ユダヤ教とキリスト教との関係

 

 ユダヤ教とは?キリスト教とは?そしてユダヤ教とキリスト教との関係は?
多くの人は、ユダヤ教とキリスト教は異なるものである!と思っていますが、実はユダヤ教とキリスト教は、切っても切れない関係であります。

 まず最初に、主イエス・キリストは、ナザレ出身のユダヤ教のラビであったことを念頭に置き聖書を見て行かなければなりません。

 現在、ユダヤ教はキリスト教のことを「ナザレ派」(ナツリート)と言っているので、ユダヤ教は他の宗教と事なり、キリスト教を身近なものとして見ているのです。

 キリスト教が手にしている聖書(タナフ)は、ユダヤ教の聖典であり、それを借用しているのがキリスト教なので、ユダヤ教の聖典である聖書をユダヤ教の背景を知らずして読み解こうとすることは、一種無謀なことであり、御言葉を正確に読み解く事ができないことにもなるのです。

 ユダヤ教とキリスト教の根本的な違いは、ユダヤ教では「イエスをメシアと認めない」がキリスト教では「メシアはイエスである」と言うことでである。

 現在、日本には多くの神学校があり、将来牧師になるべく勉学に励んでいると思いますが、残念ながら、多くの神学校において、ユダヤ教を深く学ぶ授業がもたれていないことです。

 小生は、まず神学校において、ユダヤ教を学ぶ授業が起こされ、神学生がユダヤ教に目を向けることを期待している者なのです。

 マタイによる福音書27章で、ローマ皇帝ポンテオ・ピラトは、裁判において、イエスという人物がローマ帝国の法律では罪がない(ローマ帝国に対しての反逆)ことが分かり、イエスを赦そうとしたのである。

 しかし、ユダヤの群衆がイエスを十字架につけることを要求(その首謀者は、当時のサドカイ派の一部)し、ピラトは暴動が起こることを恐れ、群衆の要求に答えざるを得なかったのである。

 ピラトは、やむおえず死刑宣告をしたが、その責任は自分にはないことを群衆に告げると「すると、民衆全体が答えて言った、その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」マタイによる福音書27:25とある。

 このピラトの言葉は、紀元4世紀頃よりユダヤ人キリスト者(初代キリスト教会はユダヤ人キリスト者だけで形成されていた)の存在が皆無になり、異邦人キリスト者だけとなっていった時に、イエス・キリストを十字架に掛けた責任は、ユダヤ人全体が負うべきだ!という風潮が徐々に高まり、ユダヤ人迫害が起こっていったのである。

 そして、現在までに多くのユダヤ人の人々が殺害されていったのであるが、殺害に加担した中には多くのキリスト者がいたことも忘れてはならないのです。

 小生も、若かりし頃、ある教会の牧師の発言として「ユダヤ人はイエス・キリストの十字架の血の責任をとることは当然なことである」との事を聞いたことがあり、今でも沢山の牧師達が、ユダヤ人に対して偏見を持っていることを残念に思っているのです。

 ピラトの裁判においての出来事は、その時点でそこに存在した一部のサドカイ派のユダヤ人が発言したことであり、それをユダヤ人全体の責任だと言い切ってしまったことに重大な誤りがあるのである。

 宗教改革した、マルチン・ルターも、晩年ユダヤ人を誹謗中傷し、半ユダヤを助長させたことによって、ユダヤ人迫害が進んだことは否めない事実なのです。

 カトリックの総本山であるバチカンは、2000年3月に「ホロコーストの際にそれを知っていながらにして、何もしないのは間違いであった」と公式に発表したが、謝罪ではなかったので、ユダヤ教徒がこれに対して意義を申し立てたのです。

 聖書を持っている信仰者が、ユダヤ教に対して、ユダヤ人に対しての偏見を持ち反ユダヤてき思想が無い時代が訪れることを望んでいる者です。

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