人生、大変なんだ。

これは、かつての
成人の日のサントリーオールドの広告、山口瞳の「人生仮免許」である。

二十歳になったら急に「酒を飲んでもいい」とは、変なことを政府は決めたものだ。
酒を飲むとどうなるかは、子供は子供なりに大人は大人なりに、自分を取り巻く環境からの情報でわかっている筈、ある日突然にそれじゃ飲んでみようかと判断を下すはずだ。
十二才だろうと十五才だろと、八十才だろう、関係ないことだ。
因みに隣にいる酒飲みの男に聞いてみるがいい。
二十歳になってから飲んだ、なんていう奴はひとりもいまい。

私は酒に弱い方だけど、兄たちは底なしであった。
長兄の家には近いから頻繁に行ったものだが大抵は先客があって飲んでいた。
先客と言っても毎晩のように飲んでいる友人たちである。
奥さんもいける方だから毎回賑やかなことはいうまでもないが、飲めない私はいい加減にしろと何回かは途中で失敬したと思う。
次兄は田舎で家を継いでいる。
冠婚葬祭には兄弟ばかりではなく、親戚一同集まるのだが、全員大酒飲みときている。
どうして、ああも長い間、腰が据わるものかと驚く。
不思議なことに長兄の酒宴は気の合った連中せいか、酒が無くなれば「ないよ」で終わってしまうけれど、田舎の場合はなくなったではすまされない。
子供たちが買いに走らせられるのである。
大変なのは奥さんで、燗をつけたり、そろそろ徳利が空になる頃かと気を遣ったり、料理だって同じものをずっと置いておくわけにもゆかないわけで、こまごまと動かざるを得ないのである。
この田舎の酒宴は長兄の家のように愉快な話は出ない。
ただ、だらだらと長いだけである。
やはり私はいたたまれなくなる。

一番上の姉の旦那は安正だからヤマちゃで通っていた。親戚の中でヤマちゃだけ酒は全く飲めない。
母や姉たち、裏方の話が聞こえていた。
ある時姉に、「赤玉ポートワインなら飲めるかもしれない」と買ってこさせたことがある。
それでも瓶の酒は残ってしまったと。

ポートワインは航海中にワインが腐らない様にブランデーを加えてアルコールの度数を上げたものである。
赤玉ポートワインはどうやって作るのか知らないけれど子供が嘗めてもとろりと甘くておいしい。
赤玉ポートワインのアルコールは14%、日本酒は10から17%だからほとんど同じである。
日本酒は燗をするから、熱燗だとかなりのアルコールが蒸発してしまう。
赤玉ポートワインなら飲めるだろうと考えたのに、むしろ日本酒より度が強かった・・・
ヤマちゃは市役所勤め、飲めなくても飲んでみたくなるようなことがあったのかもしれない。
(寿屋の赤玉ポートワインは、本当は赤玉スイートワインという名前である)

長兄は胃と大腸を半分取り除く大手術をしたあと、医者に酒は駄目だと止められていた。
病院でワインならいいかと聞いたら、「ワインならいい」と言われたといって一升瓶に入った甲州の葡萄酒をしこたま買い込んで飲んでいた。
量の問題だとおもうけどねぇ
それでも術後十年以上も生き延びたのだから、ワインは本当によかったのかもしれない。

私?
高校生の時、何人か寄ってコンパをやろうということになった。
新清酒を一升買って友達の家のリンゴ畑の番小屋に繰り込んで一晩・・・
このあとは言うまい。

諏訪神社の蛙(かわず)狩(がり)神事

今日の夕刊に興味深いコラムがあった。
地上最大のショウ、1952年のアメリカ映画の事である。
サーカス一座の空中ブランコ演者のラブストーリー、私は残念ながらこの映画は見ていないのだが、
この映画のサーカス一座は実在していてリングリング・ブラザーズ・アンド・バーナム・アンド・ベイリーというのだそうだ。
そのサーカス一座が今年の五月で廃業するという。
その理由は象の曲芸が動物虐待にあたると動物愛護団体から批判されたために、昨年五月象の出演をすべて取りやめてしまった。
当然観客は激減ついに廃業に追い詰められたというのである。
ほんとかねぇ
象の逆立ち、トラの火の輪くぐりなどサーカスの目玉である。
そこまでいかなくても動物園では象の書初めなどよくやっているじゃないか。
あれも虐待かねぇ
このコラムを読んですぐに諏訪神社の蛙狩神事を思い出した。
それは数年前から蛙を獲って生贄にするという行為が動物虐待にあたると、
これも動物愛護団体とやらが反対して、そのメンバー数人が神事を妨害する暴挙に出たと報道されたからである。
今年もそれは続いているようだ。
確かに野蛮なことかもしれないが、長い伝統の上にある神事である。
沢山の米がとれるようにと願い真摯に祈ってきた古代からの人々の上にいるのが今の現代人、
その長い伝統に今生かされていることを彼らは理解できないのだ。

さて諏訪神社の蛙狩神事について興味深い古文書がある。

『さて御手洗(みたらし)河(かわ)にかえりて漁猟の儀を表す。
七尺の清滝氷閇(と)じて一機(ひとはた)の白布地に敷けり。
雅楽(がこう)数輩、斧鉄を以て是を切り砕けば、蝦蟇五ッ六ッ出現す。
毎年不闕(ふけつ)の奇特なり。
壇上の蛙石と申す事も故あることにや、神使(おこう)小弓小矢をもて是を射取りて、
各串にさして捧げ持ちて生贄の初とす
諏訪史料叢書 第一巻より

『正月一日、?飯過て大宮へ御参有、蝦蟇?飯過て大宮へ御参有、
蝦蟇有て六人(むたり)神使(おこう)殿(どの)一つゝ射させ申、是は蝦蟇神之例なり、取たる時は御先を開ける、御柱より下を神使殿・神長殿、乱声(らんじょう)と云の二字なり、火を打、丸炎にして神人皆持、又餅を肴にして御酒一献有、
年内神事次第旧記より

『御座石と申は正面之内に在り、件之蝦蟆神之住(すむ)所之穴龍宮城え通(つうず)、蝦蟆神を退治、穴破(やぶり)石以塞(ふさぐ)、其上に坐(すわり)玉(たまいし)間、名を石之御座と申也、口伝之在り、
諏訪史料叢書より

『蝦蟇神大荒神と成り、天下悩乱の時、大明神彼を退治御坐し時、四海静謐(せいひつ)之間、陬波と云字を波陬(なみしずか)なりと讀り、口伝多し、
望む人は尋べし、于(い)今(まに)年々災いを除き玉う、謂に蟇狩是なり、
江戸時代の蛙狩神事
 文政2年、乾水坊素雪著『信濃国昔姿』より

『毎年正月元旦には神前に而蛙狩の神事 是七不思議の其一なり、終わりて大祝勅使殿に昇壇在て、則神前にて行事ありし、蛙を両奉行之内にて大祝の前へ備え置て、後切裂て備(そなえ)え、残る所を持て下殿し上司中にて配分し頂く也、是当社にて第一の神符にして、重し病人に預かしても同便を禁じ野便にさする也、 諏訪史料叢書 第四巻より

神様に備えたものを下ろして戴くものを「ごくう」といった。
私の子供の頃は、お宮から下げ渡された鏡餅などひとかけらずつ各家に配られ、家族中に均等にちぎって押し戴いて食べたものである。
蛙狩神事の蛙は御供となって重病人の薬となった。
重い病人であっても、その糞さえももったいものだから便所ではなく野ぐそにしたとある。これほどの信仰があって今の我々が生かされているのである。
動物を愛することは好いことである。
愛するとは感謝することである。
蛙狩神事を妨害することではないし、それに過剰反応してしまうことでもない。
そんなやからこそは思慮の足りない傍生であるといわれても仕方あるまい。
や、ちょっと言い過ぎたかな、失礼。
古文書では蝦蟇と言っているが、蝦蟇ではなく赤蛙である。
昔はすべての蛙は蝦蟇といったようだ。
赤蛙は私の生家の池にもいた。
よく見かけるトノサマガエルに比べ赤っぽく足の付け根が黄色い蛙である。
あまり大きいのはいなかった。
蝦蟇やトノサマガエルは食えないけれど何故か赤蛙だけは食えるといって焼いて食った記憶もある。
蛙狩神事が何時頃から行われているのか残念ながらわからないけれど、少なくとも二、三百年はつづいているはずだ。
御手洗川のその場所には毎年決まって赤蛙がいる。
きっと前日に神官が埋めているに違いないと思っていたこともあるけれど川が凍りついている年でも氷を割ると出てくるというからやはり七不思議なのである。
この御手洗川は諏訪神社の背後にある山から流れてくるもので山は神域である。
だれも立入ることはできない。
その神域は守屋山まで続いていて、近輪の村では御林(おへえし)といって道もなく近づくこともないのである。
毎年雪が解けると凡そ水のある田圃には蛙の卵塊がびっしりと現れる。
水も温むころになるとオタマジャクシはいたる所にあふれるようになる。
鮒など獲りに行っても網にかかるのはオタマジャクシばかり、いったいあのオタマジャクシは蛙になってどこへいってしまったのだろう。
消えてしまうようにいなくなってしまうのだ
近年諏訪盆地の田圃はめっきり少なくなった。
高速道路が作られ水田は商業施設にかわり僅かに残された土地も荒れ果てた空き地になっている。
諏訪神社の界隈でももう田圃は見当たらない。
それでも御手洗川の蛙は決まって出てくるから神事はつづけられている。
やがて温暖化が進み諏訪神社の神域も枯れるころには蛙はもう生きられないかもしれない。
動物愛護なにがしが虐待だなんて騒がなくても蛙狩神事はできなくなってしまうだろう。
一年に二匹生贄にするよりも吾等一人ひとりが足るを知り無駄をなくして過剰に自然を破壊しないように心掛けることの方が大切なのである。
それまでは続けたい神事である。

生家にいた赤蛙はニホンアカガエルである。
近くの田圃に産みつけられた卵塊はニホンガマガエルである。
諏訪神社の御手洗川にいる蛙はヤマアカガエルでニホンアカガエルよりずっとずうたいがでかい。
蝦蟇といわれてしまう訳だ。
蛙に遊ばされてきた私はどの種もみんな蛙と言ってしまうけれど水量の多い下流にはトノサマガエル、上流にはガマガエルやヤマアカガエル、中間の人家近くにいるのはアカガエルやアマガエルなど小さな奴である。
さてその赤蛙だけれど、(種としてはヤマアカガエル)雌一匹は一冬に1000個以上の卵を産む。
その全部がオタマジャクシになって蛙になると次の年には地上に蛙があふれてしまう。
大半は鳥、蛇、猪などに食われてしまうのだろう。
冬に卵を産んだ蛙は春まで冬眠する。
諏訪神社の蛙は冬眠中であったのだろう。
かくも繁殖力のある蛙でも東京都ではすでに絶滅危惧種のレッドリストに載る。
千葉県でも保護リスト、埼玉県でも準絶滅危惧種である。
彼らの住まう場所を人間が奪っているのだ。
諏訪神社の神域のような場所でなければ生きられない蛙である。
動物愛護家であるならば生贄の二匹を救うのではなく1000匹の蛙を救うことに注力を傾けて欲しいものだ。
矢で射るのは残酷というけれど、小学校の理科ではずっと蛙の解剖をやっていた。
その生徒はいま何らかの不都合を受けて暮らしているだろうか。
今の小学校では蛙の解剖は無くなったかもしれない。
教材が手に入らないだろから。
そのために今の生徒は道徳的でより良くなっただろうか。
物事を残酷に感ずるのは目的がないからである。
映画を見るように物事を横観しているからである。
解剖の目的が学問であると同じように神事という理由を正しく理解しないと残酷に映るかもしれない。
彼らの生活環境を奪ってしまっていることは眼には見えないものだから残酷さは見えも感じもしないのだが、そのほうが余程の残酷なのである。

蛙狩神事は白い浄衣を着た神主二人が御手洗川に降りて鍬でさらって蛙を二匹獲り三宝に乗せる。
しこうして御幣の付いた小さな矢を射て神前に供える。
それも浄衣を着た神主が行っているが、明治維新まではその役目は六人の神使であった。
神使というのは「おこう殿」と呼ばれる十歳ほどの童である。

蛙狩神事に際して神使は大祝を先頭に大行列で前宮から本宮に向かう。
神使六人、大祝(おおほおり)、五官、祗官七十余、氏人数百人の騎馬行列であった。
神使は赤い衣を着、大祝は束帯、氏人は水干、ほかのすべての人は外出するときの正装であった。
行列は前宮を立って高部を通り大宮へ着き,馬から下りて宮中に詣ったあと蛙狩神事を執り行った。
蛙狩は神事であるから見物するようなものではない。
それよりも山道往還の騎馬行列のほうが遥かに見栄えがあったのである。
そんな昔のことを何故見てきたように話すかというと、諏訪大明神絵詞という室町時代の神事の様子を描いた絵巻物の詞部分だけ写した古文書が今に残されているからで、衣装の種類や色までもつぶさに書き留められている。
前宮から高部を経て本宮に向かう道は、旧道だが子供の頃には学校の行き帰り、わざと鄙びたこの道を通って遊んだものである。諏訪大明神絵詞は難解の古文だが名文なので拡大して何回も読んでいると意自から通ずというのか、故郷の山道をるいるいと続く神使の騎馬行列が目に浮かんでくるのである。

「荒玉社若宮宝前ヲ拝シテ、祝以下ノ神官氏人皆衣服ヲタダシクシテ参拝ス、祗官スヘテ七十余輩、氏人又数百人也・・・騎馬ノ行列次第ヲ守テ連続ス、先ズ五官ノ祝(浄衣着ス)、次ニ神使六人(赤衣)次ニ大祝(束帯)後騎ノ氏人(水干)僮僕従ノ類済済タリ、主伴行粧巍々タリ、山道往還ノ貴賤、村里卿党ノ士女、市ヲナシテ見物ス」 と記されている。

この神使というものは蛙狩神事の後、占いで諏訪郡、内外の六地方を決める。
その当たった地方は御頭(おとう)と呼ばれ、いわば神使の当番である。
御頭は十歳ほどの童を二月晦日までに選出し一年を奉仕することになる。
したがって蛙狩神事は昨年の神使の勤めの最後となる。

私の故郷は高部である。
先祖はずっとこの光景を見てきたのである。
大祝、五官の世襲や制度は明治維新によって廃止されて
神事は大幅に省略されてしまったけれど、諏訪の者は絵詞を習い読み昔はこうだったと思いをはせるのが習いなのである。