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2005年7月19日(火)
ホームスティ

 語学訓練のためにウォッジェ島に出発する日。朝起きると、頭痛が治っていて、一安心。10時に空港へ向かう。飛行機の重量制限があるため、マーシャル航空では人も一緒に重量計にのり、重さを測っていく。
 12時に、飛行機が2時間遅れなのをきかされる。さすがマーシャル、こんなのは普通だそうで、飛ばなかったのではないだけ、ましなのだそうだ。
 2時20分に、予定通り出発、しかし、15人乗りの飛行機は、操縦室が見え、冷房は、煙のように出てきて、なんとも言えない物で、その上、ほんのり甘い香りがしていた。
 ウォッジェに着くと、滑走路はもちろん無く草原。やしの木と家が、すぐ側にあった。そして、たくさんの人が見ていた。
 協力隊員が着くと、くじ引きで、誰がどこの家に行くのかを決めていた。私の家は、モールシェンさんになった。おそらく、学校から一番遠い家で、自動車で始め移動した。いきなり、行ったり来たり何をしているのかと思ったら、鍵が無く持っている人を探していたらしい。お父さんとお母さんに息子が3人。4人の娘のうち二人は、マジュロに行っていると言っていた。
家についてから、昼飯を食べ、話しをしていた。そして、散歩に行くといって車に乗り、おそらく葬式をしているのを見ていた。葬式を英語でなんと言うかわからず聞けなかった。
その後、店に入ってコーヒーを飲み、来る人たちに声をかけられたりした。「こんばんは」と言う挨拶を知っている人が何人かいた。
 家に帰り、晩御飯を1人で食べる。一緒に食べないのかと聞いたが、後で食べるといっていた。なぜかは、おいおい聞いていこうと思う。トイレとシャワーを済ませ、1人になった時間は9時半。結構遅い。すると、帰ってくる時間は8時ごろだったと思うが、まだまだ、外には人がたくさんいた。みんな遅くまで起きているらしい。
 そして、これを書いて10時半。遅くまで電気をつけているのはいけないと思ったので寝る事にする。

2005年7月20日(水)
下痢

 語学訓練初日。昨日は、寝る事ができたのが、1時を過ぎていたと思う。最近はふとんに入るとすぐ寝られていたけれど、暑さと違う環境のためか、だめだった。浅い眠りだった。でも、朝は、幾分涼しくなっていた。
 朝8時に起きて、朝御飯を食べる。インスタントラーメンにパンと卵。学校までは、バーバー(パパ)が送ってくれた。自転車で10分くらいかかる。9時から12時まで午前の授業。一旦家に帰り昼飯を食べ、午後は、13時30分から15時30分まで授業。
5時ぐらいまで、何人かで残って勉強をしてから帰った。帰る途中、雨が降ってきて家に急いでいると、店にいたマーシャル人にこっちにこいと声をかけられたので、行って話をしていた。今日会ったミッキーと言う青年は、ノートやテキストに、マーシャル語や英語を書いて説明してくれた。
 晩御飯は、グレープフルーツとコンビーフのスープ。マーシャル語でメーと言って、グレープフルーツだと言っているが、見た目はグレープフルーツに見えない実がある。まあまあ、おいしいスープだった。
後日談:グレープフルーツではなくてブレッドフルーツだった。
 またまた、腹を下してしまった。水が合わないのだろう。その上、そそうをしてしまったが、ここでは、何かは言わないでおく。
 食後に、バーバーと散歩に行き海岸を歩いたが、とてもきれいな砂浜があり、海も、むちゃくちゃ青かった。写真を撮りたいと思ったが持っていなかったのが残念。
 今日も店に行った。ウォッジェに来てからマーシャル語がわからないことを、よく笑われる。英語で説明してくれるのだが、その英語の発音がよく解らなくて、まったく意味が解らない。店で話しかけられたが、また笑われた。しかたないので笑い返している。
 部屋で独りになったのは、8時半だった。勉強をしなさいとマーマー(ママ)に言われた。

2005年7月21日(木)
バーバーの目

 昨日の昼ごはんから、バーバーが一緒にご飯を食べるようになった。なぜかは解らないが、少しリラックスしたのだろうかとも思う。
 バーバーは、とてもよく時間が解っているので、どこに時計があるのかと聞いた。すると、時計はないと言う。では、なぜ時間が解るのかと聞くと、太陽を見ると言う。とても驚いた。よく、何時にするのかということを聞いてくるので、時計を見ているのだと思っていたが、太陽で計っている。それも、学校に9時に行くというと、9時丁度の時間に着くようにできるくらい正確に解っているのである。
 昼飯の時に、授業後、外洋の方へ行きたいかとバーバーが聞いてきた。もちろん行くと答え、授業後に連れて行ってもらった。
 釣りをするらしく、網を抱えていた。海岸を歩きながら、魚がいないと言っている。見て魚がいるかどうかを探している。またまた、驚いた。
 話は変わって、ウォジェの海岸には、日本人が作った。砲台がいくつかあった。海岸沿いに堤防も作っていた。空港になっている空き地も、日本人が作ったらしい。
 今日の夜は、パンの実のフライを食べた。その料理の名前はメーフライと言っていた。その後にご飯を食べるかと聞かれたが、食べられるわけ無く断った。
 写真をとっていいかと聞くと、とても喜んでいた。娘のレジーナは、髪を整えていたほどだ。
 なんか、今日は、頭痛が午後からしていた。

2005年7月22日(金)
食事

 頭痛は治ったけど、肩こりがひどい。体に疲れがたまってきている。
昼ごはんに刺身が出た。刺身は食べないほうがいいと言われていたが、挑戦した。味はまあまあおいしかった。下痢にも、なんか腹の具合は変だがなっていない。晩御飯は、ケーフライ(魚のフライ)だった。これも、なかなかおいしい。でも、量が多いので、いつも残していると、食べるのが少ないと、マーマーに言われてしまった。
 もう1つ、隣のしんごは、早く帰ってきていたのに、お前は遅いなと、これもちょっとおこっている感じで言われてしまった。

2005年7月23日(土)

 うんこが出ない。下痢になって以来、はらはグルグルするのだが、うんこがでない変な感じだ、今度は便秘になった。
 午後、バーバーに釣りに連れて行ってもらった。3人組になって、2人が網を持ち、バーバーが走って網のほうへ魚をおびき寄せる方法で取っていた。今日は、40匹ぐらい取れて大漁だといっていた。前と同じように、海岸から海を見ながら、魚のいる場所を探していた。海に着いた時は引き潮で、かなり遠浅になっていた。30メートルほど沖を2人が歩き、バーバーが動く指示を出し、魚がいるところで、網に向かって走り出した。3人で、魚を集めていた。2時間ぐらい行い、終わるころには、潮が満ちてきていたが、かなり遠浅の海で走って漁をしていた。
 釣りの途中、うんこが出て、一安心だったが、まだ腹の具合はおかしいまま。ほんとに、おなかには注意である。
 夕食は釣った魚。しかし、釣った後、そのままの状態でおいているので、ハエがたかってきてなんとも言えなかった。日本だと、水につけておくとかするのだろうけど、こっちはそういうことはしないようだ。

2005年7月24日(日)

 朝10時に、この国の人たちの習慣で教会に行く。キリスト教の宗派は4種類ある。時間は、大体30分くらい、説教を聴いて歌を歌う。
 昼から海に行った。ずーと透明な海で、所々にある珊瑚に魚がいる。この海のきれいさを見せてあげたいが、ここの生活はきつい。泳いでいると、だんだんと子供の数が増え、一緒に泳いでいた。背中の皮がむけだした。日焼け止めを塗っているが、30分も外にいるとヒリヒリしてくる。
 晩御飯は、メー(ブレッドフルーツ)とエク(魚)をココナッツオイルとガーリックウオーターで煮たスープ。これがなかなかいけた。

2005年7月25日(月)
ニー(ココナッツ)

 よく使われ方の解らなかったニー(ココナッツ)について、バーバーに教えてもらった。英語とマーシャル語での説明を、質問しながら聞いていったのである。全部で2時間かかった。
 ココナッツの呼び方は2種類あって、ニーとワイニーと呼ばれている。ニーは木になっているココナッツの実で、中身が液体で飲む事ができる。ワイニーは落ちてきたココナッツの実で、中身は固形で食べる事ができる。食べる部分はユーと呼ばれている。シャリシャリした食感である。ココナッツの実は三層になっていて、ニーは内側から、ニー、メレ、ラックと言う。ワイニーは内側から、ユー、ワイニー、ラックと言う。ワイニーから、しぼったものがピンネー(ココナッツオイル)、しぼったものを一週間置いてエル(ココナッツミルク)ができる。ピンネーは、身体に塗って、日焼け防止、虫除け、整髪剤。料理の油という使われ方をしている。
ラックは、ワイニーのラックは、洗濯ブラシになる。ニーのラックは、花飾りの台に使う。また、シマンクーと言うコップになる。
 ココナッツの木にビンがつるしてある木がある。これは、新芽の樹液から、シャカルーというお酒を作っている。このシャカルーから、アメダマ(キャンディー。マーシャル語は日本語と同じアメダマ)も作られる。シャカルーを1ヶ月おくとペングーという、強いお酒になるらしい。
 そして、葉から、ルーフ(屋根)アス(家)、ヌクヌク(服)、シャイナイン(座布団)、イエップ(かご)、アベブ・ミイオ(釣り道具)、ジェべ(あみ)、アミモノと、生活用品ほとんどを作る事ができる。ココナッツが、こんなに活用されているとは知らなかった。はっぱの加工技術はすごい。

2005年7月26日(火)
キャベツ

 今まで野菜と言う野菜を食べてこなかった。米と、肉と魚、メーにニー。栄養バランスは、悪悪である。今日始めてキャベツがでた。高校で育てていて、それをもらって来たと言っていた。聞いたところ、他の家は出ていなかった。食事の話を聞くと、わが家は他の家より恵まれているようで、いろいろ食事の種類は多い、マーマーが料理をしっかりしている感じだ。結構悲惨な食事をマーシャル人はしている。

2005年7月27日(水)

 マーシャルに来て初めて、雨の時間が多い一日だった。ずっと降り続いているわけではないが、降ったり止んだりの繰り返しで、途中晴れたりしながら、降る時は強く降ってくる。これが、大洋州の雨の特徴かもしれない。赤道の下でいつも暑そうだが、朝や雨の後は、涼しくなったりする。
 雨や曇っている夜は、本当に真っ暗になる。まったく何も見えない。これが闇かと思った。また、新月の日の星空を楽しみに思った。

2005年7月28日(木)

 学校が終わってからウオッジェ島の端のほうへバーバーに連れて行ってもらった。旧日本軍の作ったものがいろいろある。端には日本人の戦死者のための墓があった。アメリカ軍と壮絶な戦いの末敗れたと日本語で書いてあった。他にも、基地や大砲、炊飯場のあとなど残っていた。日本人が作ったといわれている建物は、ほとんどに機関銃のあとが残っている。また、爆弾で壊された感じの物もある。こんな海のど真ん中の小さい島で、激しい戦いがあったのがよくわかる。
 その後、海に行き、これも日本人の作った桟橋の端っこで海を見ていた。本当にきれいな海で、ずっと見ていても飽きない。いつも写真に撮りたくなって撮るのだが、写真ではこの綺麗さは写す事ができない。

2005年7月29日(金)
遠い国

 この頃、夜は良く寝られるようになった。11時くらいには眠くなり寝てしまう。と言っても眠りは浅い。寄る何度か目がさめる。毎日、日本にいる夢を見る。起きてから、ここはマーシャルなのだと、ボーとしながら考えている。日本から離れて、協力隊としてこなければくる事もなかった島にいるのに、実感がわかず、あたり前のようにここにいる。今までは遠い国と感じていたけれど、そういう感じがしないから不思議なものだ。

2005年7月30日(土)
アミモノ

 午前中に、現地の人にアミモノを教えてもらった。ココナッツの葉をすばやい手つきでサッサッと編んでいく。その手つきは見事。そしていろんなものを作っていく。マーシャルの女性は、みんな覚えているみたいだ。今日、教えてもらったのは、お皿、バスケット、風車、ボール、屋根。
 お皿を作るのに、私は5分ぐらいかかったが、マーシャルの女性は1分かからない。屋根も驚くうちに作ってしまう。葉っぱからいろんなものを作って生活してきた知恵はすごいと思った。
 午後は、協力隊員に絵の道具を持ってきて、関西のおばちゃん達にはやっている絵を描いている人がいるので、その描き方を教えてもらった。作品第一号の絵葉書が完成した。
 お昼ごはんに豚が出た。聞くと、今日殺したと言っていた。何匹いるのかと聞いたら、5匹いて1匹殺したから4匹だと言っていた。ここの家は、犬、豚、鶏、鴨、みんな放し飼いになっていて同じところにいる。餌をまくと、鳥も豚も犬も寄っていく。しかし、喧嘩はしない。豚は、はっきり言っておいしくなかった。くさかった。

2005年7月31日(日)
誕生日パーティー

 昼に、隊員で集まって野菜入りのカレーを食べた。土曜日に、マジュロから送ってもらったのだが、みんなで、久し振りの野菜に感激しながら食べていた。野菜がないと言うのは、ほんとにつらい。
 バーバーの誕生日だった。夜9時ごろから始まり、親戚のグループなどが順番に家に来て、歌を歌い踊り、お祝いの言葉を言って、プレゼントを渡していく。今日の場合、従兄弟や、妹家族、野球チームなど、5グループが家に来た。来た人たちにはご飯を出し、庭で話をしながら楽しんでいた。私も、ラップだラップだと言われながら踊らされた。この島の誕生日の恒例行事のようだ。終わったのは、12時、でもまだ、外で話をしている人たちはいた。